02



 夕影が色濃く店内を覆う。
 肩に手を添えられて、リィは辺りが暗くなっていたことに気付いた。
「お母さん」
「いったいどうしたっていうの」
 リィは重い頭を持ちあげる。途端、母は息を呑んだ。泣く涙も枯れた瞼が見事に腫れあがっているのだろう。涙がこびりついて干からびた娘の睫毛を母は痛まし気に拭う。
「いったい何があったっていうの」
 驚きと当惑と労わり――その表情に見知らぬ相手への少なくない怒りを混在させて、母は問う。
 リィは両腕で顔を覆い隠して、首を横に振った。何でもないの、と開いたはずの口からは掠れ切った呻きだけが零れる。
 ふくよかな腕に抱きしめられて、背をさすられる。抱きしめられながら、リィはもう一度首を横に振った。
「そう」
 吐息して、母はリィの頭に頬を乗せた。
 長い時間、母は黙ってリィの背をさすり続けていた。店の中には夜の帳が落ち、時の感覚さえ不確かになる闇がそこかしこに満ちる。その中でも背に添えられる掌だけははっきりと熱く、リィは母の肩に顔を埋めながらあまりにも弱い自分を呪ったのだ。

 その夜、リィは熱を出した。
 繰り返し繰り返し夢を見る。
 広い丘だった。風が行き交うたび、青々とした草が波打って、幾度も幼いリィの元へ寄せられる。町の外れにあるその丘は、リィが子どもだったころよく遊んだ場所だ。
 幼い彼女はつんだばかりの野花を手に持って、煌めく初夏の日差しの中をひた走った。やがて、聞こえてくる馬の蹄音に、リィはたまらず悲鳴をあげる。いつの間にかすらりと伸びた手足の動きはのろく、動かすごとに重くなる。
 リィは暗い路地裏を駆けた。何度も曲がり角を曲がり、ようやく現れる我が家にほっと安心したところで、脇に積み上げられた木箱が崩れ落ちてくる。
 飛び起きて、暗闇に怯えながら、寝汗をぬぐう。それでも、朦朧とする熱のせいで否応なしに眠りに引きずり込まれ、気がつけばまた晴れた丘に立っているのだ。

 五日目にしてようやく床上げが叶ったリィは、窓辺に飾られた花籠に咲く白い小花に、繰り返し見た夢の残滓を見た気がして、眩暈がした。
 開かれた窓から流れ込んできた微風に白花はさらさらと揺れる。花籠は見舞いに訪れたサンシャが持ってきてくれたものだ。明朗とした笑みをいくらか陰らせて、リィの様子を気にしながら寝台の脇の椅子に腰掛けた老婦人は、一呼吸置いた後、自身の無神経さを詫びた。「ウジェン様も決して悪気があったわけではないのよ」と庇うサンシャに、リィも「わかります」と頷く。
 それでも、ほっと息をついたサンシャの口から、あの男がもう三日も前に京城に帰ったと聞いたリィは、彼がこの町にはいないという事実にどうしようもなく安堵した。
 背を丸めて、何度も何度も自分の非を詫びながら部屋を辞したサンシャの姿にリィは心苦しくなった。あの日の彼らの言動は、確かにリィの傷を抉ったが、単純に憤りから来た叫びだったと言えば嘘になる。そこには、間違いなく八つ当たりも含まれていた。
 周りの言葉にいちいち惑わされず、強かにありたいと願いながらも、いつまでたってもどうしたってこんなにも弱い。
 周りなど気にした風もなく、愉快げに風と戯れている白い小花たちがリィは羨ましくてならなかった。



 ウジェンが再びリィの前に現れたのは秋の始まりの頃だった。ちょうど二ヶ月、リィの中で彼の姿がようやく風化し始めたそんな頃合いであった。
 あの日と同じく、リィが店番をしている時に店にやって来たウジェンは、男の姿を目に入れた瞬間身を凍らせた彼女とは対照的に「助かった」と朗らかに言った。
「わざわざ呼び出してもらうのも気が引けるしな。手間が省けた」
 まるでこの間のことなど何もなかったような仕草でウジェンは声を失ったリィに語りかけてくる。実際、彼にとっては気にすることでもないのかもしれない。椅子に座したままでいるしかないリィは、相変わらずの態度で見下ろしてくる男に思わずかちんと来たが、今度ばかりは耐えることに成功した。自分ばかり気にしているなど癪である。
「チダの実の包み菓子は?」
 聞かれ、リィは顔を強ばらせた。覚えていないなど、そんな都合がよいことがあるはずもなかったのだ。膝の上で握りしめた拳を震わせるリィを見下ろしながら、すっくと自分の足で立つ男は黙したままリィが動くのを待っている。わざとであろうか、といらぬ考えがリィの頭をよぎった。
 何も答えぬリィにしびれを切らしたのだろう。ウジェンは肩を竦ませた。
「心配しなくても、自分で取りに行く」
 どこに、と端的に問われ、リィはようやく商品の置いてある場所を震える声で絞り出した。棚に向かって去っていく足音を聞きながら、リィはあがる息を無理矢理押し殺して、息を継ぐ。汗は一気に吹き出した。
 ウジェンが差し出した代金をくくり付けの棚に押し込んで手早くお釣りを返し、「ありがとうございました」とおざなりに礼を述べる。それでも一向に立ち去ろうとしない男に、リィは怪訝に眉を寄せた。
「まだ何か」
「いや、あまりにもあからさまだなと思って」
「それは」
 失礼いたしました、とリィは口の中でもごもごと謝罪する。
「あれから友人に思い切り怒鳴られた」
 投げやりに切り出された言葉の意図が分からずリィはウジェンを見返した。「ほら、この間話した奴のことだ」とウジェンは言うが、突きつけられた言葉の子細など覚えていない。むしろ、積極的に忘れようとしていたくらいだ。
「酷なことを言う、と。お優しいぼんぼんのお前は、俺を引き合いに出して励まそうとしたのかもしれないが、それは俺とその子を勝手に貶めて哀れんでるだけだ。苦しんでいないわけがあるか。お前みたいなのがいるせいで、死ぬほど苦しんでいるに決まってるって」
「……それで? 謝りにいらしたとでも言うんですか。そのご友人とやらにどやされたから、具合が悪くなって渋々いらっしゃったと、わざわざこんな遠くまで私に告げに?」
 つい今までは恐ろしいばかりだったというのに、耐えきれずに言い返してしまった口調は自然刺々しくなった。
 ウジェンは、目を剥く。はるか高見から見下ろされる、その仕草に、リィはたじろいだ。
「呆れた。ひどいひねくれようだな」
 リィは息を呑んで、頬を紅潮させる。男が溜息をついた、空気の掠れがいやに耳に障った。「まぁ、いい」とウジェンは居丈高に手を振る。
「サンシャからあなたは刺繍の腕では町に並ぶ者がいないと聞いた。迷惑をかけたからな。詫びも兼ねて肩掛けを贈ろうと思っている」
 それだけで彼の言いたいことの概要は掴めた。話さえ終われば、すぐにでもこの男は店から出て行くに違いない。ウジェンの無言での依頼に、リィはすぐさま首肯する。
「わかりました。お受けいたします。けれど刺繍のお代は結構です。ちょうど私もサンシャさんにこの間のお詫びとお見舞いに来てくれたことへのお礼を考えていたので」
 ただ、とリィは挑むようにして、目上に立つウジェンを見据えた。
「私が用意できる布地なんて高が知れていますから。せっかくあなたが贈り物をと仰るなら、上等な布地を用意してください。これから寒くなりますもの。軽くて柔らかい、それでいて、暖かなものをお願いします。刺繍も、とびきり上等なものにいたしましょう」
「わかった」
 一言応じたウジェンは、これで用は済んだとばかりに踵を返した。通りの人混みに紛れた背を見送って、リィはもう何度目かになる息をつく。ずるずると椅子に背を預けて、リィは波立った気持ちを静めるために目を瞑った。


 件の肩掛けは、三日後に店へ届けられた。来月の二十日にまた寄るからそれまでに、とたった一行走り書きされた紙切れが添えられているのみで、他に希望も何もない。それなら好きにさせてもらおうと、リィは早速布地を開いた。
 くすみがかった若草色は、明るいながらも落ち着きのある老婦人の印象に自ずと添う。さすが国の中央に暮らしているだけはあった。趣味はそう悪くはないようね、とリィは皮肉に口の端を上げて、数ある糸束の籠から上物の入ったものだけを選び出した。
 施す意匠は何がよいだろうか、と思案しながら、糸束を一つ二つと直接肩掛けの上に並べていく。
 仕上がりはそう、サンシャの印象をもっと引き立たせる華やかなもの。だが、決してサンシャのよさを損なわぬよう少し控えめのものがよい。
 花と木の実と――三角の布地の頂点を軸にして、対称的に焦げ茶の蔦を伸びやかに広げていく。
 一度作業に没頭しはじめると一日は瞬く間に終わってしまった。織りなす縫い目と糸が形作る全体を何度も確認しながら、リィは刺繍を重ねていく。
 終には店先に持ちこんで刺繍を始めると、来店する客たちまで刺繍の進捗状況を気にして彼女の手元を覗きこんでいくようになった。
 ただし、贈り手であるサンシャには隠さねばならない。週に一度は来店する老婦人に危うく見つかりそうになった時は、随分と肝を冷やすことになった。挨拶に続いていくらか会話をした後、商品を選びに棚を辿るサンシャの姿を、椅子に腰かけるリィは密かに目で追いながら、親しい老婦人が肩掛けを纏う姿を想像する。それは素敵であるに違いない。
 日を追うごとに出来上がっていく刺繍を指の腹でなぞりながら、リィはふと笑みを零した。
 今も昔も、リィが誇れるものが刺繍の腕であることには変わりはない。きっと出来上がった刺繍を前にすればウジェンは目を瞠ることになる。そう自分自身で確信できるだけの確固とした技量がリィにはある。
 これで黙らせてみせる。その瞬間を想像したリィは胸がすく思いがした。同時になんだか愉快な気持ちになってきたリィは、若草色の肩掛けを抱えこんで、久方ぶりに心ゆくまで笑い転げた。