おかしな夏休み【4】



「こちら、ご注文のコーヒーになります」
 テーブルの上に置かれたコーヒーから豊かな香りがふんわりと空気を漂ってきて、一区切りを促す。
 論文から軽く気をそらして会釈した有馬は、コーヒーを運んできた店員がよくここで顔を合わせる山口くんだと知って、顔をあげた。
 相手がぎこちなく笑ったのには気付かず、有馬は持ってきてもらったばかりのコーヒーをソーサーごと手元に引き寄せる。
「今日は早番ですか?」
「そうなんですよ。掃除さえ終われば、お昼まで比較的のんびりしてていいんですけどね」
 朝、起きるのは辛くって、と答える山口くんに、有馬は笑う。
 開店したての時間帯は、まだ客が少ない。
 今も、有馬の他には、カウンター席に座って、少し遅めの朝食をとっている女性が一人いるだけだ。まだ人通りの少ない商店街から、新たな客がやってくる気配もない。
 この店の売りであるケーキバイキングが始まる時間帯にはいくらか早いから、この状態は山口くんの言う通り、大抵昼まで続く。
 店内ではゆったりとシャンソンが流れていて、時間の流れをのびやかに遅らせていた。
 店に入ってすぐ出されたお冷の氷が崩れて、カラリと涼やかに音を立てる。
「有馬さんは、最近、よくこの時間帯にきますよね」
 言葉を選び選び、山口くんは会話を続けた。
 有馬は開いていた電子辞書を閉じて論文の上に重ね置き、苦笑する。
「ちょっと家がひどいことになっててね。こっちの方が気分転換になるし、広いから」
「あぁー。卒論ですよね。うちは、制作の方なんで、論文じゃないんですけど。あと三カ月ちょっとってきついですよね」
「だよね」
 お互い大学四年生同士の彼らは、三か月先を思いやって溜息をつきそうになった。
 不自然に目を泳がせて山口くんは、「そういえば」と切り出す。
「昨日、魔女子ちゃん他の人とここに来てるの見たんですけど、ここ一週間は、有馬さんと一緒に来てませんよね?」
 全くオブラートに包めていない質問の仕方に、さりげなく二人の会話に聞き耳を立てていた野中さんは、持っていたお盆で壁を叩きたくなった。もうちょっと上手い話題の展開方法を後でみっちり山口くんに教え込まないと、と野中さんはしっかりと胸に刻み込む。
 今からでも、二人の会話に混ざらせてもらった方がよいだろうかと、野中さんはアルミ製のおぼんの表面にぼやけて映る自分の顔に向かって問いかける。今にも飛び出していきそうな野中さんの気配を察した、チーフの山上さんは冷静に、彼女の肩に手を置いた。やめなさい、と山上さんは視線で野中さんをたしなめる。
 ちなみに奏多と有馬の関係性が変化したらしいことは、今朝の朝礼までに、昨日は休みだったチーフの山上さんにも伝達済みだった。
 ああ、と有馬は思い当たる節と山口くんの言葉を照らし合わせて苦笑する。
「さすがに、来にくいしね」
「やっぱり、気まずいですよね。有馬さん的には」
「いえ、気まずいということではないんですけど」
「あれ、気まずくないんですか?」
「なんで気まずいんですか?」
 意外だとでも言いたげな顔をしている山口くんを不思議に思って、有馬は逆に問いかける。
 しまった、とばかりに山口くんは手で口を覆った。
「あーっ……と」
 山口くんが言い淀むと、有馬はますますいぶかしげな表情になった。
 しばらくして、仕方がないと思いなおした山口くんは、「えーっとですねぇ」と頬をかきつつ、口を開いた。結局のところ、みんな気になって仕方のないことだったのだから、遠回しに情報を集めて行くよりよほどこっちの方がてっとりばやいだろう。
「いや、どういう理由があったのか知りませんけど有馬さんと魔女子ちゃん別れたみたいだから、新しい彼氏見るのは有馬さん的には複雑かなぁと思って」
 山口くんの言葉に反応できなかった有馬は、ようやく「は?」とだけ、聞き返す。
 そんな有馬の様子に痛ましさを見出した山口くんは、「いえね」と付け加えた。
「自分だったらけんか別れだったとしても元カノの彼氏見るのはさすがに微妙な気持ちになるかなと思って」
「ちょっと待って。なんかよくわからないんだけど」
 押しとどめられた山口くんは、首を傾げる。
 それを見て、どうやら勘違いされていたらしいと悟った有馬は、「付き合ってませんよ」と山口くんに真実を告げた。
「別に魔女子さんとはただの知り合いで、付き合ったことなんてないですよ。ただ魔女子さんの相手がどんな人か知らないから、どうかな、と思ってるだけです。気にしない人なら問題ないんですけど、そうでなかったらよい気なんてしないでしょう?」
 なので、ここ最近は偶然出くわした時にケーキバイキングに誘われても断るようにしている、と有馬は説明する。
「付き合ってない?」という山口くんの質問に、有馬はすんなりと頷いた。
 直後、喫茶店内には「え!?」と野中さんの声が響き渡った。
 唯一諸事情を知る由もない女性客は、あまりにも唐突に思える野中さんの叫び声に驚いて、コーヒーを気管に詰まらせる。
 げほげほと苦しげにむせ続ける女性に対して野中さんと山上さんが大慌てで謝罪を繰り返す傍ら、長きに渡る喫茶店内での勘違い大会はこうして幕を閉じた。