ちいさいの比例論


 人っていう生物はちいさければちいさいほどかわいくておとくなんだ、って言ったあのひとはいったい誰だったんだろう。

「くっゎあああああああああああっ! 届かないっ!」
 
 思い切り伸ばした指先が、苛立ちで震える。いつもいつも届きそうで届かない本棚の一番上段にある本に向かって、翔子は学生証を投げつけた。
 カンッと小気味のよい悲鳴をあげた学生証の行き先に、翔子は唖然とする。やつあたりでなげたはずのプラスチックカードは見事な軌跡を描いて、あろうことか本棚のてっぺんに乗っかってしまったのだ。たぶん。目視はできないけどたぶん棚の上にあるのだろう。なぜなら、あの赤い本の背表紙に跳ねかえって落ちてくるはずだった学生証は、赤い背表紙にあたりもしなければ床に落ちてきさえしなかったのだから。
「……信じられん」
「いや、信じられんのはこっちだから」
 まーたなにやってんのさ、と聞こえてきた呆れ声に、翔子は反射的に顔を歪めて振り返った。
 ちょうど部活の終わるこの時間帯。翔子が吹奏楽の練習終りに寄るのだから、あちらもちょうどそんな時間なのは当り前で。棚と棚の間に立った立花悟は学校鞄とは別におおきなスポーツバッグを肩にからって、けれども、立花悟がからっているとおおきいはずのスポーツバッグはそんなにおおきく見えなかった。
「うるさいせーたかひょろっと男子! 無駄に図書館通いのスポーツマンのくせして図書館に来る暇あったらそのひょろっと感を鍛えとけよ!」
「大きなお世話です。まんねんちびっこ女子め。大体、無駄に図書館通いだから、来てんだろう。で、どれが必要なん?」
 翔子の横に立った立花は、赤と茶の本を交互に指差す。さっきまで自分が必死になって伸ばしていた指の先と同じ高さにある坊主頭を、翔子は恨みを込めて睨み返した。
「いらん」
「はぁっ?」
「いらんって」
 心底呆れかえった様子で見下ろしてくる立花に、翔子はそっぽを向いた。実際のところ立花の身長は翔子の1.5倍もないはずなのに、こうやって見下ろされると2倍くらい高いんじゃないかと思える。自分はあんなに苦労したのに立花だと易々と取れてしまえるその身長差が腹立たしくて、翔子は口を引き結んだ。
 あの本は自分で取るのだ、と半ば躍起になった翔子は立花を残して閲覧室に向かう。そこから、一脚拝借した椅子をひきずって、翔子は本棚へ引き返す。こんな時こそパイプ椅子であれば軽くて楽なのに、図書室の椅子だけはしっかりと木製で布張りなんだから重くて困る。
 ずりずりと椅子を引きずりやっとの思いで戻って来た翔子は「で、どっちなん?」と赤と茶の本のどちらも本棚から取り出して待っていた立花の所業に奇声を上げた。
「ちょっ。立花、お前どんな嫌がらせだよっ!」
 椅子をほっぽり出して立花ににじり寄った翔子は、げしげしと立花の脚を蹴る。「親切心だろ」と答えた立花に「どこがっ!」と返すのも忘れなかった。
「ついでにほら、学生証もとっておいた」と翔子の頭上でひらひら掲げる立花はおかしそうに笑いながら、「で、どっち?」と性懲りもなく聞いてくる。
「……赤の方」
「はい、赤ね、はじめからそう言えばいいのに」
 不服そうに答えた翔子を尻目に、立花は背が茶の方の本を棚に戻す。誰かが言っていたかわいいはずの身長の割には、かわいげもなく舌打ちをした翔子は、大袈裟に肩を落とすと必要のなくなった椅子を閲覧室に戻すことにした。
 ざりざりと引きずる木製の椅子は役に立たなかった分、重い。図書室内を見回っていた司書の先生に見咎められたせいで途中からは持ち上げて運ばなければならなくなり、椅子の重さはさらに堪えた。
 そして、元の場所に戻って来た翔子はあんぐりと口を開くことになったのである。
 さっき立花が手にしていたはずの赤の本は、しっかりときれいに本棚に収納されていたのだ。
「……たちばなめ」
 見つけ次第殴ってやろうと思ったのに、見渡したところどこにもいない。
 届かない本棚の一番上の段。立花の姿はなし、踏み台にする椅子もなし。
 地団太を踏みたくてしかたなくなってきた翔子は、この憎さを脚腰に込め、飛び上がった。
 もちろんそうそう届くはずもなく。ぴょんこぴょんこと飛び跳ね続ける翔子の姿に見かねてか、とうとう彼女の制服の襟をひっぱったのもやはり立花だった。
 言い連ねたい文句を奥歯の奥に噛み殺して、翔子は後ろに立った立花を睨む。
「やっと来たか」
「何やってんの」
「何やってんのは、こっちの台詞」
「いや、ほんとちいさいってそれだけでかわいいなぁと思って」
「わけわからんし」
 立花は笑って、翔子の頭越しに、赤い背表紙の本を取った。
 ぶつくさと文句を言い続ける翔子の頭にコツリと本をぶつけて、立花は翔子の腕を引く。
 出口近くのカウンターでそれぞれに貸し出しの手続きをしながら、立花は翔子に話しかけた。
「だってほら、前に言ってたじゃん。ちいさければちいさいほどかわいくておとくって」
「あぁ、誰か言ってたね、そんなこと」
「いや、“しぃ”が」
 は? と目を丸くする翔子に、「言ってた言ってた」と立花は言い返す。 
「まさゆきくんが、小学校にあがる前に言ってた。だから、まさゆきはちいさいままでいいよーって無理難題押し付けてた」
 ちょうど四つ分離れた弟の名が急に出てきたことに、翔子は眉根を寄せた。確かに弟はかわいがってきたが、立花の言うそんな記憶は塵ほども心当たりがない。
「言ってない、そんなこと」
「言ってた言ってた」
「言ってないって。だって、まさゆきはおおきくなっても立花とちがってかわいいじゃん」 
 今ではすっかり翔子の背を追い越している中一の弟を思い浮かべて、翔子はきっぱりと言い放つ。
「今、かわいい言われたら、まさゆきくんも逆にうれしくないだろ」
「いーや。まさゆきはかわいいねっ。そして、わたしはちいさいほうがかわいいとかおとくとか言ってない」
「あー、もう。いい、いい。わかったわかった」
 立花は手続きの済んだ本を鞄に押し込んだ。まだ「言ってない」と言い続ける翔子を見下ろして、彼は肩を竦める。
 同じく本を受け取った翔子は、キッと立花を睨んで言い添えた。
「あと、ちいさくてもおとくはない」
「あー。はいはい。わかったって。しぃにおとくはないもんね」
 ほらもう帰るよ、とやたらとおおきな掌が差し出される。翔子はいらだちまぎれに立花の手にしがみついた。