椿は冬の終わりから度々家にやって来てはたわいもない冗談を繰り返す男が、一体何者なのか本当のところを知らない。

信じていて、
私にもそんなときがあるってこと



 山間の木に纏わりついて咲く藤が、盛りを迎えていた。新緑萌える山の至る場所で薄ぼんやりと浮かび上がる。遠目にも藤の淡色が確認できるそんな春の終わりのことだった。



 冬の終わりからこちら。ひどい時には日もあけず、人の都合も考えずに家に押しかけてくる朔はやたら神妙な顔をして、「椿」と門前に立つ彼女の名を呼んだ。
「二十日ほどここには寄れないけど心配しないでね。月の終わりまでには戻るから」
「はぁ」
 気の抜けた相槌を返して、椿はついと眉根を寄せた。それがどうしたというのだろう、と考えを巡らせながら、真正面に立つ男を見上げる。
「だから何、という顔をしているね」
「そう、思いますから」
「お土産はちゃんと買ってくるよ?」
「結構ですよ、そんなもの」
「遠慮しなくてもいいのに。僕と椿の仲でしょう」
「どんな仲も何も、あなたがやたら押しかけてくるから門の前で対応していただけじゃないですか」
「うん?」
 わかったのか、わかっていないのか、妙な頷きをしながら、朔は目元だけで笑った。くしゃりと子どものように前髪を撫でられる。椿は咄嗟に己の前髪に手を伸ばしたが、彼女が男の手を払うよりも早く朔の不格好な手は傍から離れた。
「あんまり無理しないようにね」
 言いながら、彼は椿の答えを待つ。
 何やら別れの言葉のように、椿には聞こえた。彼女が纏う名の花の災厄を、彼女自身が一番よく知っていたから。咲き乱れる紅い花に引き寄せられてやって来たこの男は、椿が関わりを望まずとも、災厄に見舞われるのかもしれぬ、と。
 鳴りやまぬ動悸を握りしめて、椿は密かに息をついだ。
「気を、つけて」
 顔はとても上げられなかった。椿の視線のその先で、身じろぐように朔の足先が、じゃり、と砂を踏む。山から降りた薫風が常緑の垣根をざわめかせた。
 うん、と答えるその落ち着いた声と同時に、前髪に先と同じ重みが落ちて、離れる。
 やがて踵を返して、行ってしまった男の姿を椿はついぞ見送ることはできなかった。



 あまりにも頻繁に家を訪れるものだから、椿は観念する形で朔の対応をするようになった。
 気まぐれのように、結婚話を持ちかけてくる。それは、最早挨拶のようで、最初に出会った時分のように動揺することもない。



 ひょこりと、門の合間から顔を覗かせた男の姿に、椿は箒の柄を握りしめながら立ちすくんだ。
「椿?」
 月の終わりに戻って来ると言った男が、宣言通りに月の終わりに帰って来た。言わば、たったそれだけのこと。
「どうしたの」
 許可を与える間もなく、問いながら勝手に門の内へ入りこんできた朔は前に会った時とどこも変わらぬように見えた。
 目の前に立った朔を、椿は見上げる。
 少し、日に焼けたかもしれない。
「椿?」
 訝しみながら注視してくる朔の手の甲に、椿は手を伸ばしていた。触れて、安堵する。よかった、とてらいもなく思った自身に気付いて、椿はひどく動揺した。
 ぎゅ、と思わず触れていた朔の手をそのままに握りこんでしまえば、問う視線が降り注ぐのが相手の顔を見ずともわかった。
「お」
「お?」
「……お帰りなさい」
 顔を伏せたまま絞り出した声が、震えた。言葉尻が誰が聞いても震えていたことに、居たたまれなさが増して、椿はますます握りしめてしまった朔の手を誤魔化すようにひっぱる。
「あの、お茶くらい出すから」
 ふいと、顔を背けて椿は家に向かって歩き出す。呆気にとられたまま半ば引っ張られるようにして、椿の後についていった朔は先を行く彼女の姿に目を留めたまま「何今の」と零した。
「何今の。何今のかわいい」
 椿は、声にならない悲鳴を漏らす。
「椿、もう一回。もう一回言わない?」
「~~っ!」
「ねぇ、もうほんと、早いとこ椿が嫁に来たらいいのに」
「ううううるさいっ!」
 緩やかに、足早に季節は変わる。
 雨も間近になった杜若の花咲く頃。朔がはじめて椿から茶を出してもらったのは、明るい初夏の日差しの下だった。

椿
縁側でのひとりのろけ合戦はじまりです。