懐郷 07


 かちゃん。
 乱暴に投げだされた匙が卓上で跳ねる。耳ざとくその音を聞きつけたカヒルガイは、器用に眉を跳ねあげた。はす向かいに座す頬のこけた女を睨みつければ、彼女はうんざりとした表情で椅子に凭れかかっていた。やせ細った女の目の前の皿にはまだ半分以上の料理が残っている。あまつさえ溜息までついたシィシアに、カヒルガイは堪らず呼びかけた。
「おい」
 シィシアは、鬱陶しげに顔を上げる。それがまたカヒルガイの癇に障った。
「――まだ残ってるだろ。ちゃんと食べろよ」
「無理。もう入らない」
「お前がそう言うから、大分量を減らしてあったろうが」
「それでも入らないものは、入らないんだから仕方がないだろう?」
 シィシアは、首を傾げる。開き直っているようにしか見えない彼女の態度に、カヒルガイはますます憮然となった。
「わがままは、その体型をどうにかしてから言えよ。それじゃ鳥がらと変わんないぞ」
「別にそれならそれで構わないよ」
「あんなぁ!」
 声を荒げた青年にシィシアは目線を配る。途端、ぎくりと身構えたカヒルガイを目に留めながら、シィシアは億劫そうに「だってさ」と肘掛に頬杖をついた。
「明日も明後日も嫌ってほど食事が用意されてるんだ。無理してまで食べようとは思えない。出ないって分かってるんなら、無理にでも詰め込んであげるけど」
「へ、減らず口叩く暇があったら、その口動かしてちょっとでも腹に入れようとは思わないのか」
「思わないね」
 煩わしい、とばかりにシィシアは青年から視線を逸らす。瞬間、カッと顔を赤らめたカヒルガイは衝動的に席を立った。
「まぁまぁ、お兄さん。落ち着きなさいな」
 水差しを手に、食卓の合間をまわっていたクニャは、ころころと笑いながら、シィシアとカヒルガイの間に割って入った。豊艶な肢体に目に鮮やかな黄緑の衣服を緩やかに纏った妓女は、カヒルガイの右側に回り込むと、背後から彼の杯に水を注ぎ足す。
「お嬢ちゃんに悪気があるわけではないのよ」
 クニャは傾けていた水差しの注ぎ口を元に戻すと、カヒルガイに笑いかけた。途端、大人しくなった青年の肩に妓女は指を這わせる。
「お兄さんにだって、食欲がない時はあるでしょう? それと同じですよぅ。ね。怒ったって無駄。お嬢ちゃんが食べられないって言ってるんだから、ここで止めておいた方がいいの。じゃなきゃ、吐き出しちゃうのがオチですよ? それじゃぁ結局なんにも残らないでしょう?」
「そう、かもしれない、けど」
「かもじゃなくて、そうなのよ。心配しなくったって、じきに食べられるようになりますよぅ」
「別に心配はしてな」
「はいはい、座って座って」
 妓女はぽんぽんとカヒルガイの肩を叩く。軽くあしらわれてしまったカヒルガイは、腑に落ちない気分を味わった。しかし、この年上の妓女をやり込めるだけの言葉を見つけることなどできず、口をつぐんで席につく。それをまた真向かいの座るシィシアが、呆れたと言わんばかりの顔をして見るものだから、カヒルガイの居心地の悪さは相当なものだった。
 カヒルガイはむすりと無表情を保ったまま、大皿に盛られていた鳥肉に手を伸ばす。彼のすぐ真横で椅子が引かれたのはちょうどその時だった。
族長(カーリア)
 いつの間に食堂へやって来たのか。どかりと椅子に腰を落ち着けたエイディルダブラカーリアに、カヒルガイは慌てた。
「なんだ、カイル。お前、ちっとも食べていないじゃないか。先に食べておいていいと言ったはずだろう」
 王は独自の調子で年若い青年に苦言を呈し、手近にあった平パンに手を伸ばす。二人の背後でやりとりを見ていたクニャは、ぷっと吹き出した。
 カヒルガイは口を開く。が、結局、今度もまた言い返せなかったカヒルガイは、鳥肉を食べることに専念することにした。
 エイディルダブラカーリアは、既に鳥肉が乗っている青年の皿に平パンを重ねる。カヒルガイが物を言うよりも早く、王はさらに煮豆を平パンの脇に重ね置いた。
「お前、ちっこかったんだから、もっと食べろ」
「一体いつの話をしているんですか!」
「何言ってる。ほんの最近ことだろうが」
「違いますよ! ちびだったのは子どもの時だけです」
「だから今と変わんないだろ」
族長(カーリア)!」
 王と青年は賑やかに問答を始める。傍目からは、青年が喰ってかかってくるのを初老の男が軽くいなしているようにしか見えない。「これとこれも食べろ」と次々にカヒルガイの皿に料理を重ねていく王の姿は、そう珍しくはない光景だ。『おや、またやっている』と食堂に集まった者たちは、互いに苦笑しあって、それぞれの歓談に戻っていく。
 クニャも手際よく王の杯に水を注いでしまうと、密やかにその場を離れた。今しがた食堂から出ていった人物の姿を目で追いながら、クニャは自分と同じように食卓をまわっている妓女仲間に水差しを押しつける。後は見向きもせず、クニャは急ぎ食堂を出た。
「お嬢ちゃん!」
 クニャは回廊のいくらか先で、目当ての人物の背を見つけて、呼びかける。壁に手を添わせて歩いていたシィシアは、立ち止まると首だけを巡らせた。この様子だと、ほとんど寄り掛かっていないと歩けはしないのだろう。追いついたクニャは腰に手をあてて怒りたいところを、シィシアの背に腕をまわして支えることで諦め、彼女の歩行を補助した。
「もう。あんまり勝手に動かないでよね。どうせお嬢ちゃん、座りこんじゃうんだから。見つけに行くのはなかなか手間なのよ?」
「あぁー……ごめんね。けど、もうほんとに今は入らないから、今の内に抜け出してしまおうかと思って」
「なら、一声かけなさいよ、一言。大体、食事ならあたしたちが部屋に運んであげるって言ってるのに、わざわざあんな遠いところまで出るから」
「うん、そうだね。気を付けるよ」
 シィシアは、クニャの先を遮って、最近周囲で増えつつある小言を終わらせる。まだ何か言いたそうに、シィシアをじとりと睨んでいたクニャは「まぁ、いいわ」と肩を落とした。

* *

 扉に背を預けて部屋の主が帰って来るのを待っていたダンは、隣で同じく扉に背を付け、座り込んでいる少女に目を落とした。待ちくたびれてしまったらしいラーヤは、持ってきた衣服を大事そうに抱え込んで口を尖らせている。
「遅い遅いおーそーいー」
 暇だわ暇だわ暇だわ、とラーヤはもう何度目になるか分からない文句を繰り返す。足をぱたぱたと動かして、少女は「ふぅ」と溜息をついた。
「せっかく急いで持って来たって言うのに、どうしてシィシアはいないのよ」
「たぶん昼食だと思うよ。もう少しで帰って来るんじゃないかな」
「ダン。それもう三十回目。さっきからそう言うけど、ぜーんぜん帰って来ないじゃない」
「なら、歌の練習でもしておいたら?」
「いやよーぅ。だぁって、いくら練習したって、あんたがヒュンテを弾き始めたら、みーんな、そっちに行っちゃうじゃない。なんであんたそんな無愛想なのに、人が集まるのよ」
 ラーヤは、技芸団の仲間である青年を睨みつける。団員の皆が、それぞれ一芸に秀でている中で、ラーヤはまだ自分の磨くべき芸が見つけられずにいた。にも関わらず、自分と三つしか歳が変わらぬダンの方は、早々に五弦の楽器ヒュンテを弾きこなして、皆に認められている。年齢的には下っ端だからラーヤと一緒に雑用もこなしているが、他のどのヒュンテ奏者よりも彼のヒュンテが勝っていることは、五弦をつまびくダンの周りに集まる観客の数を見れば明らかだった。
 ずるいわ、と半ば八つ当たり気味にラーヤはぼやく。ダンは困ったように頬を掻いた。ラーヤが懸命に睨んでいる石は、一体どの石なのだろう、と彼は少女から石壁に目を移す。
「だって、俺は歌じゃラーヤたちみたいに高音が綺麗に出せないから」
「でも、あたし、こないだ、シィシアの前で思いっきりその高音を外したわ」
 少女が言っているのは、クニャの発案の元、シィシアの部屋で許可もとらず勝手に開いた宴ことだろう。
 歌でこそ聞き知っていた『隠し姫』のシィシア。セイディルアの王によって幽閉から解放されたばかりの彼女を楽しませなければならないと、いつもよりも肩肘を張っていた技芸団の緊張を和ませたのは、歌の一番手――ここぞという見せ場で声を裏返らせたラーヤだった。
「笑ってくれてたよ」
「馬鹿みたいに外れたからよ」
「そうなの?」
「……多分」
 ダンの方を伺い見たラーヤは、けれどもすぐに彼から顔を逸らして、膝小僧に顎を埋めた。
「今度は、舞いにするわ」
「ヒュンテにする時は言って。作ってあげるよ」
「いやよぉ。ヒュンテだけは絶対いや。敵いっこないもの」
 それきり黙りこくってしまったラーヤに、ダンは苦笑する。
 ふと何気なく目先を左に逸したダンは、回廊の奥に見え始めた人影に気付いて「ラーヤ」と少女へ呼びかけた。
「今夜の宴、俺に任されたんだけど」
「そういえば団長がそう言ってたわね」
「何の曲がいいと思う?」
 ラーヤは弾かれたようにダンを見上げる。朝日の色をした少女の双眸には、にわかに期待が浮かんでいた。だが、同時にそれを悟られたくないのだろう。意識的に眉根寄せたらしい彼女の表情は、とても奇妙なものだった。
「あたしが選ぶの?」
「そうしてくれると助かる」
「あの、ねっ。じゃぁ、あれがいいわ。星屑を集めてまわった男の話」
「それでいいの?」
 珍しい要望に、ダンは虚を突かれた。勢い込んでラーヤが告げた曲は、すべてが単音で構成された短曲で、何の技巧も必要としない。いわば練習曲の類だ。聞けば総じて恋唄が所望されることの多いダンにとって、これほど意外な選曲はなかった。
 ラーヤも、ダンの疑問を察したのだろう。「だぁって」と彼女は、口を尖らせた。
「あんたのヒュンテはあんまり上手すぎるから、恋唄だと苦しくって仕方がないのよ。だから、星集めの話くらいがちょうどいいの」
 言って、ダンから顔を背けたラーヤは、「あ」と声をあげる。
「クニャ姐さんとシィシアだわ」
 やっと来た、と喜色を顕わにして、立ち上がったラーヤは裾を手で払う。
 持ってきた衣服を脇に抱えて、ラーヤは近づいてくる二人に向かって待ち遠し気に手を振った。