かみ結い



 はたり、はたりと娘の顔は白粉に覆われた。細やかな微粒が肌の表面を綺麗にならしてゆく。
 つくられた白い肌、差された赤い紅。一つに結わえられた濡れ羽色の髪は、背を伝って緩やかに流れる。娘の支度を手伝っていた下女は、衿元を整えていた手を止めた。世の者とは一線を画した娘の美しさに、彼女は感嘆の息を漏らす。
「……綺麗」
 下女の言葉を受け、娘が微笑する。
 けれども、娘に笑みを向けられた瞬間、後ろめたさが下女の胸中に湧き上がった。思わず娘から視線をいっしてしまった彼女は、肩で切りそろえられた短い髪を静かに揺らし、俯く。
 今宵、この娘は水神のもとへと捧げられる。贄として水に入るのだ。
 下女は俯いたまま、そっと娘の顔を伺い見た。娘の目がこちらではなくどこか別の場所に向けられていることに気付いて、彼女は知らず安堵していた。すっきりとした娘の顔は今は横を向いている。娘の目は芒洋と、そう遠くはない昔を思い起こしているかのようだった。
 そんな娘の姿に、彼女は詰まりそうになる息を急いで嚥下させた。

 彼女は知っていた。
 水神に求められる娘が、なぜ彼女でなければならないのかを。

――□■□――


「あなたは、だあれ?」
 少女は問いかけた。
 悠々と流れ込む川の恩恵を受けて、たっぷりとした水をたたえている池のほとり。草木が覆い茂るこの場所で、唯一異質な存在感を示す大岩の上に、少年が一人、大して物怖じした風もなく腰かけていた。
 少女の方へと向いた少年は、切れ長の目を眇めると「ああ、大屋敷の子?」と問うた。
 少女が纏っている色鮮やかな着物。何度もくしけずられたのであろう腰まで流れる濡れ羽の髪。どれをとってみても少女が裕福な家の娘であることは明らかであった。大方、下女たちの目を盗んで屋敷から抜け出してきたのだろう、と彼はあたりをつけたのだ。でなければ、特別な儀以外、人の立ち寄らぬこの鏡池に少女がやってくるはずはなかった。
 少年の予想通り、彼女はこっくりと首肯した。少女の素直な答えに対し、彼もまた満足そうに頷いてみせる。
「やっぱりそうか。そうだね、君は私の問いにきちんと答えてくれたから私も君の問いに答えてあげよう」
 私は誰かという問いだったね、と少年は確認した。少女は再び頷いたが、彼はそれには目もくれず、うすらと笑みを深めて言った。
「私はね、水神だよ。この川の主、この鏡池に住むね」
「水神様!?」
 突拍子もない声を上げた少女の目は、見る見るうちに丸くなっていった。あまりの驚きように可笑しくなった少年は、耐えきれずにくつくつと喉を鳴らして笑いだす。眦にうっすらと滲みだした涙を指で払いながら、彼は言った。
「そんなに驚くことじゃないよ。それに正確に言うと、まだ水神ではないんだ。だけれど私は近いうちに水神になるんだよ」
「近いうちに?」
「そう。近いうちにきっとね。その時は君も知ることになるのだろうけど」
 少年は冷たい苦さを口元に閃かせる。
 彼の微笑が一体何を指してのものだったのか、その時の彼女は知る由もなかった。

――■□■――


 樽山ノ里たるやまのさとでも屈指の大屋敷に数えられていた三津蔵の家に白羽の矢が立ったのは浅香(あさか)が十七となった年であった。
 樽山を含め室瀬川流域沿いに位置する亜露あろ細呉さいご益斎えきせ立刀りっとうの五里は古来より大河の恩恵を受けてきた。しかし、大河があるということは、大水の災を被るということと同義でもあった。この五里も例外ではなく、室瀬川の氾濫を長年に渡り経験してきた。何度治水を施し、手を尽くしても、川が増水して溢れる度に家屋だけでなく家畜や人が、水にさらわれる。里人たちは皆、頭を悩ませ続けていた。
 しかし、いつの頃か、一人の里人が言ったらしい。『水神様は娘を欲して川を乱しているのではないか』と。そこで、川の支配者たる水神の居――鏡池に贄として若い娘を差し出した。すると不思議なことに、頻繁に起こっていた筈の大水の災厄がぴたりとやんだのである。これ幸いと、里人たちは川の中枢に位置する鏡池に生娘を捧げ、水神の気を鎮めようと祝詞を詠むことを習わいとした。
 以来五里は協力し、隔年ごとに儀式を行うことを決めた。水神の元へつかわす娘の選出は一儀式に一里が任を持つ。つまり、五里が順に任を回すことで、各里が娘を出すのは十年に一度とした。
 この贄を選ぶものこそが白羽の矢であった。五里の中心にある五央殿より射られる矢は、水神の御心を宿すとされ、儀式の年、娘を出すこととなっている里に向かって放たれる。今年は樽山ノ里が儀式の任を担う年であった。
 屋敷に立つ白い矢羽根は水神に選ばれた証。三津蔵の家の娘はこの矢によって見事選ばれたのである。

 とうとうと流れる川を浅香はぼんやりと眺めていた。この場所よりいくらか上流に水の社がある池がある。周りの景色を全て映しこむと言われている鏡池。そこへ浅香は一週間の後に入ることとなっていた。普段は人の立ち寄らない、神域とはまさにこれかという美しい場所である。浅香は十年前に見た池の姿を思い起こして目を伏せた。
 浅香にはもともと五つ年上の婚約者があった。顔も見たことのない、隣里、亜露にある大屋敷の跡取り息子。互いに慕う心はなくとも、物心ついた時から親同士によって結ばれていた縁だった。けれども、水神の意は絶対である。三津蔵の家に水神へ身を捧げることのできる娘は一人しかいなかった。他は、老いの見え始めた両親と兄夫婦、そして、彼らの幼い子どもたちだけだったのだ。必然的に浅香は婚約者のもとではなく水神のもとに嫁ぐこととなった。
 それは良い。それは致し方のないことだった。
「浅香」
 川の流音にかぶせるように背後から声がかかった。浅香は溜息を胸に押さえ込んでから、ゆるりと振り返る。河原に敷き詰められた小石を踏みしめてやって来た若者は浅香の前ですっくと立った。秀麗な顔立ちではないが、人の良い性格がにじみ出ている男である。しかし、この時ばかりは、彼の顔も険しいものだった。
庫侘こた
「浅香、行こう」
 言うなり、庫田は躊躇いなく浅香の腕をとった。だが、対して浅香が放った言葉は「どこへ」という簡素なものであった。彼女は庫侘の手を容赦なく払うと、彼を睨み上げる。
「私たちがどこへ行けると言うのです。五里でこの儀式がどれほど重い意味をなすのかよそから来たあなたには到底理解できぬでしょう」
「浅香は、こんなくだらぬことで自ら命を投げだすと言うのか?」
「くだらぬことなど――」
「くだらぬではないか! 人身御供で氾濫が防げるものか。大水の被害が減ったのは、治水技術が上がっていったからだ。他に理由などない。それくらい、分かっているだろう」
「……知りませぬ。私には分かりませぬ」
「――浅香!」
 強い叱咤に、浅香は身を強張らせた。両肩を痛い程掴まれる。
「……私にはできませぬ。逃げれば追われて連れ戻されるだけです」
 掴まれた肩がぎりぎりと唸るようだった。浅香にできたのは、冴え冴えと昏い目で庫侘を見つめ返すことのみ。
「ならば!」
 庫侘は浅香の長い髪に手を差し入れた。華奢な体を引き寄せて口を合わせる。まるで獣が噛みつくようなその行為は、事実、浅香が思い切り庫侘の唇を噛んだことで終わりを告げた。
 浅香は肩で息を繰り返し、切れた唇から血を滴らせている庫侘から離れた。
「おやめください。我が身は最早水神様のもとにあるも同じ。資格をなくせば私もあなたも殺されます。どちらにしろ逃げ場などないのです」
 浅香は衿の合わせを握りしめ、視線を足もとの小石へと落とした。
「今でも庫侘、あなたを慕う気持ちに変わりはない。愚かと蔑まれようとそれは事実です。だけれど、私には婚約者がいた。流れ者のあなたが我が家に認められるはずもない。もとより結ばれるはずがなかったのです。これはきっと水神様の御慈悲。どうせ庫侘と一緒になれぬのなら、私は掟に従い水神様のもとへ嫁ぎます。だから、もう――」
 私に近寄らないで、と浅香はぎゅうと目をつむって視界を閉ざした。
 真暗な闇の中には、川の流れしか聞こえない。長い長い時間がたった。
 やがて、小石がぶつかって軽い音を立て始める。庫侘が完全に立ち去ってしまうまで、浅香はさやさやと鳴る川辺に立ち尽くしていた。

――□■□――


「また来たの?」
 常と変らず大岩の上に腰かけていた少年は息を切らして駆けてきた少女に呆れた目を向けた。上気した頬はよく熟れた桃のようにほんのりと色を付けている。
弛祁たるぎ、だってね!」
「だから軽々しく名を呼ぶなと言っているのに」
 不平を洩らす弛祁を見上げて、少女は頬を膨らませた。ようやっと少年の名を聞き出したというのに、名を呼ぶと彼が怒るからだ。
「いいじゃない。まだ水神様ではないのでしょう? ならばこの名だって神の名ではないわ。だから軽々しく呼んだっていいのよ。だってまだありがたみもなーんにもないもの。それに他には誰もこんな場所に寄りつこうとしないのだから、あなた以外誰もあなたの名を聞きやしないわ」
 そうでしょう? と少年に同意を求めてから、少女は岩のくぼみに手を掛けて大岩をよじ登り始めた。彼女は今日も目にも鮮やかな美しい着物を纏っているのだが、当の少女は気にした様子がない。弛祁は諦めて息をついた。苔むした大岩は滑りやすい。危うい少女の所作を見ていると、こちらの方の肝が冷えると言うもの。仕方がないので、弛祁は今日も頼りない少女の手を掴むと岩の上へと引っ張り上げてやることにした。それを見越していたのだろう。弛祁が手を差し出した瞬間、少女は彼の手をとって可笑しそうに笑ったのだ。
 大岩に上がった少女は、いつものように彼の隣に腰をおろした。目線が高くなるこの場所は地上よりも水面が陽の光をよく反射してきらきらと輝いているのがよくわかる。穏やかな日差しを一身に浴びた岩の上は存外温かいのだということを少女はもう知っていた。そよと吹いた風を受けて彼女は気持ちよさそうに目を細めた。池独特の水の香を胸一杯に吸い込む。
 風に遊ばれている少女の細い髪を横目で眺めやってから、弛祁は「それで?」と問うた。
「今日は何の用があって来たの?」
「何か用がなくてはきてはいけないの?」
 彼の言葉に、少女はまた不機嫌そうな表情をつくる。弛祁は肩をすくめてみせた。それでも「来ない方がいいだろうね」と付け加えることは忘れない。
 少女はむぅと眉根を寄せた。けれども、少年には何の効果もないらしいことを知ると、彼女は「まぁ、いいわ」と不機嫌を放り投げるかのようにふいっと顔を弛祁からそむけた。
「だって、今日は決心してきたのだもの。このくらいじゃ怒らないわ」
「そう? 私には怒っているように見えるけど」
「気のせいよ」とそっけなく言って、少女は気持ちを整えるように長く息を吐き出した。ひどく緊張した面持ちで彼女は鏡池に映る自分たちの姿を見つめる。それから、不思議そうな表情をしている弛祁へと向き直った。
「あのね、弛祁。私、弛祁と、父上と母上のような夫婦めおとになりたいわ」
 今までたった一人、胸に秘めてきたことをようやく言いきった少女は、きゅうと己の着物の裾をきつく握りしめた。少年の方は、しばらくきょとんとした顔で少女と相対していた。だが、すぐに大声を上げて笑い始める。
「何? それ本気で言っているの? 水神の妻になるということがどういうことかわかっているよね? この池の下、水の社に上がるんだよ? 人間にとっては光の届かない、どこまでも闇ばかりが広がっている場所だ」
 少女は一瞬で赤面した。顔だけでなく、耳も首も、着物から覗く肌はどこもかしこも湯からあがったばかりのようだ。にもかかわらず、裾を握る手だけは白くなるほど握り込まれている。弛祁は少女の綺麗な手を解こうとして、振り払われた。彼女はきっ、と彼を睨み見据える。
「わかってる。わかっているもの! でも、……それでも、お社には弛祁がいるのでしょう? なら、私はお社に上がる!」
 少年は、必死になって言い張る少女を見て目を瞠った。
 しかし、すぐに眼に宿した光を収束させて、弛祁は「きっとね」と小さく答える。
「だけど駄目だよ。まだ女になっていないだろう?」
「何を言っているの? 私はもともと女子おなごなのだけれど。まさか弛祁は私のことをずっと男子おのこだと思っていたの?」
 怪訝そうに尋ねてくる少女に、弛祁は「さぁ?」と嘯いた。そのことが癪に障ったらしい。少女は弛祁の胸をぽかぽかと叩いた。少年は難なく彼女の腕を両方とも掴んでしまった。少女の顔を覗き込んで、彼は微笑む。
「そうだね、初花を咲かせたら考えてあげてもいいよ」
「初花?」
 腕をとられたまま、少女は首を傾げた。「その花の種ってどこに行けば手に入るの?」と真面目な顔をして問うてきた彼女に弛祁は耐えきれず噴き出す。
「約束よ、弛祁。私、きっと咲かせてみせるわ」

――■□■――


 浅香は己の両手を固く組み合わせて、絶え間なく襲い来る震えを押し殺そうとしていた。
 陽はすでに傾き始めている。天幕にかかる光は刻一刻と弱まっていった。儀式の始まる月の出までにはもう時がない。この身はもうすぐ水神に捧げられる。浅香はそれが何を意味するのかよく理解していた。だからこそ、恐ろしくてたまらなくなった。どうしてあのようなことを言ってしまったのか。後悔ばかりが押し寄せてきては彼女を苛んだ。
 整えられえた白粉が崩れほどけゆく。目尻より溢れ出た涙は頬を伝って静かに流れた。
「――なぜ? ……なぜ私なの?」
 浅香は口を覆って誰にともなく問いかけた。
 簡単だ。なぜなら、選んだのは他でもない自分だったのだから。だけれども、どうせ結ばれないのなら。それならばよいと思っていたのだ。だが、浅香は死を前にして己の浅はかな決心を呪った。豪奢に飾り立てられた着物の重みに、彼女は膝を折る。
「浅香様」
 倒れそうになった浅香を留めたのは、彼女の支度を手伝っていた下女であった。黒い双眸と目がかち合い、浅香は「玉響(たまゆら)」と下女の腕に泣きすがる。口がどうしようもなくわなないた。かつて見たことのある光景を思い出して、彼女はぞっと背筋を凍らせる。とりみだした彼女たちがどういった結末を辿るのか――知っていながら、浅香は最早己を抑えることができなかった。
「どうしよう、玉響。恐い、恐いわ」
「――浅香様」
「い、いやっ! 助けて、嫌だ、庫侘っ!」
「浅香様!」
 玉響は浅香の肩を揺すった。我を取り戻したものの、浅香の体は未だひどく震えていた。
「浅香様」と玉響は、浅香とは対照的にひどく落ち着いた声音で、主人の黒い双眸を正面から覗きこんだ。肩で短く切りそろえられた髪がさらりと揺れたのを浅香はあの時と同じ、歪んだ視界の中で捉えたのだ。

――■□■――


 浅香が玉響を見つけたのは偶然であった。その時にはもうすでに、玉響の髪は短かった。
 短い髪は、この地域一帯に共通する罪びとの証。何かしらの罪を犯した者は、髪を切られ何びとも奴婢の位に落とされる。
 だから浅香は、彼女がそうなのだろうと一目で理解してしまったのだ。

 己と変わらぬ年端の少女は、鏡池につながる道の近くにいた。うっそうと木々が生い茂る森の中、彼女はうずくまっていた。なぜか全身ずぶぬれの彼女は、まるでぬれ鼠のようだった。ほたり、ほたり、と彼女の切られて短くなった髪の先から落ちた滴が、周りにある腐葉土を次々と黒く染めあげていく。揃えられてもいない毛先が、痛々しくて浅香は思わず少女の元へ駆け寄っていた。
「大丈夫?」
 少女の横にかがみこんで、浅香は問いかけた。
 はっと、彼女が顔を上げる。初めてかいま見た少女の瞼は赤く腫れあがり、双眸は昏く落ちくぼんでいた。
 浅香は彼女の様相に言葉を失くした。同じ年頃の少女。しかし、自身とは掛け離れた彼女の姿に驚いて、何と声を掛ければよいのか分からなくなってしまった。
 だから、浅香は彼女の背をさすってやることにした。何度も何度も背をさすり続けた。少女はすがるように浅香を見上げ、ほとほとと涙を零した。ひっくひっくと嗚咽を伴う声は、時折喉に引っかかりながらも絶え間なく続いた。
 少女の十指が柔らかな土をえぐる。浅香は自身の手を添え、それを制した。
「ねぇ、あなた。私の下女にならない? ね、そうしたら――」
 浅香が言葉を重ねる前に、目の前の少女はこくこくと頷いた。添えられた浅香の手を、土で汚れた手で握り返す。浅香は、己と変わらぬ大きさの少女の掌を包み込んで、そっと微笑んだ。
「あなたは、だあれ? ねぇ、あなたの名は?」
「――た、……っゆ……」
「え?」
 浅香が聞き返したことで、少女はあっと息をのんだ。よほど泣いたのだろう。声が枯れてしまって、ほとんどかすれていた。
「いいの。いいのよ、ゆっくりで。大丈夫だから。ごめんなさいね、私も今度はもっと注意して聞くわ」
 ね、と浅香は彼女に促す。少女はこくりと唾をのみ下して、乾いて張り付いた喉を溶かした。
「……た、……ま、ゅ……ら」
「たまゆら?」
 浅香が尋ねると、彼女は「はい」とかすかに喉を震わせた。
「そう、玉響ね」
 浅香はにっこりと微笑む。
「ならば、玉響。私と一緒に屋敷へ帰りましょう」
 浅香は崩れそうな少女の背に腕を回し、肩に手を添えて支え起こした。

――■□■――


 よほど恩に感じていたのだろう。玉響は浅香によく仕えた。年が似通っていることもあり、浅香はどの下女よりも玉響と心を通わせた。浅香は玉響を重宝し、いつも傍に置きたがった。親兄弟も知らぬ庫侘との仲を玉響だけは知っていた。人目をしのぶ彼らの代わりに、玉響は双方の仲介役を買って出、文を運んだりもした。
 水神の元へ上がるまでの天幕の内、白羽の立った娘は己の身支度の為に一人だけ手伝いを選ぶことができる。浅香は母や姉らを差し置いて、迷うことなく玉響を供として選んだ。それほどまでに浅香は玉響のことを信頼している。
 いつの時も玉響は浅香に優しかった。しかし今、その玉響が厳しい顔をしてこちらを見ている。浅香はびくりと体を強張らせた。
 けれども、浅香の予想に反して、玉響は急に表情を和ませた。「その言葉がずっとお聞きしたかったのです」と安堵したように語りかける。拍子抜けしている浅香の前で、玉響は優しい微笑を浮かべたまま続けた。
「浅香様。ずっと隠してまいりましたが、私は水神の妹なのです。人間たちが何を勘違いしているのかは存じませんが、我が兄はあなた様を嫁になど望んでおりませぬ。それを浅香様に告げる為に、私はあなたの傍についておりました。ご安心ください。水に入る必要などどこにもないのですよ」
「まさか、……そんな」
「おや、信じておりませんね? あなたが私を見つけたのは鏡池の近くでしたでしょう。初めて慣れぬ外気を吸った息苦しさに、途方に暮れていたところをあなたは助けてくださいました。あの日のこと、浅香様は覚えていらっしゃらないのですか?」
 問いかける玉響は茶目っけをたんと含ませ、小首を傾げる。口をきけないでいる浅香をよそに、玉響は袂から透明の玉を取り出した。下女の掌にちょうど収まるくらいの小ぶりの玉である。澄んだ色の玉は幕に遮られた柔らかな光の中でも自らが発しているかのように照り輝いていた。
 浅香は思わず息をのんだ。
「これが証です。水神が持つ宝玉。浅香様も一度くらいは耳にしたことがおありでしょう。信じてくださいませ、浅香様。あなたはこのまま生きるのです。すでに庫侘様には私から話を通しました。あの方は二つ返事で了承してくださいましたよ。今も、外で浅香様を待っていらっしゃいます。早く行って差し上げてください。そうして、浅香様、あなたの御無事な姿を庫侘様に見せて差し上げるのです。後のことは、どうか私にお任せください」

――□■□――


 ぽーん、ぽーん、と少年は小ぶりの玉を投げては掌で受け止めて遊んでいた。遊んでいたと言っても、心は無きに等しい。大岩の上に胡坐をかいて座したまま、彼はただただ澄んだ玉を投げては己の掌で受け止め続ける。
 少女はそんな彼の様子を少し離れた場所から見ていた。話しかけることはどうしてか憚られた。それほど少年の様相はいつもと違い硬いものだった。
「そんなところに隠れてどうしたのさ」
 いつの間に気取られていたのだろう。岩に座った少年は柔らかな微笑をこちらに向けていた。それは本当に、淡い淡い笑みで――少女はきゅうと胸が痛くなって、襟元を手で握りしめた。
「たる、ぎ……」
「何。どうしたの?」
 こてんと首を傾いでみせた弛祁の方へ、少女は口を引き結んだままおずおずと歩み寄った。苔むした大岩の前まで来たところで、少女は大岩に座す少年を仰ぎ見る。
「弛祁」
「なんだか今日は元気がないようだね」
 少女の顔色の悪さを見てとって、弛祁は眉をひそめる。
「どこか具合が悪い?」
「ちがう」
 少女はふるりと一度首を横に振った。
「なら、……」
「ちがうっ……」
「まだ何も言っていないよ」
 弛祁は呆れを滲ませた苦笑を洩らす。少女はくっくと少年の喉が零す笑い声に耳を傾け続けた。彼の鼻先は色濃い緑を落とした鏡池を向く。「あー、可笑しい」と片手で額を抱えた少年は、ふっと笑いを引っ込めた。
 突如訪れた静寂を邪魔するものはない。遠くでさえずる鳥の鳴き声に、さやさやとなる葉摺れが重なった。
「弛祁、あのね」
「ねぇ、これあげるよ。その為に待っていたんだ」
 今度は少年の方が、少女の言葉を遮った。弛祁は手にしている透明の玉を少女へと差し出す。
「水神が持つ宝玉だよ。私にとってはすごく大切なものなんだ。綺麗だろう?」
 玉には周りの景色が鮮明に映り込む。まるで鏡池そのもののような玉だった。玉が光を反射する様まで、鏡池の水面にそっくりだった。
 少女は玉に手を伸ばしたりはしなかった。彼女は「ええ、綺麗ね」とだけ、少年に言葉を返した。
 少年はついと目を眇めて、少女を見やる。弛祁は「ねぇ」と彼女に語りかけた。
「人間は勝手だよね。禍が起こった時は供物を水に沈めて神に怒りを鎮めるように乞い、同じ水に罪人まで沈めて今度は神の怒りにゆだねようとするのだから。どちらにしろこの池は血に染まる」
 弛祁は感情のこもらぬ声でそう告げた。少年が双眸に宿した澄み渡った色を少女は茫然と眺める。
「どうしてそんなことを言うの」
「私が水神になるからだよ。だから、ここに来るのはこれで最後。受け取って。そうしてくれると私も嬉しい」
「……い、いらない。そんなものいらないっ」
 少年は目を瞬かせて、さっきまで青白かった顔を一瞬で怒気に染めあげた少女を岩上から見下ろす。どうしたものかと推し量っているのだろう。それでも、手を引っ込めようとしない弛祁を彼女は思い切り睨み上げた。
「いらない。私は絶対に受け取らない。どうしてもと言うのなら、……それなら、私が弛祁と夫婦になった時にもらうわ。大切なものなのでしょう? それならば、一緒に守ればいいじゃない。それでいいじゃない。そうして、あなたが私の傍で息絶えた時に、私は弛祁からその玉を譲り受けるわ。私が死ぬ時には、子どもたちに譲り渡すの。そうやってずっとずっとずっと……」
 少女は己の口を両手で覆った。尻つぼんで消えていった言葉たちを、弛祁は黙って聞いていた。けれども、俯いたまま終には喋らなくなってしまった彼女へ、彼は静かな諭しを落とした。
「それはできないんだよ。だから、代わりにもらっておいて」
「それなら、いらない。だってそれが何になると言うのよ。弛祁は私が何も知らないとでも思っていたのでしょう。だけど、私は知っているもの。全部知ってしまったもの!」
 悲鳴を上げるように、彼女は胸につかえていたものを全て吐き出した。弛祁は愕然とした表情で少女を見下ろし、言葉を失う。
 少女は顔を上げた。くしゃくしゃと顔を歪めて、それでも彼を真っ向から見据えて言った。
「私、知っているもの。弛祁は水神様になんかなれない」

――■□■――


 白粉は、はたり、はたりとはたかれた。細やかな白い微粒が荒れた肌を覆い隠し、綺麗にならしてゆく。浅香は玉響の身支度を手伝う手を止め、感嘆を漏らした。
「……綺麗」
 浅香の称賛を受け、玉響は苦笑にも似た微笑を浮かべる。
 今、浅香の豊かだった長い髪は短く切り取られ、代わりに玉響の短髪に丁寧に編み込まれていた。決してほどけ落ちぬようにと結わえられた豊かな髪が、玉響の肩から背へとゆるやかに流れる。口元に差された紅が艶やかに色を添えたことで、玉響の表情はぱっと明るく華やかなものとなっていた。
 浅香を逃す上で、玉響は自分が浅香の代わりとなって儀式に出ることを提案した。贄となる娘の存在だけはどうしてもごまかしのきかぬものであったからだ。
 水神のもとへと渡る娘には、儀式の前、身支度の為の天幕が張られる。彼女たちのいるこの天幕は外界から閉ざされた空間であった。贄となる神聖な娘が指定した女以外の里人の出入りが禁じられているだけでなく、月の出の時分となり娘が天幕の外へと出た後には夫となる水神の許可なく誰かと語らうことも許されない。薄く長い紗の被衣で姿を覆われた娘は、例え中身が入れ替わっていたとしても一目で見分けられることはないだろう。
 彼女たちは、古来より引き継がれてきた伝統の手法を逆手に取ることにした。浅香と玉響の最も顕著な違いは髪の長さのみ。浅香は小刀で手早く己の長い髪を切り落とすと、玉響の短い髪へと結わえたのだ。
 浅香は玉響の姿に見入っていた。儀式の衣装を身に纏った玉響の姿は例えようもなく美しかった。天女というものがいたのなら、こういうものであろうと浅香は思った。玉響が纏う希薄さが、彼女の神々しさを増していた。
 しばらくどこか違う場所を見続けていた玉響は、浅香の視線に気づいて口を開こうとした。
 しかしその時、天幕の外から声がかかった。内はもう薄暗い。陽が完全に沈んだのだ。
「さぁ、浅香様。もう下女は天幕の外に出なければならないようです。どうぞお気をしっかりと持って。きっと大丈夫ですから」
「だけど……」
「浅香様」
 別れの時となって逡巡を見せ始めた浅香に、玉響はぴしゃりと言った。対する主人を厳しい目で見据える。
「よいですか、浅香様。三津蔵の家に白羽が立ったのは、私があの家に住まわせてもらっていたからです。最も水神に近しい私があの場にいたからなのですよ。それ以外に理由はないのです」
 今にも泣き出しそうな浅香に向かって、玉響は優しく苦笑した。隠しきれぬ荒れのある掌で、玉響は浅香の両頬を包み込む。
「浅香様、私は私のあるべき場所へ行くのです。だから、あなたもあなたがあるべき場所に。幸せになってくださいね。私も兄もそう願っていますから」
 さぁ、と浅香はとうとう玉響に追い出されるようにして天幕から出た。一度だけ、もう中は見えない天幕を振り返る。そうして、彼女はその場を離れた。
 浅香はなるべく己の顔を隠すようにして歩いた。しかし、奴婢の身分を示す短髪の女に今更目を向ける者はいない。彼女は儀式を見物に来ている里人たちの間を抜けると、庫侘が待っているという場所に向かって駆け出した。

――■□■――


「庫侘!」
 浅香は懸命に丘を登りながら、頂上で待っている若者に向かって呼びかけた。丘を登ってくるのが誰であるか、庫侘はすぐに気付いて地を蹴ると、丘を駆け下りた。両手を伸ばすことすらもどかしく感じながら彼は浅香の体を抱きすくめる。
「浅香、浅香か?」
 彼の問いに答えるべく、浅香は庫侘の腕の中で何度も何度も首を縦に振って頷いた。ぎゅうと体を抱きしめられている力が増す。辺りにはもう陽の名残さえ消えかけていた。淡青の空の片隅で最後の薄桃の灯りがふつりと消える。
「来ないかと思った。またあの時のように。もう半ば諦めかけていた」
 ここに確かに存在するのだと、そう確かめるように庫侘は浅香を抱く力により一層力を込めた。
 よかった、よかった、と彼はうわ言のように同じ言葉を繰り返す。浅香は、自身も庫侘のことをしっかりと抱きしめ返しながら、この場にいる己の存在を実感していた。
 ふと、浅香は彼の肩越しに地平の果てより出でし月を見て、身を震わせた。ぽっかりと空に浮かぶのは、赤みを帯びた大きな満月である。
「どうした? 顔が真っ青だ」
 がたがたと震えだした浅香に気付いた庫侘は、腕をほどいて彼女から体を離し、言った。彼女を気遣う無骨な掌が、浅香の額に噴き出た冷や汗を拭う。
「私……私は何ということを……」
 眼下に広がりうねる大河と、それに繋がる鏡池を浅香は見下ろした。風が吹き抜けて、短くなった髪が容易にさらわれ、舞い上がる。
 風にあおられるように、ふらりと傾いだ浅香の体を、庫侘が慌てて支え持った。
「一体どうしたと言うんだ。よほど恐い目にあったのだね」
 心配そうに背を撫でてくれる庫侘に対して、浅香はかぶりを振った。浅く、息をつぐ。
「違う……違うのよ。私は知っているの。知っていたのよ。玉響は水神様の妹なんかではない。それは有り得ないの」
 ああっ、と悲鳴を上げて浅香は体を折った。彼女の言葉に庫侘は驚いて目を見開く。
「しかし、玉響は確かに水神の宝玉を持っていたではないか。玉響は玉を手にのせて、自分は水神の妹だと言ったんだ。私はこの目で確かに見たよ」
「あんなものっ――大屋敷くらいの家にある者なら誰だって用意できるわ。玉響は……いいえ、あれはたゆ。あのこは、益斎の里長の娘だった妙姫なのよ。私は初めて会った時――あの池のほとりで玉響に出会った時、すぐに妙姫だとわかったの。わかっていて知らぬふりをしていたの」
 浅香は妙がなぜ髪を切られて奴婢に落とされたのか、その理由を聞き知っていた。益斎ノ里は、樽山からは隣里、亜露をまたいだ場所にある。実質的な交流は樽山と益斎の間にはほとんどない。益斎の長姫に関する噂も亜露を挟んで流れてきたものらしかった。
 見たこともない、けれども己と同じ年ごろの他里の長の姫の話。大人たちが噂話に興じているその場に居合わせた浅香は、その話を又聞いたのだ。
 妙は益斎の里長である父が軟禁していたはずの罪人の息子と通じていたと言う。それが、露見して彼女は髪を切られた。
 鏡池に傍近い森の中で初めて少女に会った時、浅香は直感的に気付いてしまった。これが、あの噂の妙姫なのだろうと。
 なぜかずぶぬれに濡れている彼女が哀れでならなかった。切られてもなお美しい濡れ羽の髪が羨ましくてならなかった。
 浅香は迷わず手を差し伸べた。己の心の大半を占めているものが何かを分かっていながらも動けずにはいられなかった。
 救うふりをして、憐れむふりをして、浅香は同情と言う名の愉悦を手に入れてしまったのだ。
 浅香はぽつりぽつりと己の罪を庫侘に話した。それでも、庫侘は「行こう」と浅香の手をとった。
 迷いなく引かれた手に、浅香は信じられぬ思いで庫侘を見上げる。
「きっとそれだけでは玉響をずっと傍に置いておくことはできなかったはずだよ、浅香」
「でも、きっとずっと大半がそうだったわ。だからずっと玉響に傍にいて欲しかったのよ。なのに、玉響が身代わりになると言った時、私は『これで助かる』と思ってしまった。恐ろしかったの。ずっと、十年前に見た光景が頭から離れなくて……水の社に上がることを拒んで我を失った娘がどうなったのか……私はよく知っている。だから、恐ろしくて、恐ろしくてたまらなかったの。だけど、それを玉響に押し付けてしまった……」
 浅香は体をわななかせた。浅香を落ち着かせようと、庫侘は彼女の肩に手を置き、「いいかい、浅香」と静かに言った。
「このことを他の者たちは誰も知らないんだ」
「けれど、私は本当になんということを」
 浅香は空いている片手で自身の口を覆った。その拍子に切りそろえられた髪が肩から落ちてさらりと揺れる。
 庫侘は一度握った手を離しはしなかった。彼は、もう一度彼女の手を掴む手に力を込めて引き導く。
「行こう。少なくとも玉響は己が何者であるか知った上で、私たちを逃してくれたのだから。ならば、私たちだけはしっかりと生きなければ」

――□■□――


 月が昇る。
 対岸から現れた月は丸く、紅い。ゆらりゆらりと揺れ動く鏡池の水面に、濃い月光が伸びた。
 薄い紗の被衣を両手に掲げ、姿を覆い隠した娘が一人、池に入る。彼女が進むごとに、静かに池が波打ち、水面に浮かぶ光の道筋が歪んだ。
 白い装束は赤に染まる。娘の背後では篝火がてらてらと燃え盛っていた。火がはぜて、風が吹くたびに細かな火の粉が夜闇に散った。飛ばされた灯りは水の中にじわりと溶ける。
 威厳を携え五里の任を担った娘には後に続く供人の影もない。代わりとでも言うように、透き通った薄い紗が尾を引くように水面にたゆたった。
 池の岸では玲瓏と祝詞が詠みあげられる。
 いくら里人たちが水神を祀り呼ぼうと、彼の者が姿を現す気配はない。
 笛や太鼓が騒々しくかき鳴らされる中、妙はそろりと目を伏せた。

――□■□――


「やああああっ! やだ! やめてっ!!」
 伸ばした手すらあっさりと捻じ上げられて、少女は体を押さえこまれた。それでも、彼女は必死で体をくねらせ男の手から逃れようと抵抗し暴れた。
「妙」と鋭い叱責が落ちる。焦燥を帯びた声は、けれども少女の耳には届かなかった。彼女は「やめて、父上、やめてよ」と繰り返し乞うた。妙が前に進もうとするたびに、大きく跳ねた水が荒波を立てる。豪奢な着物が膝裏まで水に浸かるのも、妙は厭わなかった。ただ目の前に広がっている現に悲鳴を上げて、泣き叫ぶ。
「やだあっ! たるぎ! たるぎっ!」
 水が重い。思うように進まない足がもどかしい。後ろ手に捻じられた腕が痛かった。
 背できつく縄によって拘束された手首。少年は数人の大人たちに囲まれ、すでに鏡池の深部にほど近いところまで進んでいた。水は彼の腰まで迫ってきていた。
 慣れ親しんだ少女の声を耳にした彼は、鞭を打たれたように顔を上げ、歩いてきた池の淵を振り返る。己の肩越しに予想とたがわぬ少女の姿を見出してしまった弛祁は、瞠目した。
 瞬時、彼の顔に焦りがよぎったのを、少女は離れた場所から見ていた。
「たるぎ!」
「――馬鹿、来るなっ! 戻れ、妙! 戻れ!」
 弛祁は妙に向かって声を張り上げた。身をひねって乗り出した少年の頭に、すかさず重い石が振り落とされる。何かが陥没する重鈍な音が轟いた後、鳴り渡った水音と共に盛大な波が立って、彼は池に呑み込まれた。
「――っああああああああ!」
 妙は目を手で塞ぐこともできずに、流れていく光景を目の当たりにした。
 数人の大人たちが立つ場所には、もう少年の姿がなかった。
 慟哭が喉を突いて、胸をえぐる。ぼたぼたと目から零れ出る涙は、次々に池に吸い込まれた。水面にはほんのかすかな波紋しかたたない。

――□■□――


 いつかこの日が来てしまうことをずっと案じていた。屋敷の離れの奥敷きに誰が住まっているのか、垣間見てしまった時から。
 わずかに開いていた隙間は、昼餉が運び込まれたことですぐに閉じられた。
 数年前から、たびたび鏡池で会っていた少年を己の家で見つけてしまった妙は嬉しくて、嬉しくて――声をかけようと思ったのだ。近頃はめっきりと、池へ行っても会えないことが多くなってしまっていたから、少女の喜びはなおさら深いものだった。妙は顔を輝かせた。
「た――」
「なりません」
 傍に控えていた下女は、奥敷きへ足を向けようとした少女を制した。
「これより先は行ってはなりませんよ、姫様。もう随分と前から罪人の息子を奥敷きに捕えているそうです。御身が危険にさらされるやもしれません」
「罪人の息子?」
「はい。先の細呉の里長を殺めたのだそうです。下手人はその場で打ち首となったそうなのですが公平をきすためにも、あの息子の方は処遇が決まるまで我が長が五里を代表して預かることになったと聞いております。全く……涼瑪すずめ様もほんにお人がいい……」
 どこか咎めるように下女はごちて、ささっと少女の背を押し離れるよう促した。妙はくるりと身を翻して、下女の手から逃げる。
「こら! お待ちなされ、姫様」
 背から掛かった声を気にも留めず、妙は奥敷きにいる少年のもとへ駆けた。けれども、いくばくも行かぬうちに衛士に阻まれ、たたらを踏むこととなった。
 おっと、と白髪頭の老年の衛士は危うくぶつかりそうになった少女の肩を支えて、立ち止まった。
「そんなに慌ててどうなすった、妙姫様」
かやじい。ねぇ、あの子、あの子はどうなるのっ!?」
「あの子?」
 首を捻った衛士は、少女の目線の方向を辿った先に何があるのかを悟って「ああ」と呟いた。
「妙姫様は、あの方を見なすったのか。あの方は水責めの刑に処されることが決まったばかりじゃ。今や、儂の他にああも見張りの衛士をつけられての。ほんにかわいそうになぁ。何も親の業を子にまで負わせることはなかろうて」
 もう目こぼししてやることも叶わん、と衛士は悲哀を滲ませて、そうぼやいた。
「まぁ、萱木かやき殿! 姫様にさようなことをわざわざ吹き込むなど!」
 追って来た下女は頬を紅潮させて、年老いた衛士を非難した。
 妙は呆然と立ち尽くした。下女が頭上で老衛士を叱咤する声も、初めに萱木が口にした言葉以外は、ただ勝手に耳を行き過ぎただけだった。

――□■□――


「――っ……!」
 身を根こそぎ絞りとられるような激痛は、突如妙に襲いかかった。月のものが来るときにも似た下腹部の鈍痛は、だが、常にある痛みをはるかに凌駕していた。
「妙!」
 倒れこむように水の中へうずくまった娘に、彼女の父は青ざめた。
 ぐったりと額に脂汗を浮かべ、腹部の着物をきつく握り込んだまま、妙は荒い息を繰り返す。かと思えば、ひゅっと奇妙な音を出して息を吸い込んだ少女は、奥歯を噛み締め、顔を歪ませたまま苦痛に耐えた。
 水底から煙がくゆるように鮮血が湧き上がる。
 妙はその様をおぼろげに目にしていた。
 驚愕に色を失くした父が、鏡池の淵でうろたえていた下女の名を呼ぶ怒号の中、妙の意識は途切れた。

――□■□――


 次に妙が目を覚ました時も、少女の下腹部にはゆるやかながら鈍痛が残っていた。全てが抜け落ちてしまった心地を覚え、彼女は天井に向かって少年の名を口にした。
「――妙! 気がついたんだね」
 かすかな床擦れを聞きつけた母は声を震わせて、娘の右手をとった。母は両手で握りしめた娘の手を頬に擦り寄せる。母の眦から零れた滴が、熱さを伴って妙の腕へと伝った。
「お前……っ! お前様っ! 妙が目を覚ましましたよ!」
 母は手を握りしめたまま、朗らかな顔で襖の外に向かって呼びかける。廊下に控えていた下女の一人が、すぐさま主へ知らせをやりに場を去ったのだろう。木板を滑り行く衣擦れが聞こえた。
「かわいそうにねぇ」と母は、妙の腕を擦りながら、娘に話しかけた。筋道がつくられてしまった頬の上を、また涙が滑り落ちた。
「妙、お前は母となっていたんだよ」
「…………い、た……?」
「捨ててしまおうかと思ったのだけれどね」
 母は、娘の背に手を回し、支え起こしてやった。未だ視点の定まらない妙の膝に綿布でくるんだ包みをいたわるように置く。包みを丁寧に解き開きながら、母は「お前くらいの年頃だとよくあることだ。だから気に病むんじゃないよ。お前はたった一人でよく守ったよ」と妙に話しかけた。
 開かれた布地に乗っていたのは赤黒いだけの血の塊だった。白い綿布の中で、血潮は広がりを止めて黒々と固まっていた。それだけだった。
 妙は際限まで眼を見開いて、形を成していない血の塊を見下ろした。
 熱い塊が胸を突き上げ、彼女を苛む。それは、嘔吐感にも似ていた。けれども、彼女がしたことは、結局のところ涙を流すことだけだった。
 布の包みを抱きしめてむせび泣く妙の背を母は何度もさすった。
 その時。
 ぴしゃり、と勢いよく襖が開け放たれた。開いた襖もそのままに、ずかずかと寝間に入って来た益斎の里長――涼瑪は妙の手から布包みを奪い取ると、醜い塊を固い木板に思い切り叩きつけた。
 妙は涙で汚れた顔で父を見上げる。涼瑪は容赦なく娘の頬をぶった。
「お前はっ……お前は何をしたのかわかっているのかっ!?」
 倒れて、床に手をついた妙の表情に恐怖はなかった。怒りに肩を震わせる父に詫びることもせず、彼女は父に奪われた包みに震える腕を伸ばす。
 しかし、父はそれを許したりはしなかった。娘の豊かな髪を力任せに引っ掴んで、彼女を止める。
「――っ!」
 突如髪を引かれて、無理やり頭を持ち上げられた妙はわずかに眉を歪ませ呻いた。引っ張られているせいで、顔の表皮が突っ張っる。
 里長の妻は、夫が他方で手にしている獲物が何であるかに気付いてさっと血相を変えた。夫の袖に必死に追い縋って、止める。
「お前様! お前様っ、どうかそれだけは……それだけはおやめください!
 ――ああっ……ああああああっ!」
 妻の渾身の懇願に耳も貸さず、涼瑪は手にした小刀で娘の髪をざっくりと切った。
 ふっと掻き消えた引力に、妙はまた床に倒れ込んだ。
 目の前で、ばらばらと濡れ羽の長い髪が散る。母がすすり泣く声を、妙はどこか遠くの場所から聞こえてくるもののように聞いていた。
 ぼんやりと、妙は己の髪を切った父を見上げる。そこには憎々しげに顔に幾筋もの皺を寄せ刻んだ父の姿があった。
 怒りを抑えた低い声音が寝間に淡と落ちる。
「出て行け。今すぐこの家から出て行け」
 涼瑪は小刀の刃を鞘に仕舞い、開け放したままの外を指し示す。
 それ以降は、もう見たくもないとでも言うように、彼はきつく目をつむった。

――□■□――


 里長の命に反して、母は妙をかくまった。彼女が娘を閉じ込めたのは、奇しくも罪人の息子を隔離していた奥敷きであった。
 妙は何をするでもなく、畳に寝転がり、死んだように日々を過ごした。
「妙姫様」と萱木が、襖の外から内へ呼びかける。しかし、返答はやはりなく、いつもと同じ繰り返しに、老年の衛士は軽く息をつくと静かに襖を開けた。
 彼と一緒に内へ入った下女が、手のつけられていない朝餉を下げる。
 言葉なく目を交わし、下女を見送った萱木は、そのまま部屋の内に残った。
 うずくまって寝るも、妙の目は閉じられることはない。心を失ったかのように虚空を見つめ続ける少女を見るのは、老身にはいたく堪えた。
「……妙姫様。少しはものを腹に収めんことには、力も何も湧きやしませんよ」
 萱木は、槍を部屋の入り口に立てかけると、妙の傍に寄り膝をついて、少女に諭しかける。
「あの方は、どんな時でも、きちんとお召し上がりになっていましたよ」
 妙はぴくりと反応を示した。
 だけれども、老衛士が気付くことはなかった。彼は、少女に話しかけながらも、反応が返らぬことを承知していたので、萱木の言葉はいつも独語でしかなかったのだ。
「儂が知らぬふりをしなければ、こんなことにはならなかったのかのぅ。まさか妙姫様と会っておったとは知らんなだ。二、三、後をつけてみた時はなんともなかったのじゃ。大岩に腰かけてぼうっと御池を見とるだけじゃった。あとは必ずお戻りになったから、ほんの数刻足らずの気晴らしくらいさせてあげたかったのじゃ。それが、まさかこんなことになろうとは……。ああ、おいたわしや、妙姫様。このじじが悪うござった。許しておくんなまし、許しておくんなまし」
 萱木は手をつき床に額を押し当てると、深々と頭を下げ、妙に詫びた。
 森閑とした部屋の中、そろそろと頭を上げた老衛士は、少女の不揃いな濡れ羽の髪を見、痛ましげに目を細めると、顔を伏せ部屋を後にした。
 かたり、と音が鳴り、襖が閉まる。
 再び一人となった部屋で、妙は心なく目線を辺りに巡らせてから、のっそりと起き上がった。
 覚束ない足取りで、廊下に繋がる襖とは逆の半蔀へ向かうと、背伸びをして音をたてぬよう上部の半蔀を持ち上げる。
 漏れ入る陽光が目に染みて、あまりの眩しさに妙は顔をしかめた。久しぶりに感じる陽の光だった。隙間風がふわりと短髪を巻き上げる。採光の為だけにつけられたこの屋敷の半蔀がつくる隙間は狭い。だが、線の細い少女なら難なく通れるくらいには隙間があった。
 妙は両手を掲げ、下枠を掴むと、腕に力を込めた。けれども、数日来何も口にしていない少女に己の身を支えるだけの力が残っているはずもない。わずかに浮いただけで、再び座敷に足がついてしまった。
 妙は唇を噛み、室内を見渡す。
 誰に使われるでもなく、端に追いやられていた脇息に妙は目を止めた。それを踏み台にし、再び下枠に手を掛け、懸命によじ登る。半分程開いていた半蔀との合間に、妙は身をくぐらせ通り抜けると、後は落ちるように外へと降り立った。

「――たる、ぎっ」
 少女は、ばしゃりばしゃりと水を跳ねさせて、池の中に入っていった。この場で消えた少年の名を繰り返して、あてもなく彼の姿を探す。
 腰まで水に浸かっても、妙は構わず池の周りを見渡した。水を吸って重くなった衣服を引きずりながら、少女は澄んだ池の水を掻きわけて進む。
「弛祁、弛祁、どこにいるの」
 涙が溢れて、世界が歪み始める。妙は手の甲で涙を払って、一つの変化も見逃さぬようにと、体を捻り、首を回しては、目を何度もあらゆる方向へ巡らせた。
 少女が動くたびに、水音が立ち、波が広がり続ける。木立から吹く風は、やかましい虫の音を連れてくるだけだった。
「水神様になると言ったのに、どうして」
 弛祁、と仰ぎ見た場所には、やはり少年の姿はなく、彼女自身も彼が死したことを理解できないほどには幼くはなかった。
 妙は弛祁が水神にはなれぬことを知っていたのだから。
 ただ、彼女は弛祁を呑み込んだ鏡池に、彼の姿を探しに来ただけだったのだ。この見渡せるくらいしかない池の中ならば、彼の身体を見つけ出せるのではないかと思った。
「どこ、弛祁」
 妙は池の中で立ちすくんで、嗚咽を漏らした。
 次から次へと落ち続ける涙を少女は懸命に拭う。
 背を撫ぜた風が、少女の身をぶるりと震わせた。水に浸り続けていたせいで、体の芯まで冷えていた。かちかちと鳴る歯が妙に余計寒さを感じさせた。
 せめて土に弔ってやりたかった。こんなにも冷たい場所に弛祁はいるのだろうか、と思うと妙は悲しくてならなかった。
 けれど、このままここにいては二度と彼とは会えぬだろう。
 妙は硬く瞼をおろし、池の水底から目をそむけた。そうして、彼女は池から上がった。

 ふらりふらりと少女は森の中をさまよい歩いた。もう家に戻ろうとは思えなかった。
 彼女が地にうずくまることになったのは、突き出た木の根にけつまづいて転んだからだ。
 だが、一度尻をついてしまうと、もう妙には立ち上がることができなくなった。地についた場所全てに根がはったかのように、妙の体はこれ以上動くことを拒んだ。
 どれくらいの間、そうしていたのか妙にはわからない。
 しかし、頭上から唐突に降って来た「大丈夫?」という問いに、妙は驚いて顔を上げた。心配そうにのぞきこんでくる己と変わらぬくらいの少女。体が冷えている分だけ、添えられた少女の手が温かく身に染みた。
 何かがほどけるように、妙は再び涙していた。見つけられなかったことが悔しくて、悲しくて、苦しくて、妙は地面に爪を立てた。
 名も知らぬ少女は、妙の手にそっと手を触れてきた。妙がすがっている地面の土から妙の手を取り上げるでもなく、ただ彼女はそっと手を添えてくれたのだ。
 そればかりか、下女にならないかと、彼女は妙に微笑みかけた。
 眼前にいる少女が提示してくれた内容に、妙は無心で頷いた。これでまた探しに行けると思った。
 すがり握った己と変わらぬ少女の手は、有り難いことに土で汚れた手を優しく包み返してくれた。
「あなたは、だあれ? ねぇ、あなたの名は?」
 たゆ――そう答えてしまった己の短慮に妙は息をのんだ。
 しかし、幸運なことに彼女には聞き取れなかったらしい。そうと知った妙は、新たな名を名乗ったのだ。
 たまゆら――玉響、と。

 浅香だと言う少女に背を支えられて歩きながら、玉響は一度だけ鏡池のある方を振り返った。

――□■□――


 ざぁっと、風が木立を抜けて吹き荒れる。
 先に口を切ったのは、弛祁だった。
 弛祁は、溜息を吐きだすと、大岩の上から厳しい目で妙を見た。
「知っているなら、今すぐ屋敷へ帰るんだ」
「嫌よ」
「――妙!」
 弛祁は聞き分けのない少女を叱り飛ばす。それは、彼が初めて口にした彼女の名だった。
 妙はくしゃりと顔を歪める。けれども、彼女がとったのは、弛祁の言葉を無視した行動だった。
 少女は苔むす大岩を手で掴むと、くぼみに足をかけ、登り始めた。
 妙、と弛祁は悲愴を滲ませ声を張り上げる。澄んだ玉はいつの間にやら少年の掌から零れて、転がり、岩上のくぼみで足を止めていた。
 岩の上へ登ってこようとする少女を見下ろして、彼は爪が痛むのも気付かず、ぎりと岩の面を握りしめる。
「やめろ、危ない。戻れと言っているだろう」
「嫌だ! 絶対に嫌っ!」
「妙……お願いだから」
「だって――」
 言い募ろうとした次の瞬間、少女は足を滑らせた。
 弛祁は息を呑む。
 妙は、しかし、それでも、両腕を使って必死に岩にしがみついていた。宙をさまよう足を、新たに探し当てた足場にかけ、再び岩を這い、登り始める。
「だって私、こんな岩、一人で登れる。本当はずっと、一人でだって登れたんだから」
 宣言と違わず、ついに岩場の上に立った少女は、そのままへたりと崩れるように弛祁の前へしゃがみこんだ。
 ひくり、と彼女はしゃくりあげる。「妙」と弛祁は、手の甲で自身の涙を拭っている少女へ呼びかけ、だがその中途、知らず伸びていた己の手に気付き、握り潰した。
 きつく握り込んだ拳をゆっくりと下しながら、弛祁は歯噛みし、目線をそらす。
 つい、と彼の袖端を引いたのは、妙だった。彼女は、大きく息を吸い込んで、嗚咽を殺すと、「あのね」と言った。
 妙は真っ向から、弛祁と対峙して泣き笑いを浮かべる。
「あのね、弛祁。私、花を咲かせたのよ。花を、……だっ、て、約束、約束を――」
「――――っ」
 ひっく、と再びしゃくり上げた妙を、弛祁は両腕で引き寄せて力いっぱい抱きしめていた。
 反った背が、きしきしと呻く。
 びっくりするほど痛い力に、妙の胸にはほんの少しの可笑しさがこみ上げた。骨身など砕けてしまえばいいのかもしれないと思った。
 弛祁の背に腕を回して、妙は、彼の衣を握りしめる。
 とり囲む木々の色が濃い。
 見上げた空は広く澄んでいた。
 深い水の香を胸一杯にためて、彼らは目を閉じた。

――□■□――


 匂い立つ水の香に、妙は瞼を押し開いた。
 さえざえと澄み渡る夜の池は、妙にとっては馴染みの薄いもの。
 けれども、鏡池に臨む、その心持ちは不思議と凪いでいた。

 ずっと。
 ずっと不思議だったことがある。
 施された化粧は水に入ってしまえば、いとも簡単に流れてしまうと言うのに、何故人はわざわざ水神のもとへ上がる娘を美しく飾り立てるのか。
 妙には、それがようやくわかったような気がした。
「弛祁、弛祁」
 ほたほた、と顎を伝い落ちた滴が水面を打つ。煌々と照らされ揺れる昏い水面に鮮やかな波紋が円を描いていく。
 水の社に入る場所はあの日の場所と同位。なのに、ここまできても、とうとう弛祁の姿を見つけ出すことはできなかった。
 妙は一人涙した。だが、幼かった少女の頃のように声を荒げて泣き叫ぶことはしなかった。あれから、幾度もそうしてきたように、彼女は涙を拭うことすらできずに静かに泣いた。
 袂に、あの日、結局譲り受けることになった玉の重みを感じる。大切なものだと聞いていた。だから、浅香たちに託し損ねたことだけが、心残りだった。
 だけれど、共に持っていけば、かつて口にした通り、ここで共に守っていくことができるだろうか。
「弛祁……」と、妙は問うように彼の名を呼んだ。
 夜気を含んだ風が池の上を吹きすぎる。薄い紗と共に、結われた濡れ羽の髪がかすかに風に舞い上がった。
「いいえ」と、娘はかぶりを振る。
 ここに住まうのは彼ではないと、妙は知っていた。
 ならば。
「水神様」
 ――どうかこれを真の宝玉と成してはくれないだろうか、と彼女は乞う。
 月のさやけさが、池に満ちる。
 水面にゆらめく月光の橋を見ながら、あの二人は無事に逃げられただろうか、と妙は思った。彼らが落ち合っているはずの小高い丘は、妙が立つ場所からちょうど真横に位置する。
 しっかりと見極めることは叶わない。なので、妙はちらりと横目で一瞥した。
 やはり、はっきりと姿を確認することはできなかった。けれど、そこに確かに二人の姿を見た気がして、妙は嬉しそうに微笑を浮かべた。
 ドン、と一際大きく太鼓が打ち鳴らされる。
 妙は、ゆるやかに目を閉じて、水底へと足を踏み入れた。
 水に入る直前、娘の頬を最期の涙が伝い落ちたことに気付く者はなかった。

 里人たちが去ってしまった後、中天まで登りきった月がひそやかに鏡池に映しだされた。
 青白く色を変えたほのやかな月光の中で、沈みいった者たちは息を絶やした。



 

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