チョコは恋ではなくリベンジの味



「――有馬さんっ!」

 奏多が有馬を呼び止めたのは、図らずも喫茶店の前――ついでに付け加えるならば、喫茶店アルバイト店員歴三年目の山口くんと、午後から珍しくもレジ打ちをしていた店長の目の前であった。
 カランコロンと余韻を揺らすドアベルの音。山口くんが開けてくれた扉から、今しがた喫茶店の店先に出た有馬は、大して驚くこともなく「何?」と道の先で手を振っている奏多に問いかけた。
 ずんずん、と効果音がついてもおかしくはない足取りでやって来る奏多を視界に入れる傍ら、有馬は山口くんに簡単な礼を述べてから彼が持ってくれていた箱を受け取る。
 そうしているうちに、とうとう有馬の傍までやって来た奏多は、有馬が立っている喫茶店の入口で立ち止まった。
「有馬さん、今日は何の日でしょう?」
「……バレンタイン」
「大正解です!」
 奏多は、ふふふと笑った。「有馬さん!」と彼の鼻先に人差指を突き立てながら、それはもうにんまりと奏多は笑った。
「リベンジです、りっべーんじ! チョコを――」
「――なんとなく今年も来ると思ってた」
「それはよかったです、では早速」
「早速って……、魔女子さん、今年受験生だったんでしょう?」
「大丈夫です、さすがに今年は市販のチョコです! なので味は、きっと保証付き。おししいですよ? 美味ですよ?」
「そんなことより、外に出てこないで勉強しようよ、さすがに」
「大丈夫ですよ、私大は一応終わりましたし、国立まではちょっとばかり合間がありますし、勉強はしっかりばっちりしていますし、むしろ息抜きには持ってこい。有馬さんのチョコの為なら、なんのその、です! お待たせいたしました」
「いや、一度もチョコなんて求めてないから。待ってないから」
「はい、どうぞ!」
「魔女子さん、人の話聞こうよ」
 奏多が大きなショルダーバックから取り出した箱を前に、有馬はちょっとげんなりした。透明のプラスチックでできた長方形の箱には、チョコレートが六つ、列をなして並べられている。それを飾り立てるように、細く赤いリボンが箱を十字に取り巻いており、結び目は愛らしく花の形にあしらわれていた。
 これってすごいけど、どうやって結んだのだろうと、有馬が、チョコに対してと言うよりも、リボンに対しての方が好意的な感想を持ってしまったのは、彼にとっては致し方のない事実であり、正直なところだ。
 黒茶で艶と光沢を帯びる固形物は、チョコと知らなければ甘そうには見えないのに、チョコだと知っているが故に、とても甘そうだ。それはもう、彼にとっては胸やけを起こしてしまいそうなほどに。
 だが、である。わざわざ買ってきてくれたらしいことは充分に理解しているので、受け取らないわけにもいかなかった。
 有馬は、半ば苦笑しながら、箱を受け取ると、リボンをほどくことにした。蓋を開けて、中身のチョコを摘むと、一つだけ口に含んで、「ありがとう」と残りを奏多に返す。
 奏多は、素直に箱を受け取りつつも、まじまじと有馬を見上げた。
「甘いね」
「おいしいですか?」
「甘いのが好きだったらね。魔女子さんも食べたら? 魔女子さんの方が、好きでしょう? チョコ」
「はい、大好きです!」
「ところで、魔女子さん。お返しは、マシュマロでいい?」
 嬉々として、チョコに手を伸ばしかけた奏多は、有馬の発言のせいで、ぴたりと手を止めた。とんでもなく嫌そうな顔のまま、有馬を見上げる。
「マシュマロは、断固拒否です。有馬さん、私がマシュマロ嫌いなの知ってますよね?」
「でも、魔女子さんがしてることと大差ないからね? いい加減、僕が甘いの得意じゃないこと認めようか?」
「……なるほど。嫌がらせですね」
 奏多は、しみじみと呟いた。
「少しだけ気をつけるようにします」
「少しだけじゃなく、もうそろそろ、諦めようよ」
「――ですが、そんなことは予想の範囲内です、有馬さん。今年の私は一味違いますよ。こんなこともあろうかと」
 予想も何もないだろう、と有馬は思ったのだが、彼が口を開く前に奏多がショルダーバッグの中から新たに取り出した袋に、彼は閉口した。
「お煎餅の詰め合わせです」
「……だ、ね?」
 どどーん、という効果音が付いていたら、さぞかし立派に見えたことであろう大量の煎餅が詰めこまれた袋。どう見てもお徳用パックなのだが、なぜか、キンピカハートマークのシールが煎餅の袋に張り付いている。
「ちょうど和菓子屋さんにも寄ったので。有馬さんは、お煎餅が好きだったよなぁと思いまして」
「そっちも二、三枚で、充分なんだけどね?」
 そもそも、食べたくて買う程、煎餅が好きなわけではないのだが。感覚としては、あったら食べる、くらいのものだ。
 けれども、奏多の目は期待に満ち満ちていた。しかたがないなぁ、と有馬は思う。
「そうだね、こっちは貰っとくね。ありがとう」
「いえ! どういたしまして!」
 奏多は、嬉しそうに笑い、そうして、手にしていた箱から、先程食べ損ねたチョコを一つ食べた。
「甘い?」と、有馬は試しに奏多へ尋ねてみる。
「……ちょびっと苦いです。中身のコーヒーが出てくると」
「だろうね。“魔女子さんらしい”とは思ったから。チョコだったけど、おかげで少しだけ食べやすかった」
「うーん、でも、おいしいですよ? ちゃんと。噛んだら甘くなりますし」
 うん、おいしい、と奏多は、また一つチョコへと手を伸ばす。
「魔女子さんは、もう帰る?」
「そうですね。有馬さんの家に行こうと思っていたので。まさか、途中で会えるとは思っていませんでしたけど」
 そっか、と有馬は、頷く。
「なら、これお土産ね」
「お土産、ですか?」
 とん、と自身の頭上に乗せられたわずかな重み。有馬が支えてくれているうちに、奏多はそそくさと蓋を閉じてチョコをバッグの中にしまってしまうと、頭の上に手を伸ばした。どうやら箱らしい。恐る恐ると、奏多は両手を使って、箱を頭から降ろす。
 目の前に降りてきた箱。その見慣れた形と色に、奏多はぱちくりと目を瞬かせる。
「有馬さん、これ、もしかして……」
「うん、ケーキ。来ると思ってたとは言ったでしょう? ちょうどお茶受けがなかったから、一応買いに来てたところだった。あいにく五個しか入ってないけど」
「あ、有馬さん……っ!!」
「何?」
「――愛してますっ!」
 ケーキの箱を抱えて、奏多の顔が満面の笑みに彩られる。
 よほど嬉しかったのだろう。有馬は、奏多の大袈裟すぎる反応にさすがに噴き出した。
「まさか、そこまで喜ばれるとは思ってなかった。よかった」


***


「……なんか、すごいもの見ちゃいましたね、店長」
「いっやぁー、青春だね。若いっていいなぁー。私も、昔はあんなんだったなぁー」
 二人が、それぞれに去って行った喫茶店前。山口くんと店長は、しみじみとした面持ちで、小さくなりゆく人影を見送っていた。
「やるねぇ、魔女子ちゃん。往来で愛の告白。はずかしげもなく愛の再確認。いやぁ、若い。若いなぁー。山口くんも、ああなのかい? 君も、若いもんね。いいねぇ。世界が輝いてるねぇ」
「店長、発言が、おやじめいてます」
「仕方がないよ、山口くん。どうつくろってもおやじだからね」
 こうして何の因果か、二人のバレンタイン騒動に立ち会った店長と山口くん。閉店後の終礼の際、業務連絡よりも重要事項扱いで、店長は今日の出来事を語った。
 実際にその場面を目撃した店長と山口くんが、従業員全員から心底うらやましがられたと言うのは、また別の話だったり、そうじゃなかったり。