オランリとアルヴィアナ


 だんっ! と。
 壁に打ちつけられたのは彼女ではなく彼――つまり、傍から見れば誠に不甲斐ないことに私であるわけなのだが、そんなことは心底どうでもいい。
 にんまりと、性悪く吊りあげられた紅い唇。さながら光の兄弟レーグラスを暗い海底に突き落として闇神に変えたという悪神ミルベラスはこうやって、海に引きずり込まれるレーグラスをあざ笑っていたのではないかとか、それはさすがにミルベラスに対して失礼すぎるだろうかとか。
 そもそもどうしてこんな状況に陥っているのかを説明すべきなのだろうが、もう思い出したくもないので省略したい。それ以前に、この女について思考の一部でさえ浪費させるのは不愉快極まりないので省略したい。
 と言うわけで、省略。
 この現状を打破することが最優先事項である。
 眼前――むしろ、鼻先と言った方が正しい位置に迫った濃い赤の双眸。後ずさろうにも背後は壁。これ以上、下がる余地はない。
 全く、一体誰がこんなところに壁をつくりやがった。
 ルビーよりも暗い翳を含むガーネットが、至近でゆったりと愉快そうにまたたく。
「どうして逃げるのかしら、オランリ殿?」
「逃げたいからに決まっているだろうが!」
「あら。それが、愛しい愛しいコンヤクシャを前にして言う言葉?」
「誰がいつどこで何時何分に愛しいなんて言った!? 今すぐにでも、婚約者を辞退したい気持ちでいっぱいだ、アルヴィアナ」
「そう? 婿養子に入ってエスピア家を継ぐのは、貴方にとって、損なことだとは到底思えないけど」
「エスピア家よりも、お前と結婚した方が損するということだな」 
「つれないわね。宰相殿の若き日の過ちを共有し合った仲じゃないの」
「そのおかげで、どんな目にあわされたと思ってる」
「あはは。それは大変だったわね。だけど、ワタクシ、きっと献身的なオクサマになれると思いますわよ?」
「献身的な奴は、こんなことしない」
「こんなこと?」
「脅したり追い詰めたり脅したり追い詰めたり脅したり追い詰めたりとかはしないということだな!」
 ひぃ、ふぅ、みぃ、とアルヴィアナは、か細い指を折っていく。ちょうど六つ分数え終えたところで、顔を上げた彼女は「あぁ」とあまりにも壮絶に破顔した。
「まるで私みたいね」
「どう考えても、お前しかいないだろうが、アルヴィアナ」
「ふふっ。嬉しいわ。ありがとう。今日もアイシテルわよ、オランリ」
「待て。何がどう転んだら、そうなる!」
 あら、と彼女は小首を傾げる。
「分からない? 貴方といると飽きなくて楽しいわ」
「つまり、からかうのが楽しいと」
「そうとも言うわね」
 あっけからんとアルヴィアナは認める。その潔さは、私に対してかなり失礼だと毛ほども思っていないからなのか。そうだろうな。そうに違いない。
「おっ前は……少しはエリィシエル姫を見習ったらどうなんだ?」
 まぁ、見習ったところで、この女の性格がどうなるとも思えないが。ちょっとくらいましにはならないだろうか。いや、無理だな。ならないな。逆に気味が悪いこと請け合いだな。
「なるほど。あの子が、好みなわけ」
 へぇ、とアルヴィアナは赤い瞳を糸のように細める。「それはそれは」と彼女は指を自身の顎先にかけて品よくごちた。
「それじゃあ、全く以って私とは正反対ね?」
「だから、お前のことは嫌いだと常々言っているだろう」
 まるで子どもの言い分だ。拗たようにも聞こえる響きは。だが。しかし。拗ねたくもなるだろう、しかめつらをしたくもなるだろう――心の底から嫌いなものが目の前に突きだされたら。突き飛ばして逃げなかっただけ、偉いということにしておいて欲しい。
 首を反らせて、さらに突き出された女の顔。つい顎を引いてのけぞったら、壁で後頭部をしたたかに打った。痛い。至近にありすぎる彼女は、ちんけな擬音を使っていいのなら、『うげぇ』と思う。
「まぁ、別に? 私は、あのお姫様のように綺麗でもないし? あのお嬢様のようにつつましくもないし?」
 宣言にも似た断言。鼻で嗤いながらアルヴィアナは囁く。それは、彼女らに対してと言うよりも、自身に対して向けられたものに見えて――こいつは阿呆かと思った。
「何を言ってる。容姿だけなら、充分綺麗と言われる分類に入るだろう。自分を貶めて何がしたい」
 あれか。隙でも狙っているのか。それは残念だったな。生憎、その手には乗るつもりはないぞ。
 けれども、アルヴィアナは、あはは、と噴き出した。何がそんなに可笑しいと言うのか。相手が腰を曲げ、前かがみになったかと思うと、遮断する間もなく彼女の額が肩口に押しつけられた。広く開けられた華奢な背が、小刻みに打ち震えている。
 ――こいつ、完全に腹を抱えて笑っていやがるなっ。
「アルヴィ、」
「これだから、馬鹿正直って好きよ?」
 茶目っけを淡と含ませて、顔を上げた彼女は顎を上向きにさせる。稚気な仕草に関わらず、少女らしさのかけらもない。大人の女だ。何も垣間見せない。意味が分からない。
「馬鹿にしているのか?」
「違うわよ。今、思いっきり褒めたじゃないの。馬鹿正直が好きだわって」
「あのなぁ」
「アイシテル」
 鼻先に寄せられた紅い唇。頬の表面を辿る細い指。時間をかけて目の前で開かれていった丸くて赤い二つの眼は毒々しい血そのもの。
 女の長い指の爪先が意図なく当たって皮膚を苛む。ぞわりと肌が泡立った。侵食される感覚は純粋な恐怖に拮抗する。
 本当に何がしたいんだ、こいつは。人の背を凍らせて何が楽しい。
「――と言うか、だな。……いい加減離れろ。近い!」
「なら、いい加減何か面白おかしい話を教えてよ。できれば失敗談なんかがいいわ。そうしたら、解放してあげる」
「あのなぁ……」
「何かしら。イトシイコンヤクシャ様?」
 勝ち誇ったように顔を反らして見上げてくるアルヴィアナを見下ろす。ぴたりと添えた手を離す気はないらしい。拘束力は正直緩い。だが、嘆息なんかしてしまったら最後、爪を立てられるのは間違いない。
「アルヴィアナ。あんまり奴の邪魔をしてやるな」
「心外ね。無邪気に応援してあげているというのに。したくもなるでしょう? 昔から、彼を見ていた者なら」
 だから、いろいろと手を貸してあげてるんじゃない? と彼女は口元を綻ばせる。
「貴方も同じでしょう? 嫌い嫌い言って、それでも私に忠告してくるくらいなら。早く大々的にくっついちゃわないかしら。そうしたら、陛下もあとがなくなって、あっちもこっちも万々歳じゃない。ねぇ?」
「…………お前は、それでいいのか?」
「何が?」
 迷いもなく返された問い。あまりにも真っ直ぐに向けられた何の変哲もない簡素な返答に、たじろいだのはこちらの方だった。言葉を濁すと、くすくすとささめきに似た笑声を漏らされる。
「愛していないわ、好きだけれど。本気かそうじゃないかの境くらい自分で見分けがつく。
 ――見くびらないで。あの人を立ち直らせたのは、他の誰でもない、この私なのだから」
 女は、毅然と左手を胸に押し当て、自分自身を指し示す。
 だから、といきなり胸倉を掴まれた。ずっこけそうになった体を、爪先で踏ん張り何とか留める。本当に何の恨みがあるんだ、この女。
 思い切り半眼してやったら、アルヴィアナは涼しげな顔で微笑した。
「お前、いい加減に――」
「私は、貴方をアイシテル」
 それはゼッタイなの、と彼女は耳元で囁きを残した。