07



「すごい光景ね」
 敷地に入ったユンフォアは、庭に佇むカセンの姿に目に入れながら感嘆した。今では通路すら花に埋められつつある。咲き誇る花の姿は美しいと言うよりも、壮観と言うべき凄まじさを備えていた。
「これじゃあカセンと花、どちらが屋敷の主人か分からなくなってきたわ」
 花は屋敷を侵食する。そのうち屋敷ごと花に呑み込まれてしまいそうだ。それも悪くはないのだろう。むしろ両手を広げ、花の中に埋もれたらこの景色はどう変わるのだろうかと興味がわいた。
 いつの間にか向けられていた視線に気付き、ユンフォアははにかむ。
「カセン」
 おいで、と彼はいつもの通り、彼女に手を伸ばす。けれど、ユンフォアが動くことはなかった。カセンは不可解さを感じたが、すぐに自ら歩み出す。
 向かってくるカセンの足取りは、颯爽と見える割にわずかでも花を踏みしだくことがない。そのことを痛いほど知っているユンフォアは、泣き出したい衝動に駆られた。息を吸い込むだけじゃ抑えきれず、彼女は裾を握りしめて、それに耐える。「カセン」と彼女は、あらん限りの声で彼を呼んだ。
「結婚することになったわ」
「……そうか」
「もうここには来られなくなる」
「そうだね」
「だから、抱きしめてほしいの。最後に」
 ユンフォアは、眼前に来た男を見上げた。零れる吐息と共に嬉しげに微笑んだ彼女に、カセンは瞠目する。
「ユンフォア、それは」
 何度も娘たちを腕に抱いてきた男は、真っ直ぐと迷いのない娘の双眸に言葉を失った。ユンフォアは、躊躇わず自分から手を伸ばし、カセンに寄り添う。彼の胸に顔を埋め、彼女は「ふふ」と笑いを洩らした。
「初めからこうしておけばよかったのだわ」
「ユンフォア」
「はい」と顔を上げたユンフォアは、カセンを見上げ同意を求める。彼は顔を顰めた。「できない」と言う口に反し、カセンの手は彼女を身体ごと引き寄せた。
 花ばかりが取り囲む庭の片隅、男は娘を両腕で抱き竦める。
 ねぇ、とユンフォアはカセンの腕の中で溜息をついた。カセンは「どうした」と問いかけながら、彼女の髪に顔を埋める。
「ありがとう、カセン。ずっとこうして欲しかったの」
 それが最期の言葉だった。
 カセンの両腕をすり抜けて、娘の足は根へと変わる。胴は茎へ、手は葉へと。そうして、顔容の代わりに、花が綻んだ。
 茶褐色の花は口をつぐんで、風に身を委ねる。他の誰にも見向きされないだろうみすぼらしい花。
 現れた姿に、カセンは自嘲しながら腰を折った。すべらかな花弁を指の先で慈しむ。花に顔を近づけようとして、彼はそれをやめた。
 彼は、ついと顔を持ち上げる。
「迷子かい?」と、カセンは茂みの奥に向かって問うた。
 カサゴソと茂みが揺れたのち、おずおずと這い出てきた少女は首肯する。
「途中までは、お姉ちゃんの後をついてきたのよ」
「それで、見失ってしまったのだね?」
 少女はこっくりと頷いた。それを認めたカセンは微笑し、一方を指差す。
「まっすぐお帰り。そうすれば、村に辿りつけるだろう」
 本当に? と問うてきた少女に彼は何も答えない。だが、少女は「ありがとう」と無邪気に礼を述べると、示された方向へと走り出す。
 徐々に小さくなりゆく少女の姿。彼は再度「まっすぐお帰り」と呟いた。
「もう道は開かない」
 カセンは茶褐色の花に視線を落とすと、茎ごと花を手繰り寄せる。
 数多の花の中でただ一つ。男は花に薄い唇を寄せると、愛おしそうに花へ口付けた。

【fin.】