Sel'ge Liebe auf den Mund;



「おや、本当に死んじまったよ」

 ウネは年老いた夫の死骸を見下ろした。彼が息を引き取ったのはたった数秒前のこと。長年連れ添った相手だと言うのに大した感慨もない。それよりも、さて弔いの用意をせねばならぬ、と老婆は重たい腰を上げた。幾許か離れた村にある共同井戸へ清めの水を汲みに行くがてら、親類の家を訪ねつつ、行き交う親しい人々にも夫の死を知らせて行く。
 結局、汲んだ水を家まで運んで貰ったウネは、助けてくれた村の若い衆に礼を言うと、水のたっぷりと入った桶に、ざぶりと布を浸した。寝台に横たわる夫から、彼女は遠慮なく掛け布を引きはがし、よく絞った布で丹念に身体を拭き清める。病を得てからは驚くほど痩せ細っていった夫。歳のせいか、骨に張り付いているのは皮というよりも皺ばかりだ。
「やだねぇ。あたしも死ぬ時はこんなんかしら」
 最後に夫の棒きれに似た腕を交差させ、一通りの仕度を終えたウネは寝台の端に腰かけると、ふぅと息をつく。一間だけの家。ウネの目線の先で、がたのきている扉がきぃこきぃこと音を立てた。

 弔い火が作り変えた灰っぽい骨は、早速墓へと埋められる。村からやって来た娘夫婦に弔問客との宴を任せて、ウネはせっせと墓の周りに花を植えた。
「さて、あたしはどうしようかね」と、彼女は手の皺に入り込んだ土をこすり落としながら、質素な墓の前に座りこむ。
 稼ぎ手はなし、子どころか孫までもが既に家を出た。いちいち面倒を見てやらねばならない煩わしい存在もいなくなった。
 一人娘のノギは、我が子ながらよくできた娘だ。彼女の夫も、ちょくちょく尋ねてきては嫌な顔一つせず老人の詮無い長話に耳を傾ける優しい男である。彼らは、きっと年老いた自分を心配し、一緒に暮らそうと提案してくるだろう。しかし、ウネは申し出を断るつもりでいた。あの夫が死んだくらいだ。自分も持ってあと二三年かそこらに違いない。ならば、娘夫婦を煩わせるよりも、実のない時でも独りひっそりと過ごした方が幾らかマシである。
 さて、そろそろ行くか、とウネは立ち上がり、裾汚れを払った。今日はどうやら上空の風が強いらしい。空を見上げれば、雲が次々と形を変えながら流れていた。
 まったく今日に限って、どこぞで出会ったような空だと、彼女は物思いにふける。瞬時に、昔見た花畑が脳裏をかすめた。花畑と言っても、よそでは雑草扱いされるちんけな野花ばかりしかなかったが。
 老婆は整えたばかりの墓に目を落とす。
「あー、あー。分かっちゃいたけど、ほんっと自分勝手な奴だよ、あんたは」
 べしり、と板でできた墓標を叩けば、痛むのは皺がれた己の手ばかり。腹の立ったウネは、今度は墓標を足で蹴った。不格好に曲がった墓標を前に、彼女はようやく溜飲を下げた。
 ぶわりと大風が巻き起こる。同時に砂が目に入り、ウネは腕で目を覆いつむった。
 次第に凪いでいく風を肌で感じながら、風が収まるのを待つ。その最中、そよりと流れてきた甘い芳香に、彼女は薄らと目を開けた。
 おや、とウネは頭を捻る。
「あんなところに林なんぞ、あったかねぇ?」
 墓群のある丘野の端に、こんもりと木々が生い茂った場所が見える。林と呼ぶにはちぃと小柄すぎる気もするが、その在りようは雑木林そのものだ。ウネの足は自然とそちらへ向かっていた。好奇心に身を任せ、無鉄砲に突き進む若さは既に持ち合わせていない。だが、引きつけられるように彼女は立ち並ぶ木々の中へ踏みいれた。
 芳しい香りが強さを増す。胸を圧する芳香の中、ウネは高い木立の向こうにあった茂みをも越えた。チカリと瓦屋根が陽光を照り返す。眩しさに、彼女は目を眇めた。
 光に慣れゆくにつれ、彼女は徐々に瞼を押し開く。次いで、飛び込んできた無数の花たちに、ウネは息を呑んだ。
 眼前一体に広がった花々。混じり合った色味の前では、全体像を捉える事が出来ない。老婆は信じ難い光景に目を回しそうになりながら、花畑の合間を進んだ。

「花に望みをかけにきたのかい?」

 背後から声をかけられ、ウネはギョッと振り返る。
「……こりゃまぁ、たまげた」
 はぁ、と呆気にとられ彼女は男を見上げる。背の高い男だった。それも恐ろしく顔立ちのよい。長い紺色の髪は美しく背に広がり、落ち着いた佇まいに反して、人を引きつけてやまない魅力があった。もしも若い時分に、この涼やかな紺色の目で見つめられていたら、ころりと恋に落ちてしまったことだろう。長生きはしてみるもんだねぇ、とウネはしみじみと思った。
 けれど、ウネにはそれより気になることがあった。彼女は慎重に男へと問いかける。
「花に望みをかけに、と言ったね?」
「言った」
「それは、一体どういうことだい?」
「それを、一番よく知っているのは君だろう? 迷い込んだわけでもなさそうだ。だから、ここへの道が開いた」
 それは、と老婆は口ごもる。だが、「花になることを望むのだろう」と言った男の言葉に、彼女はみるみる目を見開いた。「あんた、人の心が読めるのかい!?」と驚くウネに、「まさか」と男は淡然と答える。
 ウネはしばらくの間しげしげと男を見据えたのち、「はぁああああ」と投げやりに息をついた。
「あぁ、その通りだ。そうなったらいいと思った。ただの年老いた婆の馬鹿げた妄想さ。笑いたければ笑えばいい。せめて娘であったならばそういう望みも叶っただろうが、この老婆には枯れ草がお似合いさね」
「ここにあるものたちもすべからくそう望んで花となった。花に変えようと思ったが、枯れ草を望むのなら、そうしてもよい」
「――なっ!? 待て待て待て。花に変えるって、冗談かい? ちょいとお待ちよ」
 ウネは片手で男を制すると、もう片方の手で額を抑えた。
「どういうことだい?」と問えば、「そのままの意味だが」と返って来る。
「嘘じゃぁ、ないんだろうね?」
「君は、なかなかに疑い深いようだね」
「疑う疑わないの話じゃないよ。だぁれが人が花に化けると言われて信じるかね。ちょっと顔が綺麗だからって、婆をおちょくるのもいい加減におし」
「君が望んだことだろうに。けれど、迷いがあるのなら帰った方がよい。帰り道ならば、示してあげよう」
 言うなり、ひらりと翻りかけた男の裾を、ウネは慌てて引きとめた。「本当なんだね?」と彼女は、この不思議な男の双眸を覗きこむ。
「本当にこの婆でも花に変わることができるんだね? ここにある花みたいになれるんだね?」
「さっきそのように言わなかっただろうか」
 男は首を傾げる。さらりと広がった紺色の髪を、ウネは思いっきり引っ張ってやりたいと思った。
「ああ、ああ。言ったともさ、言ったとも。この皺がれた婆をすっかり綺麗な花に変えてやるとね。だけど、嘘なら早く嘘と言っておくれ。あんまりあたしに夢を見させないでおくれ」
「嘘は言った覚えがないよ。花になることを望むのなら叶えよう」
「あんたは花の神かなんかかい?」
「人間がそう呼ぶ時もある」
「そうかい」
 ウネは、皺でたるんだ顔を覆う。「……そうかい」と彼女は呟いた。夢ならば夢のまま死んでいるといいと願った。
 どうしても果たしたかった約束があった。だけれども、それは果たせなかったから、“果たしたかった”のまま終わってしまっていたのだ。


 雲の流れが速い日だった。本当はもうずっと昔に忘れていてもおかしくはなかったような光景。風が草はらに起こす漣の形を、過ぎゆく雲が落とす黒い影を、ウネは嘘みたいに思い出せる。
 野の花が咲き乱れる、あの日あの場で、ウネは夫に求婚されたのだ。正しくは求婚させたと言ってもいい。あまりにも長い時間、共に原っぱに座っていた夫が、ごにょごにょと横で口ごもり続けるから、独語にも満たない彼の言葉が聞こえていたウネは、はっきりしろ、と彼の肩を思い切り引っ叩いた。
「け」と、彼が発した途端、ウネは満面の笑みで頷いてやった。「当り前だろう?」と。
 今考えても、不甲斐ない男だったと思う。大して格好よくもなかったし、器用でもなかった。どうしてどこにそんなにも惚れたのか、自分でも未だに分からない。だけれども、結婚を承諾した直後、この世の全てを手に入れたかのごとく嬉しそうに抱きついてきた男を、ウネは心の底から愛おしく思った。
「なぁ、俺たちはきっと死ぬまで一緒にいよう。おっ死ぬ時は、花畑でも探して、そこで一緒に果てるんだ」
 これから結婚すると言うのに、なんと遠い先の話をするのだとウネはあの時笑った。
「今日みたいな花畑で死ぬのかい?」
「ばっか。俺たちの最後を飾るんだぞ。こんなの目じゃないくらいすごい花畑さ!」
 それは楽しみだねぇ、とウネはくすくす喉を振るわせながら、彼を抱き返した。楽しみだねぇ、一体どんな最期を辿るんだろうねぇ、と。約束するよ、あたしはあんたと花畑で死のう。ここよりももっと、いっとう綺麗な花畑で眠ろう。
 約束するよ、とさらに言うと、見上げた彼の顔は優しくとろけていた。顎をとられて唇が触れ合う。何度交わしても、彼の口付けはたどたどしかった。多分、あの頃は、ウネの方がうまかったように思う。
 幸福でどうしようもないほど胸が熱かった。なぜならば、彼は最期まで共にある未来をみてくれていたのだから。もちろん、連れ添ったこの数十年、何度離縁してやろうと思ったかしれない。いけすかないこともたくさんあった。だが、一緒にいることで手に入れた幸福も、嫌なものの数百倍――いや、数に置きかえられないくらいにあった。それは、愛されているのだと実感したあの約束から始まったのだ。


 ねぇ花の神様、とウネは男に呼びかける。
「もしも花になった時には好きな場所に咲くことができるだろうか。窒息するくらい花で埋もれさせてやりたい奴がいてね」
 ウネは緊張の面持ちで、男を見上げた。この美しい花園で二人果てることができればよかったが、今となってはもう叶わない。
 果たして男は「是」と頷いた。
「望むのならば飛ばしてあげよう」
「飛ばす?」
「どうせここにある花は例外なく外界へ送り出すからね。君に望むところがあるのならばそこまで飛ばしてあげても構わない」
「一輪だけじゃ足りないんだ。たくさん、たくさんいるんだよ。この世でいっとう綺麗な花畑にしなきゃならないんだ」
「君の望むところに君の花畑をつくればいいのだね?」
 あぁ、とウネは感動に打ち震えた。
「よろしく頼むよ。どうかあたしを綺麗な花に変えておくれ。約束の代わりに、どうしても花畑がつくりたいんだ」
 だって、あいつは勝手なんだ、とウネは顔を歪めて、いひひと笑う。だから、あたしも勝手にするよ。


 ――ああ、もうこりゃだめだ、と痩せ細った夫は言った。
「あんた、そんなことばっか言ってるから、今にも死にそうな目にあってるんだよ」
 はぁ、とウネが呆れて言ってやれば、「だってな、ウネ」と夫は寝そべったまま天井に手をかざした。
「もうちょっとしか目が見えねぇぞ。ウネ、お前は今どこにいる? ちょっとこっち来てくんないか」
「なっ! 本気かい? ちょっと大丈夫だろうね?」
 ウネは慌てて病床によると、夫の顔を覗きこむ。途端、首裏から頭を引き寄せられた彼女は、驚愕に目を丸くした。
 触れ合った唇を、夫が軽く食む。懐かしい仕草で口の端まで吸われてから、やっとのことで解放されたウネが跳ね起きようとすれば、そのまま抱え込まれた頭を骨ばかりが浮き出た薄い胸に押しつけられた。
「おぅ、ひでぇや。かさかさして、艶も柔みもなくなってる。これなら、なんもせんで若い頃のお前のを夢見ていた方がよかったな」
「――と、年甲斐もなくあんなことするからだよっ!」
 カチンと頭にきたウネは、真っ赤な顔で夫に怒鳴り返す。いひひ、と漏らした夫の笑声には呼吸音ばかりが耳触りに混ざった。
「だが、いい土産になった。これで充分だ。あんな約束忘れちまえ」
 彼は骨ばかりの手で、ウネの白髪頭をゆったりと撫ぜる。
 ウネは、夫が自分と同じようにあの日の約束を覚えていたことに驚いた。なぜなら、病床に就いた彼は一度として、そのことを口にしなかった。彼女が独り、彼の理想に見合った花畑を探していたのを、夫は知っていたのかもしれない。そんな花畑など、見つけられはしなかったのだが。
 ならば、自分でつくってみるかとウネは野原に花の種を撒こうとした日もあった。だけれど、いざ撒こうとすると、夫の死期が近づくように思えて結局は何もできなかった。
「ウネ」と、彼は静かに息を引き取る。ひゅぅ、と消えゆく呼吸と鼓動が、どうしても作りものめいて思えた。
 急に重みの増した手。同時に、力の失くなった手。ウネは、彼の腕の下から這い出て、面を上げると、彼を見下ろす。
「おや、本当に死んじまったよ」と彼女は、呟いた。


 そうして、老婆は花となる。
 忘れろだって、冗談じゃない。あれはあんた独りだけの未来じゃなかったんだ、とウネは、ふふふんと鼻で笑った。
「やだよぉ、あんた。大体、誰があっちで爺の面倒見るんだい」
 なーぁ? とウネは、空の彼方を仰ぎ見る。その形のまま花に変わった彼女は、鮮やかな黄色い花をいくつも細い茎に付けて、上向きに花を咲かす。
 消えた老婆になり代わり、茶けた質素な墓周りを、鮮やかな黄色い花畑が取り囲んだ。