お嫁さん


「トゥーアナ、ちょっと来い」

 扉の取っ手に手をかけたまま、中途半端に開いた隙間から中にいるトゥーアナを呼び招く。
 揺り籠の端に手をかけて、緩やかに籠を揺らしていたトゥーアナは、子守歌を口ずさむその形のまま、顔を上げるとゆったりとこちらに向かって微笑んだ。
 籠の中で寝ているのだろうラルーに触れて、トゥーアナは揺り籠の脇から立ち上がる。目線だけで老侍女に後を任せて、ようやくトゥーアナは扉の傍までやって来た。
「お待たせいたしました。ガーレリデス様」
 どういたしました、と問いながらトゥーアナは小首を傾げる。その軽やかな口調が歌の続きに至極似ていると思った。「ああ」と頷いて、口を閉ざす。
 トゥーアナの手を引いてそのまま二つ続き部屋を抜け、回廊に出る扉の前で立ち止まる。耳をあて、扉の向こうの気配を探る。音はない。それでも用心しながら扉を開け、すばやく辺りに視線を巡らせた。
 何を、と訝しがるトゥーアナに、「しっ」と低く呼びかけて黙らせる。
「実は勝手に抜けてきた」
 そう明かせば、彼女は目を丸くさせ、だが次の瞬間には面白そうにいたずらめいた光をその紫の双眸に宿した。
「ガーレリデス様」
「なんだ」
「こういう時は堂々と出て行ったほうが意外とばれないものですよ?」
 密やかにささめいてトゥーアナは躊躇いもなく扉を開けた。「要は見つかってはいけない方に見つからなければいいのです」と一足先に回廊に立った彼女は振り返りながら、くすくすと可笑しそうに笑う。
「それで、どこに連れて行ってくれるのですか?」
 問いかけてくる、紫の双眸に誘われ、回廊に出る。
 細い彼女の指先は、出会った頃と変わらず頼りない。それがよくもまぁ、ここまで、と時折彼女の大胆さに感心する。
 手繰り寄せた指先に口付ける。そう、しようと思ったら、堪え切れず噴き出してしまった。喉の奥からせり上がってくる笑いをできり限り殺して言う。
「見せたいものが、ある」



 トゥーアナを連れてきたのは、今ではほとんど倉庫と化している部屋だった。それが一体、いくつの部屋に跨っているのか、把握している者はここの管理者くらいだろう。
 宝石をはじめとする美術品の類から、剣や盾、鎧といった武具まで、歴代の王族に愛用された由縁の品々が雑多に収納されている。
 今では誰とも知れぬ人物画も、陽の当らぬ物陰にひっそりと立てかけられていた。
「すごい、ですね」
「ルメンディアもこんなもんだろ」
「まぁ、……そうですが」
 もう少しきちんと管理はしていましたよ、とトゥーアナは呆れた口調で言う。
「先代も先々代もこういう方面に興味が薄くてな。見かねた母が整理しようとしたらしいんだが、あまりの数に匙を投げたそうだ」
「そう仰るガーレリデス様も、あまり興味はないようですね」
「まぁ、勝手に持っていかれても困るからな。一応、人員は割いているぞ?」
 やたらとある壺と彫刻の群列を通り抜けて、次の間に入る。他の部屋に比べると、格段に整理された衣裳群の中から目当てのものを引っ張りだした。
「これだ」
 青味がかった色合いの婚礼衣装は、時代遅れな上に幅広な造り故に、華やかさは欠くが。
「母のものだ。俺の母は随分と体格がよかったからな。ルメンディアのことを聞くまでもなく、これをトゥーアナに、というわけではないが」
 腰の辺りにひっそりと縫い付けられた花飾りの一つを、ぶちりと取り去る。横で驚いているらしいトゥーアナが飲んだ息の音が聞こえた。
「これを」
 取り去ったばかりの花を、トゥーアナの前に差し出す。
「母から聞いていたんだ。ここでは代々、王妃の婚礼衣装から意匠を一つ、貰い受けるのが通例らしい。母は、これを貰ったと」
 言いながら、胸元を飾る刺繍を示す。糸も先々代の王妃の婚礼衣装から引き抜いて、同じ刺繍飾りを施してもらったと聞いていた。衣装が幅広い分、糸が足りずに困ったと、笑っていた母の声を懐かしく思う。
「生憎母はいないから直接渡してやれなかったがな。ルメンディアのものに縫いつけるわけにもいかないし、これは記念に取っておけ」
 薄青の花をトゥーアナの手に握らせて、「さぁ。これで用は終わりだ」と諸手を上げる。そろそろ戻っておかないと、怒りくるうだろう奴の小言の時間が倍増してしまう。
「……よいのですか?」
 手に乗せた花をじっと見つめたまま、トゥーアナはぽつりと零した。
「うん? ああ。よいも何も貰ってもらわないと困る」
 淡い金色の髪の頂を、ぽんぽんと叩く。
 見上げてきたトゥーアナは、なんとも奇妙な顔をしていた。
 ありがとうございます、と彼女は花を胸に抱いて、柔らかに微笑する。

 こちらでの式典の婚礼衣装につけてもよかった、と気付いたのは、やはり長引いている小言の最中のことだった。