○年後の話―モノを継承した後のコト―


「あんれぇー? そこを行くのはもしかしなくとも奥様じゃないですか。たったの一人で、いったいぜんたいどうしたんですかねーえ?」

 馬車屋を目指して歩いていると、いやにのんびりとした声が背後から降って来た。声のした方に目を向ければ、まもなく馬車が一台、往来の真ん中で歩みを止める。私のすぐ真横にそびえ立った馬車は、陽光を遮っているせいか、黒々と異様な様相を醸し出しているような気さえした。それでも真っ黒な影の一部――御者台に座るひょろりと長い人影が、こちらに顔を向けたのが分かった。次第に慣れてきた目が、徐々に相手の顔を鮮明に映し出し始める。
「……ル、カウト?」
「さすが奥様。ご名答!」
 ルカウトは無表情の顔の上に、うっすらと胡散臭い笑みを広げると、私に向かって大げさに手を広げてみせた。
「……何してるのよ、こんなところで」
 てっきりルカウトは屋敷にいるものだと思っていたのに、まさかこの街で遭遇するとは。
 彼は、口の上にちょこりとのった髭を右手で撫でつけながら「いやですねぇ、奥様」とほくそえんだ。
「こっそり屋敷を抜け出したのが、ご自分たちだけだとお思いですか。そんな、わざわざ野菜を卸しに来たお嬢さんに頼まなくったって、言ってくだされば私が喜んでお連れしましたのに。そうしたら荷台じゃなくて快適な馬車の旅をお約束しましたのに。途中までではなくて街の中心まで直接お運びいたしましたのに」
「……一体どこからどこまで見てたのよ」
 半眼すると、ルカウトは「あはは」と声だけで笑う。どうやら真実を答える気はさらさらないらしい。別にこそこそと抜け出したつもりもないのだけど、まさに辿った経路をそのまま言いあてられるのはあまり気持ちのいいものではない。けれども、そろそろルカウトの性格にも慣れずにはいられないくらい長年付き合ってきたのだ。このくらいのことで腹を立てても仕方がない。
 はぁー、と溜息をつくと、「そんなに怒らなくっても」ととぼけた調子でルカウトは言ってくる。
 だから、私は、怒ってないって言っているでしょう!
「まぁ、まぁ。奥さま、落ち着いて。種明かしをすると、裾が汚れていらっしゃったので、そうじゃないのかなぁと思っただけですから。野菜の土が荷台に残っていたのでしょう」
「それならそうと早く言いなさいよ」
「だって、楽しくないじゃないですか」
 悪びれもなくルカウトは言うが、楽しくないのはこっちだ。
「あのですねぇ、奥様? 忠告しておきますが、妙齢の御婦人があんまり怒ると迫力がありすぎて、ある意味恐いんですよ。皺が深くなりすぎて」
 トントンと、手綱を持った手で、ルカウトは自分の眉間を叩き示した。
「わ、悪かったわね! どうせ年齢にはかないませんよ!」
「そんなけんけんしてると、そろそろロウリエに逃げられますよー?」
「余計なお世話よ!」
「ところで、奥様。ロウリエはどうしたのですか? もしかしてもう手遅れでしたか?」
「…………っく!」
 むーかーつーくー! むかつくわっ! 睨みつけてみたが、ルカウトは相変わらず涼しそうな顔をしている。あまりに無表情な顔を見ていると、余計にむかむかと言いようのない気持ちがわいてきた。これならまだ嘲笑われた方が、我慢できたかもしれない。
「別に逃げられたわけじゃないもの」
「あれ、そうなんですか?」
「そうよ!」
「あ、なるほど。分かりました」
 ぽむ、と彼は手を打った。
「迷子になったんですね! 奥様!」
 前言撤回! やっぱり笑われても腹が立つものは腹が立つ!

***

「それで、どちらに行こうとしてらっしゃるんですかねーえ? 奥様」
「…………」
 聞こえないふりをして、早足で歩く。すぐ横を馬車がのろのろぱかぱかと歩を進めていた。人の後ろを馬車が付かず離れずついていくという光景は、傍から見ると何とも奇妙に映るのだろう。誰かとすれ違う度に、彼らは揃ってこちらに向けた目を瞬かせる。
「指差して笑ったことは謝りますから。ほら、そろそろ機嫌なおしましょうよ、奥様。いい大人なんですし」
「……どうしてついてくるのよ」
「馬車に乗りませんか? 目的地までお連れしますから」
「…………いらない」
「奥様ぁー。頑固なのもその辺にしときましょうよぉー。いい加減、乗ってくれませんかねーえ?」
「………………別にいいわよ、もうすぐ着くから」
 歩みを止めれば、ルカウトも手綱を引いて馬車を止める。
「馬車屋に行こうと思っていたの。ほら、もうすぐそこに見えるから」
 視界の右手に見えてきた厩を示してルカウトを見上げる。「ね」と私が肩を竦めると、彼は虚をつかれたような顔をした。
「だから、わざわざ乗る必要はないわ。用事があってここに来たのではないの? 気にせずさっさと済ませてきなさいな」
 それはそうですけれど、とルカウトは馬車屋をみとめて、目を細めた。
「ロウリエとの集合場所が馬車屋だったんですか?」
「そういうわけじゃないけど、迷子になったのは本当だもの。ロウリィがどこにいるか分からないから、先に屋敷に帰っておこうと思って」
「なんだ、奥様。始めっからロウリエを置いて帰る気だったんですか。探さなくっていいんですか、ロウリエを」
「だって、私が探したら余計迷子になるだけだわ」
 大体、迷子になったことを指差して笑ったのはどこのどいつだ。何もそんなに意外そうな顔をしなくてもいいと思う。
「代わりに、ルカウトがロウリィを探しておいてくれないかしら。見つけたら、私は先に屋敷に帰っていると伝えておいて。そっちの方がいくぶんも効率がいいわ」
 ルカウトは、「うーむ」とポケットから懐中時計を取り出すと、ぱちりと蓋を開け、ちらりと時計を見た。
「それは奥様、確かに賢い選択でしょうけどもねーえ? ロウリエは奥様がいないとなったら探しますよ。きっと心配するんじゃないですかねぇ。私は、奥様もお察しの通り、これから少しばかり他に済ませなければならない用事がありますから、ロウリエを探すのはその後になります。伝言はできるとしても、大分後になると思うんですよねぇ。つまり、ロウリエは、奥様のこと探しっぱなし。憐れ、ロウリエ。奥様は、屋敷で優雅にお茶を飲んでくつろいでいると言うのに、必死に街中を探し回っているとは。もう街には奥様はいないというのに」
 息継ぎもなくルカウトはすらすらと言いきった。最後に、同意を求めるように首を傾げてくる。それでも、黙っていたら、「あぁ、憐れ憐れ」と言いながら首を左右に降りだす始末。
 ああ、もう、分かったわよ!
「探せばいいんでしょう、探せば!」
「それでこそ、奥様です」
 宣言すると、ぱちぱちと拍手される。あんなにも白々しい笑顔は始めて見た。もしも、子どもの時分だったら、ルカウトに向かって思いっきり舌を出していたところだ。
 確かに、ロウリィなら、ルカウトの言う通り、何にも気付かず探し続けそうでもある。そもそも、私がいなくなっていることに気付いているのかという疑問は、また別問題として。
 鳴り続ける拍手の中、思いっきりルカウトに背を向け、元来た道へと引き返す。どうものせられた気がしてならないのは、きっと気のせいだと思いたい!


***


 肩をいからせ、ずんずんと音が出そうな足取りで去って行ったカザリアを、ルカウトは最後に手を振って見送った。
「やぁー、もう、奥様って単純ですねぇ」
 手元の懐中時計は、ちょうど二時に差しかかるという頃。彼は針の位置を確認すると、ぱちりと懐中時計の蓋を閉める。
「さて、そろそろ時間ですけどね」
 待ち合わせ場所になっている馬車屋まであと少し。手綱を取った彼は、馬車を走らせた。
 ――と、急に飛んできた短剣を、ルカウトは顔面に衝突する直前で片手で掴み取った。鞘に入ったままとは言え、短剣は短剣である。馬車を止めたルカウトは、物騒なモノを投げつけてきた犯人へ咎めるように目を向けた。
「あんねぇ、ディーラ。奥様仕込みの技で攻撃してくるのやめてくれます?」
「へぇ」と、ディーラと呼ばれた婦人は、皮肉気混じりに口の端を上げる。歳は五十を過ぎた頃。動きやすさを重視してか、男物の服装を着ている彼女は、元々肩程の長さしかない髪をさらにひっつめて一つに纏めている。
「なら、私仕込みの技の方がまだよかったかしら?」と、彼女が示した左手には、長剣が握られていた。間違って是と頷こうものなら、今にも鞘から剣を引きぬきそうな勢いである。
 だが、当のルカウトは毛ほども臆した様子はなく、馬車の傍近くまで歩み寄って来たディーラにいつもの調子で話しかけた。
「やですねぇー。騎士がそうそう往来で剣舞なんて披露するもんじゃありませんよ」
 私、間違ってませんよねーえ? と気楽に問いかけてくるルカウトに、ディーラは「ふん」と鼻を鳴らす。
「それは、冗談にしてもルカウト。今の、カザリア様じゃなかった?」
「そうですけど?」
「そうですけどって! だって、もうすぐ時間じゃない。カザリア様もいらっしゃっていたのなら――」
「それが、何か問題でも?」
 にまりとルカウトは至極悦に満ちた表情で笑う。だめだこりゃ、とディーラは額を手で覆った。
「事前に説明しておかなかったロウリエが悪いんですよ」
「どう考えたって、ルカウトが悪いでしょうが!」
 大体の状況を察してしまったディーラは、御者台に座っているルカウトの足をばしばしと叩く。けれども、彼はどこ吹く風だ。
 ディーラは歯噛みしながら、カザリアが消えて行った方向を見やる。雑踏の中に紛れ込んでしまった後なのか、そこにカザリアの姿は見当たらない。すぐに追いかければよかった、と彼女は自責の念に駆られた。
「お待たせしました」と、暢気な声が聞こえてきたのは、まさにディーラがカザリアを探しに行こうかと迷っていた時だった。
 両手いっぱいに荷物を抱えて現れたロウリエは、自ら馬車の扉を開き、中に荷物を載せて行く。
「あぁ、ロウリエ。馬車屋まで迎えに行けなくてすみませんでしたね」
「構いませんよ。すぐ近くでしたし、見えたので」
 おろおろしているディーラの前で、ロウリエは最後の袋を馬車の中に積みいれた。どうも薬草らしい荷物からは、鼻を刺激する独特な匂いが漂う。
「あの、ロウリエ様」
 意を決してディーラが声をかけると、ロウリエは穏やかに目を和らげた。
「ディーラさん、お久しぶりですね。はるばる遠い王都からよくいらっしゃいました」
「あ、はい。ご当主自ら、わざわざ迎えに来ていただいて、お手間をおかけいたしました」
「いえいえ、ちょうど街に出ようと思っていたところだったのです。僕たちなんかは先に来て、街を周っていたくらいなんですよ。気にしないでください」
「はい、ありがとうございます、――って、そうじゃなくてですね! カザリア様が」
「はい、カザリアさんが、どうかしましたか?」
 ロウリエは、ぽけらと首を傾げた。
「カザリア様がですね、さっき――」
「絶賛、迷子になっていたようですよ」
 ガシリとロウリエの両腕を掴んで訴えるディーラの横から、ルカウトが付け加える。
 ロウリエは、「え」と目を丸くした。
「……熱心に何かを選んでらしたので、ちょっとここにいてくださいねって言って来たんですけど」
 もしかして聞こえてなかったんでしょうか、とロウリエは確かめるように呟く。
「――と、言いますか、どうしてルカが、カザリアさんが迷子になっているって知っているんですかね?」
「あっははー。ばれましたか?」
「ばれましたか、じゃないですよ、ルカ! 見かけたのなら、どうして連れてきてくれないんですか! カザリアさん、ここがこうなってから来たことないんですよ!?」
「だって、断られましたもの」
「断られたって、……ちょ、ちょっと探しに行ってきます! ルカたちは先に帰っていてもいいですから」
 ロウリエは、えっと、と辺りをきょろきょろと見渡すと、慌てて一つの方向に駆けだした。
 ディーラは、あさっての方向に駆けだしたロウリエの背に向かって呼びかける。
「ロウリエ様、そっちではなく、あちらです。あちらの方にカザリア様が走って行くのが見えました」
「本当にすみません、ディーラさん。ありがとうございます!」
 ロウリエはディーラが指差した方向を確かめると、一度だけ彼女に頭を下げてから、再び駆けだした。
 多くの人が混じり合う街。その中に、ロウリエの姿もまたすぐに紛れて見えなくなった。
 真上よりかは傾きだした午後の日差しも、黄金に街を染めだすまでにはまだ早い。さて、彼らが出会うには、どれくらい時間がかかるだろうか。ここまで戻ってくる頃には、どれほど街が陽に彩られているだろうか。

「あの二人は、いつまでたっても変わりませんねぇ。楽しくって仕方がない」

 ルカウトは、のんびりとした口調で呟く。ディーラは、それを横目で睨めつけながら、嘆息した。そろそろ馬車に乗ってはいかがですか、という彼の進言に彼女は大人しく従い、馬車に乗り込む。
 薬草袋に囲まれた馬車の中、一人腰を落ち着かせたディーラは、本当に何で私はこんな奴と結婚したんだろう、とつくづく思った。