「……ラ、スリー。その、服に虫が」
「え。……あぁ、庭園をつっきって来たからな」
 ラスリーは、俯いて服の前部を見渡した後、私の視線の行き着く先に気づいて、肩口で目をとめた。
 うにに、と動いた青虫は、ラスリーの服の色地が焦げ茶の分よく目立つ。
 爪先にも満たない小ささ。それでも青虫のその動きの不確かさに、思わずラスリーの袖を掴んだ。いきなりこちらに飛んでくるのではないか、と。どこかへ逃げてしまいやしないか、とひたすらに青虫を注視する。
 あまりにも必死で、硬直しているように見えたのかもしれない。
 ラスリーは苦笑しながら、こつりこつりと私の額を中指の節で小突いた。
「大丈夫だから」
 目を瞑っておいて、と言い置いて、彼は私の視界を掌で覆い隠す。
 薄らとぼやけた暗闇の中、頼りに掴まっていた袖先が、指から離れた。
 幅の広い足音が、部屋の中を横切る。
 ほんのわずか、開かれたらしい窓から冷たい風は鋭く吹き込んだ。再び閉じられた窓の気配に、そろりと目を開ければ、青虫はどこにもいなくなっていた。

ああそうかと気づいたら、ぜんぶぜんぶが


「確かに、リシェルの虫嫌いはちょっと異常よね」
 向かいの席に座るカザリアは、手にしたカップにふぅと息を吹きかける。
「ですよね。いい加減、治したいという気持ちはあるんですが」
「まぁ、元の原因がアレだから、わからなくもなんだけど」
「テントウムシとダンゴムシは平気になりました」
「その程度は、胸を張ることじゃないわ、リシェル。うちの領地じゃ虫なんてうじゃうじゃ出るのが普通なんだから」
 庭園の虫程度じゃ動じられなくなったわ、とカザリアはからりと笑う。
「昔からカエルだって素手で投げ返していたじゃないですか、カザリア」
「あの令嬢集団には腹が立ったし。リシェルが怖がるからよ」
「怖いですよ、普通」
「大体、何で今さら治そうなんて思ったのよ」
「……あからさまに気にしているのが分かるので」
「気にさせておけばいいじゃない、そんなの」
 カップを受け皿に戻したカザリアは、積まれたスコーンに手を伸ばす。
 私の隣で、きょとりきょとりと目を交互に彷徨わせていたアイカは、「リシェルの虫嫌いってラスリー侯爵とどう関係があるの?」と首を傾げた。
「昔、ラスリーが、捕まえた虫、捕まえた虫をいちいち持ってきて、リシェルのことを追いまわしてたのよ」
 さくり、とスコーンを食べながらカザリアが答えると、アイカは目を丸くする。 
「おおっと……好きな子はいじめたいタイプですかラスリー侯爵は」
「逆よ。好きな子には自分の持ってるもの全て与えて与えて与えたいのよ。ただ与えるべき貢物が間違ってたのよ貢物が。リシェルも喜んでくれると思い込んでた大馬鹿だったのよ。私が王宮に上がった時には、さすがに気付いてやめていたみたいだけどね」
「貢ぐ……! 貢いで自己破綻するタイプですね」
 ぽむ、と手を打ったアイカに対して、カザリアは「そうそう」と無責任にけらけらと笑う。けれども「さすがよく見てる」とアイカが零すと、カザリアはひくりと笑いを喉に詰まらせた。
「ラスリー侯爵は、虫が好きなの?」
「……今は何とも思ってないんじゃない? リシェルは最近まで夢でもうなされていたみたいだけど」
「そんなリシェルを見て、ラスリー侯爵が気にしている、と」
「そうみたいね」
「だけどリシェルはそんなことでラスリー侯爵の気をわずらわせたくない、と」
「はい」
 確認をして、アイカは頷く。途端、私に対していきなり姿勢を正したアイカは、黒い眼をくるりと煌めかせ、真剣な顔をして言った。
「気にしないで、って直接ラスリー侯爵に伝えればいいんじゃない? リシェル自身の気持ちを」
 アイカが導きだした、至極、単純明快な結論。瞬間、私は視界を覆っていた霧が晴れ渡ってゆく思いがした。きゅ、と胸元にある橙色の石を握りしめる。



「ラスリー? それなら、今さっきここを出たぞ」
 居場所を確かめてもらってここに来たものの、どうやら入れ違いになってしまったらしい。「何か用があったのか」と聞いてくるアトラスに、曖昧な首肯を返す。
「大したことでは、……ないのですが」
「引きとめておけばよかったな」
「いいえ。お手数をおかけしました」
 たぶんまだその辺にいるだろう、というアトラスの言葉に、私は頷く。
「ありがとうございます」
「早く捕まるといいな」
 添えられた励ましに、私は奇妙な顔を返してしまったのだろう。アトラスは、ほろ苦く笑った。
「あんまり考えすぎるな、リシェル。物事はもっと単純だから」
 幼い頃のように、アトラスは私の頭をくしゃりと撫でる。
 背を押されて、私は彼の執務室を後にした。
 回廊を見渡しても、探し人の姿はない。
『気にさせておけばいいじゃない』『伝えればいいんじゃない?』『あんまり考えすぎるな』
 与えられた言葉はどれも優しくて、このくらいなら大丈夫だろうか、と考えてしまった私を柔らかく肯定する。今日、伝えられなかったら、私はまた口を閉ざす自分を何かしらの理由をつけて許容してしまうはず。だから、背を押してもらった今日のうちに。
 なぜなら、今のあなたは、私の嫌がること、ひとつひとつに気を払ってくれる。わざとではないことに、いちいち苦い思いをしなくてよいのに。気にしていません。私は、あなたが悪いとは思っていない。思いやりは嬉しいけれど。それだけ。それだけのことなのに、きちんと伝えられるかは自信がないけれど。
「ラスリー!」
 回廊から見える向こう側の棟。総務部の窓の奥に彼の姿を見つけて、私は呼びかける。窓越しの声は、果たして彼に届いただろうか。
 アトラスがあの時言っていた言葉は、きっと半分は正しくて。よくも悪くも、私は昔から彼がどこにいるのかばかりを気にしてきたのだ。

four o'clock
伝えに行きましょう、伝えられる小さな想いから