ひとひら、落ちて
ひらり、ひらり、
はらり、はらり、と零れ落ちて、
それは手を擦り抜けるから――……
*
「母さま、とれないよ」
男子(おのこ)は、目の前にある数多の薄桃へ手を伸ばす。前へ後ろへ、右へ左へと、足を動かし、場所を変えて。
女は、けほりと咳をして、さっと袖を、対の袖で隠した。
縁側の柱に寄りかかり、ほつれほどけた髪をそのままに、彼女は目を細めて微笑する。
「ええ、ええ。きっと、とれはしませんよ。花は、囚われるのを酷く厭うから」
くるくると降る花びらの中を、男子(おのこ)は舞い続ける。前へ後ろへ、右へ左と、足を動かし、場所を変えて。
「けれど、こんなにたくさん降っているのに」
「それでも……――」
女はまた、けほり、と咳をする。霞む目を指で払い、遊ぶ我が男子(おのこ)を、この目に留めようと。彼女は長く息を付いて、柱を支えに頭をもたげる。
薄桃の花びらは、男子(おのこ)の指の間を擦り抜けた。
「それでも、地に着くまでの美しさを彼女たちは保ちたいのでしょう」
はらり、はらり、と薄桃は散りゆく。
ひとひら、落ちて、降り積もる。
それは、まるで淡雪のように、ふわりと、地面に辿り着く。
「――わっ!」
男子(おのこ)は目を瞑り、両腕で庇って、己の顔を覆い隠した。
ざあと吹き荒れた風は、花びらを散らし、掬い、さらう。
今なら掴めただろうに、彼は花霞に手を伸ばさなかった。
女は、そと手を髪にやり、舞いゆく紅に目を眩ませる。それでも、流れた黒髪が、ひっそりと覆い隠そうとする視界、霞んだ姿を探そうと、彼女は、つぅと目を細めた。
全てが溶けてしまったかのように、跡形もなく消え失せた薄桃の敷。
それでも、また、ひらりと、
落ちてきたひとひらに、男子(おのこ)は、むぅと眉を寄せた。
頭上を仰ぎ、睨みつける。
風に煽られたにもかかわらず、まるで変わった様子のない目の前の老木。
幾輪もの花、幾片もの花びらを、腕に抱えて、悠々と。彼の前にそびえ立つ。
男子(おのこ)は、幹を両の手で掴み、うろには一つ、足を掛けた。
「なりませんよ。危な―――」
女は、けほりと顔を曇らせ、腰を折った。
片方の手を柱にあてがい、重い頭を持ち上げる。
「へーき!」
男子(おのこ)は、軽く一、二度手を振ってみせた。
「待ってて、母さま。すぐに戻ってくるからね。すぐにとってくるからね」
掲げていた手を、太い幹へ伸ばし戻して、新たなうろへと足を掛ける。
するすると幹を、枝を、男子(おのこ)は登り行った。
彼は唯一の枝を探す。
全てが薄桃で覆い尽くされた、枝を。
これでもない、これでもない、と男子(おのこ)は次々に手を伸ばした。
ようやく、これというものを探し当てた男子(おのこ)は、丹念に丁寧に枝を折った。
それでも、はらり、はらりと零れ落ちたひとひら。
ひらり、ひらり、と舞いゆく薄桃を、男子(おのこ)は手を伸ばして追った。
「――――っ!」
女は立ち上がるも、柱に崩れた。
落ちた枝花はぐしゃりとつぶれて。
綺麗な薄桃は酷く痛んで。
男子(おのこ)は、わぁっと泣いた。
空高く、澄む、歌よりも響く大きな声で、彼は泣き続けた。
傷ついた痛さに。傷つけた痛さに。
手に持つ枝はぽきりと折れてしまっていたから。
無残に散った花は、もう、枝には戻らないから。
駆けて、足へとしがみついてきた男子(おのこ)を女は優しく覆い抱く。
「母さまにっ――……もっと近くで見せてあげたかったの……見せてあげたかったのにっ……!」
どうして、と彼は泣く。
どうして、どうしてなの、と彼は泣いた。
男子(おのこ)の持つ折れた枝には、ひとひらの花びらの名残りさえなく、それでも、女は目を瞑って、そっと彼を撫でた。
けほ、けほ、と彼女は音を鳴らす。
一方の袖は、男子(おのこ)を抱きしめたまま。もう一方の袖は、口にあてがい。
「大丈夫、大丈夫よ」
女は静かに男子(おのこ)へと言の葉を落とした。
「母さまには、ちゃんと見えているから。とても美しい。とても綺麗ね」
ありがとう、と彼女は静かに言葉を落とす。酷く掠れて、途中は咳で詰まらせて。それでも、女は静かに笑みを浮かべて、彼に落とした。
眦(まなじり)に残る清い雫。女はすぅと指で拭う。
「ほんっとう……?」
男子(おのこ)は、未だしゃくりあげながらも、母に尋ねた。
彼女は一つ笑んで、彼に応える。
「ええ、本当よ」と。
彼女の袖には確かにひとひら――――
薄桃よりも濃く、薄桃よりも鮮やかな、花が舞い落ちていたから。
女はそっと握りしめる。
紅色の花びらを、
決して取り零すことのないように。
*
それは静かに、
ひとひら、落ちて。
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