咆哮



 陽を落とした薄暗さはいつだって一つの記憶を呼び起こす。
 引き寄せた顎。そうして縫いとめた。
 先に起こることを既に知っていた彼女は、彼が遠からず直面することとなる結果を見越していながら。

 どうして教えてくれなかったのですか、と触れれば切れそうな空気を隠そうともせず、彼は彼女に詰め寄った。
 ホーリラが、一方的に怒鳴り散らすことは数え切れぬほどあった。けれど、ロシュが怒鳴ることなど一度たりともなかった。
 ――――どうして止めてくれなかったのですか、と。
 怒り狂う彼を見たのは初めてだった。
 泣いていた。悲しむなどという、そんな言葉で例えてはならないほど。
 閉ざされた扉の前。開くことの許されぬ扉。
 泣き崩れたロシュを見たのはそれが最初で、恐らく最後となるのだろう。
「どうして止めてくれないのですか。やめさせてください。お願いだからやめさせてくださいよ、ホーリラ」
 嗚咽はなかった。慟哭とも違った、叫びだった。
 だが、彼が自身を引き裂き続ける痛烈さに、耳を傾けるだけの余裕は、彼女にもなかったのだ。
「あなたに止められないのに、私が止められたはずがないでしょう」
 ホーリラがしたことは、縋り返すことだけ。
 結局は、無力さに対する八つ当たりでしかなかった。


***


「入るわよ」

 ホーリラは、扉を叩くことなく部屋に入った。
 手にしていた盆を、寝台の脇に位置する小棚の上に置く。慣れた仕草で、彼女は暗さが増し始めた部屋の燭台に火を灯した。
 話疲れたのだろう。朝からずっと父に張り付いていたルイチェは、彼の膝の上で寝息を立てていた。起こさぬように引き抜いたらしい毛布が、線の細い背にかけられている。
 ホーリラは、水差しから杯に水を注ぐと、小粒の丸薬と共にロシュに差しだした。
「これで最後」
「これでようやく動けます、か……」
 じっとしておくのは結構しんどい、とロシュは苦みを洩らし、丸薬を飲み下す。ホーリラは、咎めを含ませ、眉をひそめた。
「ルイチェを引き取りに来たんだけど、まだしばらく置いておこうかしら」
「重石にですか?」
「そうよ。あなたは、もうちょっと死にかけた自分を自覚なさい。もうあんな顔は見なくて済むと思っていたのに」
「いつだって、これで最後ということはありませんよ」
 だから、今回で最後というわけにもいかないでしょう、と言った夫の額を、ホーリラは指先で弾き叩いた。
「うるさいわね、死にぞこない」
 まったく誰のせいよ、とホーリラは、寝台に腰かける。
 灯したばかりの火は、しっかりとした芯さえ揺らしながら、赤々と辺りを照らす。それと共に、照らし出された蜀台の陰が黒々と揺らめいた。
「……あれは、人間技じゃないわ。あんな状態の人間がここまで起きあがって話せるまでになるなんて」
「シェラート殿は人間ではなくジン(魔人)ですよ。初めから人間の領域を超えています」
「フィシュア様は、そう思っていない」
「そう纏めてしまいたくないだけでしょう。シェラート殿はジン(魔人)であることを受諾していましたし……フィシュア様も初めは割とそうだったはずです」
 心配いりませんよ、とロシュは言い切った。その唐突さに、ますます歯がゆさを感じたのは、ホーリラの方だ。
「それは、フィシュア様が強いから? ロシュはいつもそう言ってきたけれど、私は一度もフィシュア様が強いなんて思ったことないわ」
「そうでしょうか?」
「何か、手は? 手くらいちゃんと打って来てくれたんでしょうね?」
「残念ながら無駄話しかしていませんね」
「――怒るわよ。本当に」
 ホーリラは、半眼した。ロシュは、わずかに眉を下げて曖昧に微笑する。
 彼の膝上では、ルイチェが敷布となってしまった掛け布を手繰り寄せた。
 ただ、次で最後にしたいといつも願うだけですよ、と静かに消えた彼の言葉は、酷く胸を突くものだった。少なくとも、ホーリラにとっては。
 灯された明るさが目に沁みる。そのせいで、よけいに闇が暗さを増した気がした。最悪な記憶はいつだってこの薄暗さに等しく、彼女の中に横たわる。
「ロシュ」
 ホーリラは、指先をロシュの頬の輪郭に添わせた。薄暗さの中に光る空色を鑑みる。
「恨んでる?」
 ――私を。
 ――この婚姻を。
 ――まだ。
 続ける先はいくらでもあって。どれもが意味をなさないこともまた、知っていた。
 彼女の中にも後悔はないのだ。ただ懺悔に似た感情が奥底にあるだけで。
 彼を皇宮に近づかせぬ為に仕組まれたこと。再び出仕するまでに、全ての準備が整えられているように。
 ロシュが気付いた時にはもう遅かった。気付かれた時には、手が出せないようにと仕組んだのは他でもない彼女自身だったから。そうして、協力を受諾したのはホーリラ自身。
 最も尊ぶべき存在。昔も今も、それだけは、どちらにとっても絶対に揺るがない。
 もしも、先に知らされたのが彼だったのなら。考えるまでもなく綺麗に立ち回ることができただろう。彼女にとって最良の道をいつだって導き出す。そういう男だ。
 けれど、それが、ホーリラの優先すべき存在にとっては、意に沿わぬ道だったと言うだけ。例え、その選択が誤りだと。他にも道はあったと、彼女自身理解していても。
 だから、その時ばかりは、彼女は誰よりも信頼しているはずの彼の介入を徹底的に退けた。

「何のことですか?」

 ロシュは、うそぶく。微笑まで浮かべている夫を、ホーリラはいっそ苦々しい思いで見つめた。
「何か私が恨みそうなことでもしたのですか?」
「いいえ」
「恨まれることはあっても、恨んだことは一度もありませんが」
「ええ。あなたはそう言うでしょうね」
 ホーリラは、ほろ苦く微笑してそっと指先を離す。
 引かれた一線。それは、彼が引いたものではないと知っている。ただ、もう自ら引き寄せることはしないだろう、と離れた指先が告げる。
 ルイチェを連れて行くわ、とホーリラは寝台の縁から、立ち上がった。
「いいですよ、ここで寝かせておいて」
 彼女は、ついと夫を眇め見、不敵に口端を吊り上げる。
「重石にするから?」
「ええ、重石に。随分と軽いですが」
 そう、とホーリラは、頷いた。
「水差しは置いていくから。他に必要なものは?」
「今は特には」
「まぁ、あとでまた様子を見にくるけれど……。逃げないでね。私まで怒られるのは嫌だから」
「ホーリラが言うほど説得力のない言葉はないですね」
 ホーリラは、口をつぐむ。
 代わりに、ロシュが「いいですよ」と微笑した。
「一緒に戻りましょう。一人だけ抜け駆けされては困りますから」
 彼が持ちだした前科に、ホーリラは、顔をしかめた。
 そうして、彼女は、それより先は何も言わずに部屋を後にしたのだ。