03


 しとしとと、その日は朝から雨が降り続いていた。
 前髪から滴り落ちる雫を時折手の甲で払いのけながら、ユンフォアは林を抜ける。靄がかかっている野を彼女は足早に通り過ぎた。雨を吸って重たくなった服が肌に張り付く。靴に沁み込んだ水が心底気持ち悪く、ぐちょりぐちょりと、足が土にとられる度に不快さは増した。
 それでも、彼女がこの日、屋敷にやって来たのは、これから先しばらくの間、カセンに会うことが叶わなくなるからだ。雨が上がり次第、村では稲の刈り入れが始まる。幸いなことに、今年は例年よりも多くの収穫が見込めそうだと大人たちは喜んでいた。
 毎年この時期の収穫高は、年貢として領主に納める為だけでなく、先一年間の食卓に大きく関わってくる。稲の収穫作業には、子から老人まで、自分の足で歩ける者たち皆であたる。もちろんユンフォアも例外ではなく、村総出で行われる刈り入れは、一年で最も慌ただしく、最も活気に満ちた時期だ。
 敷地内に踏み入ったユンフォアは、木立から続く茂みを越えようとしたところで、足を止めた。
 呆然と目を瞠り、彼女は立ちつくす。庭には二人の人物がいた。一方はカセンであり、もう一方はユンフォアの知らない女だった。
 結いあげられた艶やかな黒髪が、金色の簪で纏められている。彼女が纏っている衣装は、鮮やかな花を背景としても劣ってなどいなかった。何より、今にもくずおれそうな華奢な儚さが彼女の美貌を一層際立たせていた。
 降り続ける雨の中、黒髪の女は、カセンの胸に寄り添うようにして立つ。カセンが、そっと彼女を包みこんだのは、至極当然のことだったのだろう。
 まるで一枚の絵を切り取ったかの如き彼らの姿。ユンフォアは、くるりと二人に背を向けると、その場にしゃがみ込んだ。振り返れば、すぐにでも茂みの陰から彼らの様子を伺い知ることができる。だが、彼女にはそうすることができなかった。出所の分からない憤りを感じて、ユンフォアは荒く息を吸い込む。握り込んだ手の甲に、雨粒が落ちた。自分以外の誰かもこの場所を知っていたという事実に、彼女は打ちひしがれた。陰鬱さが胸を占める。カセンに裏切られたのだ、とユンフォアは感じた。
 ユンフォアは、唇を噛みしめる。そうしていなければ、あまりの寂しさにわめき散らしてしまいそうだった。両足を抱え込んで、少女は額を膝の頂に押しつける。
「ユンフォア?」と涼やかな声がかかったのは、その時だった。
 茂みを掻き分ける音が、耳に届く。「ああ、やっぱり」と、カセンは茂みの陰にうずくまっていた彼女を背後から覗きこんできた。
「泣いているの?」
「泣いてなんか――」
 ユンフォアは、反射的に顔を上げてしまった。振り仰いだ先には、曇天の空の代わりにカセンの顔があった。
「おいで。こんなところにいたら濡れてしまう」
 カセンは自身の身体で、彼女にかかる雨粒を遮る。紗幕のように降りた彼の紺色の髪は、ユンフォアの視界を左右から覆い隠した。
「――泣いてなんかいなかったわ」
「そのようだね」
 カセンは、微苦笑する。「おいで」と彼はユンフォアの両脇から、凍える彼女の手を取った。
「熱いお茶を淹れよう。見せたいものがある。花が新しく咲いたよ」
「だけど、さっきの――」
「ん?」
 口ごもった少女に、カセンは首を傾げる。居心地の悪くなったユンフォアは、まじまじと見つめてくる紺色の双眸から、目を逸らした。
「……行く」
 端的に答え、彼女は口を引き結ぶ。カセンの掌中から手を離し、立ち上がろうと、一人足に力を込めたユンフォアは、その中途、意志に反してぐらついた足元に、声を上げた。
 前触れなく後方へと傾いだ少女の身体。咄嗟にユンフォアから身を引いたカセンは、彼女が倒れる寸でのところで少女の腕を掴んだ。危ない、とカセンは顔を顰め、ユンフォアを引っ張り上げる。未だにがくがくと足を震わせている少女の身を、彼は片腕だけで支えた。
「雨で身体が冷え切ってしまったのだね。この雨だ。今日は来るべきではなかったんだよ」
 カセンは、ユンフォアが崩れてしまわないようにと、彼女を支えたまま注意深く腰を下ろした。濡れて衣服が張り付いた細い腕を自身の首へと回し、ユンフォアを背負い上げると、屋敷に向かって歩き出す。
 選択肢もなく彼に負ぶわれたユンフォアは、頬をほてりとカセンの肩に寄せた。
「……だけど、カセン。明日からはもう来られないわ」
「なぜ?」
「稲の刈り入れが始まるから」
「ああ。今は、そんな季節なのか」
 めまぐるしいね、と彼は言う。
 茂みを抜けた二人は、色に溢れる庭園に足を踏み入れた。重なりあって降る雨が、花々の輪郭をおぼろげに霞ませる。
 いつの間に帰ってしまったのか、さっき見た黒髪の女の姿は、もうそこにはなかった。茂みに隠れていたことが気付かれたから、彼女は帰ったのだろうか、とユンフォアはぼんやりと考えた。
「…………私が来ないとカセンは嬉しい?」
「どうしてそんなことを聞く?」
「そうなんじゃないかと思ったから」
「そのような時は、どう答えるのが一番よいのだろうね」
 ふと、彼が笑ったらしい気配がした。微かな振動が、背越しに伝わって来る。カセンは、嬉しいとも嬉しくないとも答えない。
 ――ああ、それでも。
 背負われたユンフォアは、口をつぐんで、彼の背に顔を埋める。
 カセンは、自分のことを抱きしめてはくれないのだ、と彼女は訥々と思い知った。



 湯に浸かり、濡れた衣服から着替えたユンフォアは、茶を飲んでいる最中に、結局、高熱を出して、倒れた。薬湯を飲み終え、今は掛け布にくるまって眠っている彼女を、カセンは眺めやる。
「怒ったり、笑ったり、泣いているのかと思ったら熱を出して倒れてみたり、人は本当に忙しない」
 困ったように苦笑しながら、彼はユンフォアの小さな額に自身の掌を重ねた。火照った額は、汗ばんでいるせいか、湿り気を帯びている。
 やがて少女の熱っぽい呼吸は、穏やかな寝息に転じた。それを認めてから、カセンはユンフォアの額上から掌を離す。彼は吸い上げた熱を冷ますべく、手を何度か空中で振った。
「それとも、ユンフォアだから忙しないのかな」
 カセンは、枕元に佇み、少女の寝顔を覗き込む。
「来なくなったのなら変哲のない日々が、また悠久の如く続くのだろうね」と彼は誰にともなく呟いた。