手首の話


「ヒ、ヒビカ兄様!」

 分厚い本を抱えて廊下を歩くヒビカの姿を目にとめたフィシュアは、思わず兄の名を呼んだ。
「なんですか?」
 ヒビカは立ち止まり、首を傾げる。
 眼鏡の奥、硝子越しに見える双眸はいつだって静かだ。
 呼び止めてしまった手前、何か話題を見つけねばならない。フィシュアは、彼の方へ歩み寄りながら、言葉を探した。
 上の空でかわされる会話。
 フィシュアは真実と向き合うべく、こっそりと自分の手首を次兄の手首を見比べた。
 ああ……、やっぱりだ。
 女である自分の手首よりも、男であるヒビカの手首の方が細い。
 フィシュアは、少なくないショックを受けた。

***

「まさか。まさかのまさかだな」
 フィシュアは、外廊下の欄干に突っ伏した。
 ごいんと音を立てた額がじりじりするが、心の方が痛む。
 剣を扱う以上、他の姉妹よりも手首が太いのは仕方がないことだと認めてはいたが。いたのだが。
 まさか、兄のことまでは考えていなかった。
 あんまり太くならないように気にはしてたんだけどな、とフィシュアは、欄干に頬を載せたまま自身の手首をさする。
 元々見目麗しくないことは重々承知だが、仮にも歌姫として人々の前に立つ自身が筋骨隆々としていたら、客の目を楽しませることはできないだろうと思っている。それ故に、あまり外見に出ないよう削れるものは削ってきたのだが。
 どどーんと訳もなく暗く落ち込む思考。
「やばい。立ち直れない」
 フィシュアは、再び欄干に全体重を預けると、崩れ落ちた。



「あれ?」
 風に流れる琥珀色の長い髪。
 彼女の姿を見つけたのは、ルディだった。
「ねぇ、あれ、フィシュアだよね?」と、共に歩いてきた四つ年上の兄に確認するも、兄の姿は既にそこにはいなかった。
 すぐ上の姉に視線を戻したところで、『やっぱり』と思う。
 なぜか欄干に突っ伏している姉の真上で、振り上げられた長剣。
 陽光に煌めく剣先。

「――ドヨム!」

 ルディは、青ざめた。
 ガキン、と。
 石でできた欄干が刃を受け止める。
 フィシュアは、すかさずドヨムの腰に向かって蹴りを繰り出したが、対する相手の腕に阻まれて入ることはなかった。
 だが、わずかにできた隙をついて、彼女は指を伸ばす。
 狙い通りの場所に手が触れたのと前後して、ドヨムの剣は実にあっけなく床に落ちた。
 零れた剣に見向きもせず、「あーあ」と、ドヨムは何事もなかったように欄干に背を預ける。
「――ったく。何してるんだ、お前は」
「考え事よ、考え事。邪魔するな」
「どうせくだらないことだろう」
「くだらなくて悪かったわね。くだらなくないのよ、私には」
「俺を巻き込むなよー?」
「巻き込むならもっと面倒事にするわー?」
 和やかに開始された会話。嘘臭い微笑を交わし合っている兄姉にルディは頭が痛くなった。



「そんなこと気にしてたのかよっ!」
「大問題なのよ、私にとっては!」
 流れで事情を説明することになったフィシュアは、案の定ドヨムからの爆笑を受けることとなった。
 ルディまでもが、心なしか必死に笑いを噛み殺しているように見える。
「まぁ、ヒビカは細っこいからなぁ」
「もしかして、兄様よりも太いんじゃないかしら……」
「それは……どうだろうな?」
 おどけたように首を傾げて、ドヨムは再び盛大に笑いだす。
 フィシュアは、彼の腹を思いっ切り殴ることにした。
 ルディは、自分の腕を掲げて眺めやる。
「そうかなぁ。フィシュアの腕って俺から見たら、折れそうなくらい細く見えるんだけど」
 むしろ華奢な方なんじゃない? と言ってきたルディに、フィシュアはきっぱりと首を振った。
「ドヨムとデルーガとルディは論外」
 比べる対象にすること自体間違ってる、と。
「ロシュは?」
「もちろん論外!」
 フィシュアははっきりと言いきった。
「ドヨムたちと比べたら、誰だって華奢になるのが当り前でしょう!? 基準が太すぎるのよ基準が!」
 特にドヨムとデルーガ! とフィシュアは言う。
 彼女の勢いにのまれたドヨムとルディは、ちょっとばかり凹んだ気分を味わった。

***

「テト、ちょっと手、貸して?」
「え、何?」
「いいから、……って、ぐく……」
 テトの方が細い。フィシュアは、がくっりとうなだれた。テトの場合は、子どもだからということにしておいてもいいだろうか、と乾いた笑みを浮かべる。
「え、何、どうしたの、フィシュア」
 黒いまなこが不思議そうに丸くなる。
「いいなぁ、テト、細いの……」
 はぁ、と漏れた溜息。テトは、理由が分からないながらも、慌てふためいた。
 机の上に伏したフィシュアは、とてもぐったりとしているように見える。
「シェ、シェラート! フィシュアが、……フィシュアが変っ!!」
 変ってなんだ変って、と思いつつも、フィシュアはぐでんとしていた。細いのいいなぁ、と。
「何だ、熱でもあるのか?」
 掻きあげられた前髪の代わりに、他者の手が額に当たる。その向こうで、シェラートは怪訝そうに眉をひそめていた。
 フィシュアは、目を瞠った。
 そうして彼女は、ぱしりとシェラートの腕をとらえたのだ。
「やった。勝ったわ!」
「は?」
 奇妙な顔で見つめてくるテトとシェラート。対して、フィシュアは鮮やかに満面の笑みを浮かべた。 
 その後、フィシュアから事の経緯を聞いたテトは納得できたらしく頷いた。
 シェラートには、呆れかえられたらしくアホかと言われることとなった。
 とりあえず、フィシュアはシェラートの髪を引っ張っておくことにした。