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「裸足で走るだなんて、奥様は、あんまり無茶しすぎです。心臓が止まるかと思ったんですよ」

 湯からあがった後、改めて足の裏に薬を塗りなおしてくれたケフィは、包帯を巻きながら口煩く言った。
 寝台の上に腰をかけて「悪かったわ」と謝れば、彼女は急に眦を下げる。
「ですが、領主様と奥様が仲直りをされたようでよかったです」
 微笑んで、ケフィは椅子から腰を上げた。
「ゆっくりお休みになってくださいね」
 薬箱を片手に頭を下げたケフィが出て行くのを見送る。
 ぱたん、と扉が閉じるのを見たのは、今日はもう何度目か。軽く、何の含みもなく閉じた心地よい音に、私は長かった一日を思って息をついた。


 よもぎを摘んで帰って来たバノの話によると、私たちは二人揃って眠りこけていたらしい。ロウリィは昨日からの疲れで、私はすっかり安心しきっていたせいか、揺すっても起こそうとしてもうんともすんとも言わなかったのだと言う。
 人を呼ぼうにもむやみに離れることができず、途方に暮れていたところ、ちょうど屋敷へ野菜を卸しにきた農家の娘さんの荷馬車が通りかかり、私たちを運んでもらったのだそうだ。
 結果、裸足で回廊を疾走した私を目撃していなかったはずの厨房のみんなも、荷馬車に乗って野菜と共に運ばれてきた私たちに何かあったと知ったらしい。最終的に、統合された情報で、今回の騒ぎは、屋敷中に知れ渡ってしまったのである。
 こんこんと鳴った音の後に、かちゃりと開いた寝室の扉に目を向ける。
「入りますね」と前置きして入って来たロウリィは、昨日からの疲れがまだ響いているのかまだ眠そうだった。屋敷についた時点で、ルカウトに問答無用で叩き起こされたらしいから、ちょっと寝たくらいでは眠気は取れやしなかったのだろう。もうすでに半分落ちかけている瞼からは、昼間の緊張感は一切抜け落ちていた。何を持っているのか、手には小さな玉を手にしている。
「ロウリィ、多分、それちょっとでも立ち止まったら眠っちゃうから気をつけなさい?」
「……はい、僕もそう思うんですよね」
 かくり、と首肯というよりは、頭を前方に傾がせて、ロウリィは頷く。寝台までようやく辿りついたロウリィは、ほとんど倒れるように、敷布にのめり込んだ。
「だ、大丈夫なの?」
「はい、ちょっとまだお話が、あるので起きなければ」
 呻きながらも何とか身を起こしたロウリィと寝台の上で真向かいに座りあう。そのさなかにも、どこか傾いで見えるロウリィに、顔をしかめた。
「別に話なら、明日でもいいんじゃないの?」
 ロウリィは、首を振る。
「いえ、今日のうちに言っておかないと」
 彼は、目元を揉んでから、目を開きなおす。途端、丸く大袈裟なほど見開かれた薄蒼の双眸に、私は眉を寄せた。
「何」
「何って、なんですか、そのびらびら」
 ロウリィが言ってるのが、今着ている夜着だと気付いて「あぁ、これ?」と頷く。
「冬は寒くて、と言ったら、お義母様がくださったのよ」
 あらまぁ大変だったんですってねぇ、と屋敷に戻るや部屋に見舞いに来てくれたお義母様から「さっき渡し損ねたのよぉ」と戴いたものだ。全体的にフリルがふんだんに使われているこの夜着は、使用されている生地の割に随分と軽い。何よりも、ふわふわとした肌触りと、暖かさは、今まで持っていたどの服よりも格別着心地がよかった。
 うわぁ、とロウリィは、さもうんざりとした顔でこちらを見てくる。
「カザリアさん、それ前の方がいいですよ」
「なんでよ。これ暖かいのに」
「だって、それびらびらしすぎて面積とりすぎじゃないですか? 僕の寝る場所がなくなりそうなんですけど」
 まぁいいんですけどね、とロウリィは勝手に嘆息する。
「言っておきたいことがあるんです、カザリアさん。わかっていると思いますが、ここにいる限り命の保証はできませんよ? カザリアさんのことも、僕のことも」
「覚悟して決めたことだわ」
 改めて言われたことが恐ろしくないと言ったら嘘になる。ここの事情を聞かされた時から、気づいていたことだ。ただ、ここに残らない理由にはならなかっただけ。
「ええ、だから、ここに残ると言うのなら、もしも僕に何かあった時は、あなたがここの仕事を引き継いでくださいね、カザリアさん。ルカにはもう言ってあるのですが、もしもうっかり僕が死んじゃった場合は、その死を隠して約束の期限を終了させてください。きっともうここに送られてくる役人はこれで最後だと思うので」
 告げられた言葉に瞠目する。これは初めから『勝ち』しか見越していない勝負だったのだ、とこの瞬間、はじめて悟った。問う間は与えられず、眠そうではあるが、決して寝ぼけている訳ではないらしいロウリィは「いいですね?」と昼間とは違った内容を念押した。
「たとえ、チュエイル家からこの地を取り戻すための臨時の領主だったとしても、僕にとってもうここは大切な場所なんです。なので、この仕事は絶対にやり通したい。どうしてもよりよい状態で次に渡したい。ここだけは、絶対に譲れません」
 だから、とロウリィは、ぽややんと笑う。
「僕はそう簡単に死ねませんけど、あなたは絶対に死なないでください」
 お願いしますよ、と握られた手を、握り返す。それだけは、絶対に避けたい事態。それでも、ここにいた三カ月は、ロウリィがどれだけこの土地を愛しているかを知るのに充分な時間をくれた。
 頷く。
「はい」
 これだけは、はっきりと約束しておかければならない。
「カザリア・フォル・アナシス・ケルシュタイードは、あなたの意志に従います」
 守るべき土地は領主だけのものじゃなくて。ここにいる人たちはみんな、ロウリィだけでなく私を当然のように受けいれてくれたから。
 当たり前よ、と胸を張る。
 はい、とロウリィは、穏やかに薄蒼の双眸を細ませた。
 繋いでいた手が引かれ、袖の上から口づけられる。ふわりと押された手首に、微かな感触を残して、袖をかたどる白いフリルは揺れた。
「ありがとう」
 息を呑んだ私の前で「ああ、そうだ、カザリアさん」とロウリィはのんきな声を出す。
「本当はあの時、これを渡そうと思っていたんです」
 ロウリィは、部屋に入る時に持っていた玉を差し出す。
「な、何これ」
「香り玉です」
 渡されるがままに受け取ると、なるほど、この玉からは、さっぱりとした甘い香りが、やわらかに漂った。
「カモミール?」
「……は、い」
「よく眠れるように?」
「毎日、いっぱい動いてもらっていますから、ちゃんと休めるようにと」
 がくり、とロウリィは、頭を落とす。
「すみません、もうちょっと限界です」
 目を閉じたままロウリィは、ごそごそと寝台に潜りこむ。
 はたと気付いた私は、香り玉を片手に握りしめたまま、ロウリィの肩を叩いた。
「――って、ちょっと待ちなさい、さっきのは何!?」
「す、みません、話は、また、あし、た……?」
 途切れながらも言い終えたロウリィは、すでに意識を手放したのか、すぴすぴと寝息を立てている。
「なっ! 起きなさいよ!」
 力任せにがくがくとロウリィの身体を揺する。それでも起きないロウリィにあほらしくなって、盛大な溜息と共に、私も寝台に入ることにしたのだ。