勘違いは続くよどこまでも



 全ては奏多の呟きから始まる。

 のりと依月を誘って、いつもの喫茶店を訪れていた奏多が「最近有馬さんと会えないんですよね」と、運ばれてきたばかりのパフェをつつきながらぼやいたのだ。
 彼女の表情がどこか暗く、愁いを帯び、しかも悲しげに、へたすると泣きだしそうに見えてしまったのは、三人にパフェを運んだウェイトレスのお姉さんを始め、彼らの周辺にいた店員さんたちが、ホワイトデーから続く勘違いフィルターを通して奏多を見てしまっていたからであった。
 とにかく全従業員で絶賛大勘違い中だったところに、奏多のこの呟きである。奏多本人はいたって「明日の授業、道徳があるらしいね」くらいのノリ――つまり、日常の会話の中でも結構ほっといてもよさそうな話題と同列のノリで言ったのだが、完全に“有馬くんと魔女子ちゃんはやっぱり付き合っているらしい”フィルター越しに見たり聞いていた店員さん達には、奏多の姿が彼氏に会えない寂しさで胸がいっぱいはち切れる寸前。ともすれば、毎夜一人涙を流しているのだろう恋する乙女の姿に見えたのだ。
 とんだ大勘違いフィルター。彼らは奏多の発言を『まさかまさかの破局危機!?』と取った。
 とにもかくにも由々しき事態である。もちろんこれは、店員さん達にとってだけなのだが、彼らにとっては、『喫茶店が今日の夕方には借金のかたに差し押さえられます』という宣告に等しい衝撃力をもっていた。
 すぐにチーフ山上さんの無言の目配せにより指令が出される。受けとった野中さん以下二名は揃ってガクガクと頷いて了承を伝えると、スタッフ室へと飛んでいった。


 愛用の湯のみで、まったりと日本茶を飲みながらデスクワークをこなしていた店長。ノックも無しに押し入って来た店員たちに驚いて目を丸くした。
「店長店長店長――!!!」
「どうしたんだい、野中さん。表でなにかあったのかい?」
「なにかあったのかい、じゃありません! いえ、ありました! あったんです! 大変な事態です!!」
 バンッと野中さんは机に両手をつくと、ずずずいっと店長に迫った。予想外の野中さんのドアップ。綺麗に化粧が施されている分、なまじ迫力がある。
「店長! 今すぐただ券をつくってください!」
「急にどうして。何故ただ券なんだい?」
「かくかくしかじかなんですよ!」
「――そ、それは大変だ! って全然分からないよ。野中さんもーうちょっと落ち着いてくれないかい?」
 店長のもっともな訴えに、対する野中さんは「これが落ち着いていられますかあああー!」と両手を上げた。ちょうど万歳をした格好になっている野中さんを、店長が「おおう……!」と仰ぎ見たところで、野中さんの後について来ていた山口くんと木下さんがすかさず前に進み出て、経緯を説明した。
 野中さんは興奮すると、突っ走ってしまう傾向がある。それは、一度でも野中さんと関わったことのある者ならば、皆が知っているところであった。チーフの山上さんは、勢いだけはある野中さんで店長をとことん押し攻めた後には、冷静に説明をする為の補佐が必要だろう、と分かっていたからこそ彼女に山口くんと木下さんを付けたのだ。
 二人の説明を受け、ようやく事情を呑みこむことのできた店長は、しかし、渋い顔をした。
「一部のお客様をひいきするのは、ちょっとねぇ」
「この緊急事態に何を悠長なことを! 別れちゃったら、もう二人の思い出がぎっしりとくまなく詰めこまれたこの店には来てくれなくなりますよ! 魔女子ちゃんたちがいなくなるってことは、お客さんが二名も減るってことじゃないですか!」
「いや、そうは言うけどね、野中さん。あの子が食べるとうちは元取れないんだよ……」
「何を言ってるんですか!? ここ半年売り上げ伸びに伸びてきたのって魔女子ちゃんが美味しそうに食べてくれてるからなんですよ! しかも、通りから見える席に座ってくれてるもんだから、魔女子ちゃんが来た日の新規のお客さん数が、ものすごい数になってるじゃないですか!」
「な!? あれは魔女子ちゃん効果だったんか!」
「今頃気づいたんですか!?」
「ええっ、ああ……。なるほど、こりゃ一大事だ!」
「だから、さっきからそう言っているじゃないですか!」
「――っそ、そうだな! これは放ってはおけない。よし、一筆かこうじゃないか」
 ようやく事の大きさ、と言っても実際は全く大きくはない大きさを理解してしまった店長は、近くにあったメモ帳を威勢よく、ぺりっと一枚破りとった。
 三人の店員がかたずをのんで見守る中、店長は『飲食無料一回限り二名様まで』と書きつける。誤字脱字がないかを確認した店長は、満足そうに「うむ」と頷いた。
「よし! では、山口くん。これを魔女子ちゃんに渡してきておくれ」
 店長から簡易タダ券を渡された山口くんが「はい!」と元気よく返事をしようとしたその時。
「だーめー!」と野中さんが悲鳴を上げて、両手をバタバタとふった。
「だめですよ、だ・め! 絶対だーめー! そんなんじゃ意味がありません! これは有馬くんに渡さないと! 有馬くんが魔女子ちゃんを誘って初めてこのタダ券は意味をなすんです! いいですか? 今、魔女子ちゃんは有馬くんに会えなくて悲しんでいるんですよ? つまり有馬くんに忘れられているんじゃないのかって、きっと不安で不安でたまらないはずなんです。でも、もし、このタダ券を有馬くんに渡しさえすれば……そして、有馬くんが魔女子ちゃんを誘ってくれれば、魔女子ちゃんは絶対『忘れられてなかった!』って安心するはずです! 喜ぶはずです!」
「そういうものかい?」
「そういうものです!」
 やけに力を入れて断言する野中さん。店長は野中さんが言った理論はよく分からなかったのだが、そこまで言うのならそうなのかもしれない、と思ってしまうだけの何かが野中さんの迫力にはあった。
 店長はあらためて山口くんに向き直る。
「よし、じゃあ、山口くん。表で掃除をしてきてくれないかい? 有馬くんが通ったらこれを渡すように」



 カァカァとカラスまで家路につき始めた夕方。山口くんは喫茶店前で竹ぼうきを手に掃除をしていた。
 有馬はこの商店街を毎日通って家に帰っているようなので、今日も必ず通ることは間違いないのだが、いつ通るかという時間帯までは分からない。
 当然、奏多たち一行はとっくの前に帰っている。一体いつまで続ければいいんだろう、と赤い夕陽に向かってぼんやりと思いをはせてはみるが、何せ店長命令である。加えて店の売り上げと、勤務中の娯楽がかかっているのである。任務はきちんと遂行しなければならない。山口くんは仕方なく、もう197往復目となる軒先の掃除を再開した。ただし、視線は常に商店街の入り口の方を向いているので、気はそぞろ。取り除くべきチリは全く取り除かれていない。山口くんは全く成果の上がらない掃除を繰り返していた。


 さてさて、山口くんがようやく有馬の姿を発見することができたのは、陽が完全に落ちてしまったころだった。閉店まであと35分。割とギリギリセーフな時間帯である。
「有馬くん、有馬くん!」
 山口くんは有馬の姿をとらえると、竹ぼうきを抱えたまま商店街の入り口側に向かって猛ダッシュした。
「これを! これをあげるよ!」
 満面の笑みで有馬にタダ券を押し付けた山口くん。これにて任務完了だと、やけにすがすがしい気分を味わった。
 けれども、ここは山口くん。野中さんのように突っ走り続けることはなかった。
 驚いて目を丸くしている有馬に気付いたところで、我を取り戻したのだ。
「あ、ごめん。おれのことわかるかな?」
「この先の喫茶店の方ですよね?」
「そうそう。よかった、覚えててくれて」
 山口くんはほっと胸をなでおろした。山口くんの方は常連客である有馬のことを見知っているが、言葉は数回しか交わしたことがない。しかも、それは注文や会計の時だけである。山口くんは驚いている有馬を見て、もしかしたら覚えられていない可能性もあるということを危惧したのだ。もしも、覚えられていなかったら、いきなり突進してくるという怪しい行動をとってしまった手前、信用を勝ち得るのは至難の業だっただろう。
「それ、店長がね、いつも来てくれてる君にサービスしたいんだってさ」と、山口くんは一見ただの走り書きにしか見えない紙切れを指さして説明した。「期限もないからいつでも好きな時に来てよ」と山口くんは付け加える。
 その間、有馬はしげしげとタダ券を眺めていた。それから、腕時計で時間を確認する。
「ありがとうございます。せっかくだから、お言葉に甘えて」
 うんうん、と山口くんは嬉しそうに頷いた。そのまま、ぺこりとお辞儀をして去っていった有馬の背を見送る。
 が、有馬が喫茶店の取っ手に手をかけたところで山口くんは慌てて『待った』をかけた。
 有馬は不思議そうに、自分よりも幾分か背の高い山口くんを見上げる。一方、有馬の前に立ちはだかることに成功した山口くんは、開かないようにと必死で扉を抑えた。
「べべべべつに今日じゃなくてもいいんだよ、有馬くん?」
「だけど、ちょうどラストオーダーに間に合いますよね?」
 現在6:28分。ラストオーダーまであと二分。
「間に合う。確かに間に合うけどね?」
「じゃあ、今日使っていきます。珈琲だけなので」
「え、でもそれ、二名までおっけいなんだよ?」
「だけど、近くに誘う人もいませんし」
「ええええええ!?」
「あとちょっとで読み終えそうな文献があったのでちょうどよかったです」
 えーとでもね? と山口くんが身振り手振りで説得しようと扉から手を離してしまった瞬間、有馬はあっさりと扉を開けてしまった。カランコロンとどこかむなしげなドアベルが鳴り響く。
「どうぞ?」と、扉を押し開いた有馬は、心の中で一人悶絶していた山口くんに先を促した。
 山口くんはしばらく押し黙った。しかし、じっと自分を待つ有馬に負けた。「ありがとう」と礼を述べると、山口くんは肩を落として店に戻るしかなかったのである。


 閉店後、山口くんがみんなからどやされたのは言うまでもない。
 続いて行われた反省会と今後の対策の重要課題の案件として、自分たちの名前が挙がっていたことなど、有馬と奏多が知るはずもなかった。
 反省会は、閉店後三時間にも及び、彼らの大勘違い大会はまだまだ続く。