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一つの別れ【3】


「ちょっと休憩しすぎたいみたいね。そろそろ出発しないとじきに陽が落ちるわ」
 さっぱりとした口調で言って、フィシュアは立ち上がった。服についていた砂がぱらぱらと零れ出す。フィシュアはさらに膝丈まである上衣の裾と下穿きをそれぞれ叩き、落ち切らなかった砂を払った。
 陽が辺りを照らす分、夕影の色は濃い。近くには水場と砂地が広がるばかりで、見渡す限り家は一軒も見当たらなかった。一度、陽が落ちてしまえば、前後の境もつかない完全な闇に包まれることは想像に容易い。
「あぁ、そうだな」
 同調し腰を上げたシェラートを見て、テトも慌てて立ち上がる。
 ぱんぱんと、いささか大げさに砂を払っているテトの所作は見ていて気持ちがよい。シェラートは軽く苦笑しかけながら、少年の背側にまわると砂を落とすのを手伝ってやった。
「ここからだと街までどれくらいだ?」
 シェラートは尋ねる。フィシュアは、少し考えてから答えた。
「そうね、大体四十分も歩けばつくはずよ」
「道はちゃんと把握してるんだな?」
「任せておいて」
 シェラートの念押しに、フィシュアは自信ありげに口角を吊り上げる。これだけ余裕たっぷりなら間違っても迷うことはないだろう。シェラートは、それだけ確認すると、頷いた。
「なら、十分もあれば着くな」
「ちょっと待って! どうしていきなりそうなるのよ!」
 あまりに突拍子もない行程時間の短縮加減にフィシュアは驚愕した。何がどうなったら四十分が十分になるのか、全く見当がつかない。
 困惑するフィシュアの袖を引いて、テトはにっこりと笑った。
「空を飛んで移動するんだよ、フィシュア」
 もっともらしく説明してくれたテトはいかにも得意げだ。さっきから予想だにしなかった物事にばかり立ち合っているフィシュアは、『あぁ、なるほど』と納得しかける。けれども、そこでふと浮かんだ疑問をフィシュアは見過ごすことができなかった。彼女は目の前にいる二人に問いかける。
「空を飛んで移動できたなら、どうして砂漠なんかで倒れてたのよ」
 テトとシェラートは互いに顔を見合わせた。
「まぁ、はじめは飛んで移動してたんだけどな」
「途中で疲れてきて落ちちゃったんだよねっ?」
 シェラートは何食わぬ顔をして、テトは明るく笑って、事の次第を弁明する。フィシュアは軽い眩暈を覚えて、手を額にあてた。
 一体彼らの思考回路はどうなっているのか。飛んで移動できなくなった時点で、なぜこの二人は自分たちの体力の限界に気がつかなかったのだろう。
 いっそ感心してしまいそうになりながら、常識から外れすぎた二人を前に、フィシュアは「信じられない」とぼやいたのだ。


 テトとフィシュアをそれぞれの腕に抱え上げて、シェラートは地上から離れた。
 高度はぐんと上昇する。安定した浮遊感に、フィシュアは心を浮き立たせながら、シェラートの肩に手を添えた。
 遥か地上に広がった景色に、フィシュアはしばし声を失う。続く砂地は陽光を弾き、風に吹かれるたび流砂が描き出す紋は様変わりしてゆく。足を取られ、あれほど煩わしかったはずの砂漠はしなやかで、見知っているものとは別物のように見えた。
「すごい」
 フィシュアは頭を巡らせる。
 テトは慣れているのか、はしゃぐ様子もない。かわりに、物珍しそうに眼下の光景を見渡し続けるフィシュアを、テトは楽しそうに見ていた。
「あんまり動くと落ちるぞ?」
 見かねたシェラートが声をかけても、フィシュアは飽きもせず変わりゆく世界を見つめ続ける。
 フィシュアは、ほぅ、と溜息をついた。
「まるで黄金の世界ね」
 果てしなく広がる砂漠も、オアシスも湖面も、今は翳りゆく太陽の光を一身に受け、どこもかしこもきらきらと輝いている。
 フィシュアは最後に、元いた街でもっとも大きな白い建物を振り仰いだ。次第に小さくなっていく屋敷は、それでもひときわ威厳を放っている。昼間は鋭い陽光を照り返す白壁も、今は周り同様やわらかな黄金色に染まっていた。予定よりも随分と長居してしまった場所。あの場所に住まう若き領主を想い、フィシュアは一度だけ微笑む。
 目指す次の街はまだ見えない。フィシュアは視線をまっすぐ目的地に定めなおす。彼女が再び振り返ることは、もうなかった。


「さぁ。ここが砂漠の果ての街、ラルーよ」
 フィシュアは、二人に向かって街の入り口を示した。入り口には荷馬や行商人の行き交う姿が絶えない。彼らも本日最後のラルーへの来客らしかった。砂漠を越えてきた面々も、またこれから砂漠越えをする者も、今はゆっくりと身体を休めるため今宵の宿を求めて街の入り口をくぐる。
 三人は賑やかな人の流れに混じって、街へ足を踏み入れた。
「ねぇ、フィシュア。本当にここで砂漠は終わりなの?」
 歩きながら、なかば緊張した面持ちで尋ねてくるテトに、フィシュアは「ええ」とにこやかに顎を引いた。
「テトたちは、このままミシュマール地方へ抜けるのでしょう?」
「うん。後は村に帰るだけ」
「なら、この先に砂漠はもうないわ」
「じゃあ、本当に砂漠はもうないんだね。やったー!」
 テトは諸手を挙げた。全身から喜びが溢れ出ているテトを見て、フィシュアは改めてこの少年にとって砂漠越えがどれほど堪えたのかを思い知った。辛かったのだ。想像よりもはるかに。
「そんなに辛かったのなら、砂漠じゃなくて山道の方を通ってあげればよかったのに」
 非難を込めてフィシュアは少年の魔人ジンをじとりと仰ぎ見た。
「テトが村から出て来た時は、山道の方を通ったらしいんだけどな。途中で会った行商人に砂漠の方が近道だと聞いたんだ」
「まぁ、確かに山道の方が少し遠周りにはなるけど、多く見積もっても三日くらいしか変わらないのよ? 山道を通った方が定期的に村もあるし、道がきちんと整備されているから、普通なら山道を通るわ。何か急ぎの用でもあるの?」
「まぁな」
 素っ気なく頷くと、シェラートはフィシュアから視線をそらした。
「そう」
 フィシュアは静かに呟く。彼の答えに納得したわけではない。けれども、これ以上、彼らの事情に深入りするだけの理由をフィシュアは持ち合わせてはいなかった。彼女は彼女でやらなければならないことがある。どの道、自分はここで二人と別れ、別の道を歩まねばならなかった。
 知り会ったばかりの女を一瞥し、シェラートは肩を竦める。彼女の持つ深い藍色の双眸は既にここではなく、どこか遠くを見据えていた。
「行くのか?」
「ええ」
 フィシュアは、力なく微笑んだ。どこかで、この二人と別れることを寂しいと思っている自分がいる。不思議だった。まだ出会って半日も経っていないというのに、ひどく別れがたいのだ。出会い方から慌ただしく、驚きの連続で休む暇すらなかったからかもしれない。あまりにも印象的過ぎて、彼らのことを忘れることはきっとないだろう。
 胸に沸き起こった寂寥を追い払うようにフィシュアは苦笑すると、足を止め、二人に向き直った。
「ここでお別れ」
「え!? フィシュア、もう行っちゃうの?」
 領主の屋敷に戻る、と告げた時と全く同じ表情をしているテトを見て、フィシュアは笑った。夕暮れに映える栗色の髪。フィシュアは優しい指触りの髪を撫で、テトの顔を覗き込む。
「そんな顔しなくても、いつかまた機会があればどこかで会えるかもよ?」
 フィシュアはテトの頬を手で包み込んで、艶やかに微笑みを浮かべた。少年の澄んだ黒い双眸が、フィシュアの目を見つめ返す。
 ふわり、とテトの頬へフィシュアは顔を近づける。唇が触れる寸で、シェラートは溜息交じりにフィシュアの首根っこを引っ掴み、テトの傍から引き離した。
「だから、やめろと言っているだろうが」
「別に減るもんじゃないし、いいじゃない」
 邪魔されたフィシュアは、不機嫌そうにシェラートを睨みつける。言い合う二人に挟まれて、ただ一人、目を白黒させていたテトは、またしても顔を真っ赤にして固まってしまった。
「まぁ、いいわ。キスは今度会った時まで、取っておきましょう。おかげでいろいろ助かったわ、ありがとう」
 じゃあね、とフィシュアは笑って二人に言い置くと、踵を返した。
 フィシュアが歩を進めるたび、彼女の姿は確実に雑踏に紛れていく。街の夕暮れは、もう終りに近づいていて、最後の残り日が、フィシュアの薄茶の髪を透かせて金色に輝かせていた。
「フィシュア!」
 テトはたまらなくなって、消えそうな後ろ姿に呼びかけた。声は届かなかったのだろうか。テトが肩を落としかけた時、フィシュアは思い出したように振り返った。
「そうだ。言い忘れてたんだけど、もし今度砂漠を渡ることになったら、水を含めてきちんと準備してから行くのよ!」
 いいわね? とフィシュアは遠くから叫んで念を押す。それだけ言ってしまうと、テトの返事も待たずに、彼女は再び背を向け、今度こそ夕暮れ時でにぎあう街の市場の方角へ消えた。
 目を凝らして姿の見えなくなったフィシュアの行方を見つめ続けるテトの頭を、シェラートはぽんぽんと叩いた。
「俺たちもそろそろ行くぞ。お腹空いただろう? 何か食べに行こう。それに宿も探さないとな」
 テトは、顔を上げる。見上げると、行き当たったシェラートの翡翠色の目は『やることはいっぱいあるんだぞ』と言っていた。
 テトは笑みを広げて「うん」と首肯する。顔を見合わせたテトとシェラートは互いに笑いあうと、人混みの中へ一緒に歩き出した。