Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht, 01


 リィが愛したのは町長まちおさの三男坊だった。



 荒れ狂う車輪の乱れと、人々の悲鳴が行き混じる。その日、リィは母に頼まれて夕飯の材料を買いにでかけていたところだった。
 目の前で振り上がった鋭い蹄。唾を撒き散らして動転している馬の後ろで、馬車が横転する。ゆったりと倒れる車――どこか他人事の、遠くの物事のように感じた瞬間を、リィははっきりと覚えている。



「リィ」
 声をかけられて、リィは顔をあげた。店先で常連客の初老の婦人がひらりと手を振っている。
「サンシャさん」
 リィは刺繍を施していた布と針を膝に置いた。気のよい婦人はいつもにこにことしていて、通りを歩く若い娘たちよりもよほど愛らしい浮かべているが、今日はいつもに増して上機嫌らしい。きっちりと結われた白髪交じりの髪や落ち着いた色合いの衣、そして仕草の一つ一つが彼女の持つ上品さそのものを映していながら、丸みを帯びた高い頬はほんのりと上気し少女のように輝いていた。
「何かよいことでもあったんですか?」
「えぇ。昔、仕えていた家のおぼっちゃんがね、お休みをいただいて京城から帰ってらしたのだけど」
「サンシャさんが仕えていたって言うと、町長の?」
 頷きながら、サンシャは「ふふふ」と零し、隠しきれない嬉しさを袖先で覆う。
「そのおぼっちゃんが、こんなばぁばのところまでわざわざ会いに来てくだすってね、せっかくだから何か欲しいものを買ってやろうなんて仰るから」
 チダの実の包み菓子をおねだりしようと思っているの、とサンシャは頬にできた笑い皺をくしゃりと崩して秘め事を打ち明けるようにささめいた。
「今日は置いてあるかしら」
「もちろん。二番の棚のちょうど上から三段目の左側に置いてありますよ」
「ありがとう」
 いそいそと棚の方へ向かったサンシャの姿にリィは和やかな気持ちになった。棚の陰に婦人の姿が隠れてしまったのを見送って、リィはふと入口に立つ青年に目を留める。
 夕陽に淡く透ける茶味を帯びた黒髪。端正とは言い難いどこか角ばった印象を含む輪郭は、祭のたびに台座にあがる町長やその息子たちに似ていると言えば似ていた。ただ、彼らがもつ華やぎは彼にはないようだ。唇を引き結んで戸口に寄り掛かる彼の姿は、これまで事あるごとにサンシャがリィに語って聞かせたやわらかな印象に反して堅物そのものだ。それでもサンシャにしてみれば愛おしくて仕方がないのだろう。
 サンシャの目から見た彼と現実の彼の相反する印象の差の大きさに、リィはひっそりと笑いを飲み込んで、刺繍に目を戻す。
 常客のサンシャが話していたのが町長のどの息子のことなのか今日まで知らなかったが、京城に出ていたと言うのなら末の息子に違いない。上の二人の息子は、とっくに京城から戻って来て父親の元で働いているはずだった。
 ふいに手元の刺繍に影が落ちてきて、リィは顔を上げた。
 いつの間に店内に入ったのか。眼前に立つ町長の末息子は戸口の先に立っていた時と同じ表情のまま、リィを見下ろしていた。
「お前は店の者だろう」
 問われ、リィは顎を引く。声に含まれた独特のとげとげしさに、リィは咄嗟に声が出なかった。
「なぜ動かない。サンシャは客だ」
 末息子が口にした言葉の意味を測りかねて、リィは瞬きをする。
「なぜ客に商品を取りに行かせているんだと言っている。自分は動きもしないでのんびり椅子に座っているなんておかしいだろう」
 重ねての物言いに、リィはようやく末息子が自分を詰る理由に思い当たった。リィが両親に代わって店番をしている時は、店を訪れる客、皆がそうしてくれるから気にもとめなかったが、末息子が指摘することは理にかなっている。
「それは……」
 理由を説明しようとして、けれど、リィの口は知らず動きを止めた。言いようのない感情が急にのしかかり、身体が重く気だるくなる。何よりももう痛むはずのない左足がひどく痛んだ。
「私は、足が」
「ウジェン様、リィは足が動かせないのですよ」
 胸に菓子の小包を抱いて戻って来たサンシャはにこにこと言った。
「足が?」
 町長の末息子はサンシャを振り返る。心得たようにサンシャは頷き、慈しむ眼差しを、訝しんでいる彼に寄せた。
「ええ。ちょうど去年の今頃、馬が暴れて馬車が狂ったように大通りを縦断する事件があったのですよ」
「……轢かれたのか?」
 末息子は目を丸くして衣の裾に隠れたリィの足と、サンシャの顔を見比べた。
「いいえ。幸いなことに轢かれはしなかったのですが、大通りの店先に積んであった木箱が倒れて来て、サンシャも下敷きになったんです。その時、左足を特に痛めたみたいで」
 そうよね、と労わるように目配せをしてくるサンシャに、リィは吐き気を堪えながらなんとか平静を保って頷き返した。
「それきり、サンシャの左足は動かないのですよ」
 町長の末息子は、眉間に眉を寄せて椅子に座るリィを見下ろしてくる。リィは強張ったまま、顔を動かすことができなかった。
「右足は、何ともないのか」
「……はい」
 リィは諦めるように吐息した。
「なら、動けるだろう」
 あっさりと放たれた言葉に、リィは目を見開いた。
「むしろ、早く動かなければ右足まで動かなくなる。なのに動いていないのは、動こうという意思がないからだ。片足をもがれた奴なんてざらにいる。俺は何人も見てきたぞ。両足が動かない奴だって、必死に動くための努力をしている。再び立ち上がった者もいたし、だめでも諦めず腕を使って動いてる。俺はそういう奴らを知っている。お前のは甘えだ」
 さも当然と言わんばかりに末息子は断じた。平然と立つ男は、リィを遥か頭上から見下ろしているかのようだ。
「憐れんでほしいのか。左足が動かない、たったそれだけのことを」
「それだけ?」
 知らず自分の声が尖るのを、リィは聞いた。
 ――何を。
 言っているんだこの人は。私の何を知っていると言う。
 辛うじて避けた恐ろしい蹄の先、ばらばらと木箱と共に落ちてきた数知れない木の実の重さも、目の前の覆い潰された暗闇もこの人は知らない。
 必死に、歩こうと柱にしがみついた。震える足。思い通りにならない左足を何度も叩いた。
 顔が歪む。歪んでいる顔で自分が笑っているのを、リィは感じた。
「勝手なことを」
 リィは目の前の男を見上げながら、椅子の柄を握りしめた。
 両親が無理をして買ってくれた身の丈に合わない安楽椅子。腰かけると、優しくリィの身に寄り添う。深く香る木の香りは、娘が座っていることを苦に思わないよう、両親が心を砕いて選んでくれたものだった。
 いつか歩けるのではないかという両親のひそやかな期待に気付いてしまった娘が、そのせいで、いくらたっても諦めるきっかけを得られないことに他でもない両親が気付いた。
 今、リィの座る安楽椅子は悪夢にすら怯え苦しみ続けるリィのためにそんな両親が探してきたものだった。
 なのに、私たちが苦しみすらしなかったと目の前の男は言った。
 視界が震える。
 男が動揺したのがはっきりと見えた。そのことがリィには憎くてしかたがなかった。
 今すぐにでもここから立ち去ってしまいたい。
 けれど、そのための足が、彼女にはなかった。