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くぐりの垣根



「椿、椿、ちょっとおいで」

 朔は、ふと滲み出る笑みを押し隠してつい先日彼の妻になったばかりの少女を呼び招く。
 垣根の向こう側にいる彼女は、きっと彼の姿を見つけることができなかったのだろう。葉の隙間より見える椿は、あちらへ、こちらへと首を巡らせ、怪訝そうな顔をしている。
ついたち? どこ?」
「椿、こっち、下の方」
 足元近くの緑の中に、にょっきりと生えた腕。椿はぎょっとして後ずさった。続いて、朔の首が垣根に生えたものだから、彼女は「ひっ」と喉を引きつらせ、持っていた竹箒にしがみつく。
「ね、椿」
 朔が椿に呼びかけると、彼女はより一層竹箒にしがみついた。
「ななななな何!?」
「そんなに恐がらなくても……」
 彼が腕を伸ばし、辛うじて椿の着物の裾を掴むと、彼女はあろうことか「だって、恐い!」と抗議してくる。
「大体、どうして椿が掃除してるのさ」
「――やぁっ、やぁっ、離して!」
「ま、待って、椿。さすがに箒を振りまわすのはやめようか! 引っ張るのやめるから!」
 朔は、ぱっと彼女の裾から手を離す。
 垣根から消えた腕と首に、椿はなおも竹箒を握りしめながらも、怒らせていた肩をほっと落とした。
 荒れていた呼吸が次第に引いていく。朔は、それを見計らって、再度、椿に声をかけた。
「……落ち着いた?」
「…………た、多分」
「あんね、椿。ここ、道が繋がってるんだ」
 先と同じように垣根から腕を出した朔は、椿に向かってひらひらと手を振って見せる。
「葉が重なっているから気付きにくいけれど、結構大きな穴が開いてるんだよ。子どもの頃、よくここから外に出て遊んでいたんだ」
「朔が?」
「そう。秘密の抜け道なんだ」
 まぁ、さすがに今は出入りできないけど、朔は苦笑を洩らす。
「椿くらいなら通れそうかな、と思って」
 だから、ちょっとおいで、と彼は彼女に手を伸ばす。
 椿は数瞬、逡巡したが、結局竹箒を地に置くと、朔の手を取った。葉を掻き分けた垣根には、なるほど、彼の言う通り、ぽっかりと大きめの穴が開いている。本当に通れるか否か、危ういといった感じの大きさだ。
 垣根の穴越しに、朔と目が合う。
 手を引かれるがままに、椿は垣根をくぐった。

* * *

「――つ、朔っ! 笑ってないで何とかして」
 見事に垣根の穴にはまってしまった椿を見て、朔は腹をよじって笑い転げた。
 一体どうしてこんなことになってしまったのか。この状況はあまりにも情けなさすぎる。もしも姑や舅に見られてしまったら、恥ずかしくて死んでしまう、と椿は地面に真赤な顔を押し当てた。
「心配せずとも、助けてあげるから」
「当り前でしょう……!」
 椿が弱々しく助けを求めれば、朔は「うん」と頷き応じる。ばきばきと手早く垣根の枝を折り、穴を広げた朔は、彼女の身体が傷つかぬようにと用心して垣根から引っ張りだした。
 悪かったね、と朔は椿を抱きとめる。
 彼女の細い髪はどうしても枝に引っ掛かってしまったのか、ちらほらともつれてしまっている。
 朔が彼女の肩を引き寄せる腕に力を込めると、椿は惑うように彼の胸に額を寄せた。
「あーあ。秘密の抜け穴が、ただのボロ穴になっちゃったね」
 葉が覆いかぶさり隠れていたはずの穴は、今ではぽっかりと空間が開いおり、傍から見ても抜け穴の存在が丸わかりだ。
 朔は、かつての抜け穴の残骸を眺めやって、小さく嘆息した。
「ご、ごめん」
「そうじゃなくて。気分転換にいいと思ったんだよね。椿と、この家から、ちょっとの間、離れること。疲れるでしょ、この家に一日中いると」
「そんなことない。お義父上も、お義母上も、とても優しい」
「だけれど、慣れないうちは、息の詰まることもあるでしょう? 椿にとっては、まだ他人の家に近いだろうから」
「――そんなことは」
「そういうものだよ、はじめのうちは。誰にとっても」
 椿の先を制して、朔は言う。
「だから、こっそり抜け出して、椿の家のあの縁側に行くのも気晴らしになるかと思った。まぁ、長くても日暮れまでだけど」
「…………」
「気になるでしょう? 椿のお母上が、おばば様が。ここから、人をやったとは言え、椿はその後の様子を知らないからね」
 小刻みに肩を震わせた椿の耳に、朔は口を寄せる。
「無理しなくていいよ。心配なら心配だと言いなさい。無理に気を紛らわそうと掃除しなくていい。だって、仮にも僕の奥方がこの家で箒を持ってると、逆におかしいことになっちゃってるし。ね、いつだって連れ帰ってあげるから」
 椿は、くぐもった声で呻くように頷いた。「よろしい」と、朔は酷く柔和な声で頷く。
「文句は僕が受け持とう。まぁ、うちの親は、どうせ僕が無理に連れだしたのだとしか思わないだろうけどね」
 なら仕度に戻ろうか、と朔は椿に呼びかけた。
「さすがにこの格好であっちに行ったら、逆に心配されそうだ」
 だって泥だらけ、と言われて朔から慌てて身体を離した椿は閉口した。もちろん己が泥だらけなのは分かっていたのだが、やはり朔の衣服まで泥に塗れてしまっている。
 彼女は無言のまま対する朔の着物を、はたはたとはたいてみたが、あまり落ちたようには思えない。
「椿。いいから、一度戻るよ」
 はい、回れ右ー、と椿は朔に身体をくるりと垣根の側へ向けられる。
「ちょうど前にもまして抜け出しやすい穴が開いてしまったことだし、塞がれる前に、早々に抜け出すとしよう。着替え終わったら、即刻ここに集合すること。以上。解散!」
 笑って、朔は、椿より先に垣根の合間をくぐり抜けた。
 屋敷の敷地に戻った朔に向かって、残された椿は「ありがとう」と呼びかける。けれど、聞こえなかったのか、ちっとも振り向きそうのない背に、椿もまた急いで抜け穴をくぐると、彼の後を追いかけたのだ。