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 ロウリィに手を引かれるがまま、歩いて歩いて、気がつけばいつもの川原まできていた。
 とうとうと領内を横切る川は、明るい陽気に照らされ、今日も豊かに流れていく。
「なぁ。なんで奥様、あんな連行される罪人みたいな風になってるんだ」
 恐らくこそりと呟かれたスタンの声が、後方から風にのってやってくる。そのまま足音が遠のいてしまったから、きっとバノが距離を取ってくれたのだろう。
 これだけ開けた場所であれば、万が一刺客がやってきても、どこかで目にはつくというのもあるけど、私たちが巻き込んでしまった状況に大いに気を使わせてしまったに違いない。
 ちらと前を向けば、どうやらロウリィにも聞こえてしまったらしかった。
 見るからに硬直してしまっている彼に、そうじゃないから、と否定の意味を込めて微笑する。どこかぎこちなくなってしまったかもしれない。一応、これでも頑張ったからさすがに見逃してほしい。
「……今日は、ちょっと春みたいね」
「そう、ですね」
「……その、えっと、座らない?」
 なおも強張ったままのロウリィの手を、おずおずと引く。このまま歩いていっても、私がこのままであれば居心地の悪さはきっと変わらない。ずっともっと困らせてしまう。
「座りましょう?」
 意を決して、落ち着いた声を出した。
 そうしたものの、ロウリィの顔はまだうまく見ることができなくて、私は答えを待たずに土手にそろそろと腰をおろした。その間も、手を離してはくれなかったから、なんだか変な格好になってしまう。
 この辺りは、どこもかしこも白詰草の柔らかな葉に覆われていて、いつだって座り心地がよかった。きっともうすぐ丸みを帯びた白い花がいくつも顔を出すだろう。
 またちゃんといつもみたいに来られるように。今まで通りにあれるように。立ち尽くしたままのロウリィを見あげる。
「変な態度をとって、ごめんなさい」
 謝れば、ロウリィは困ったような顔をして隣に座ってくれた。
「カザリアさんが謝ることは、何もないでしょう?」
「そんなことはないわ」
「そんなこと、……ありますよ。原因はわかっているんです。風邪をひいた夜のことを、少しずつ思い出して……」
「……え?」
「そんなつもりは微塵もなかったんですけど」
「……ええ」
「きっと、責めているように聞こえてしまったんじゃないかと。カザリアさんは、だから、困っていらっしゃるんですよね?」
「……なんのこと?」
 まるで懺悔するような苦し気な声音で聞かれ、私は疑問でいっぱいになる。
「何も責められてなんかいないわよ?」
 思い返しても、思い当たる節が何もない。
 困っていたのは、完全に自分勝手な私の感情が理由だ。持て余して制御できないもどかしさに逃げてしまいたくなるせいだ。
「もしかして私、何かしてしまった? もう何か失敗してしまっていた?」
「え!? カザリアさんは、何もしていないですよ。勝手に僕が見たことがあるだけで」
「見た? 何を見たの?」
 問い返せば、ロウリィはしまったとばかりに声を詰まらせた。
 思いあぐねて口を開閉させているロウリィと繋いだままの手を握り返す。
「ロウリィ」
 教えて、と請えば、ロウリィは観念したように溜息をついた。
 責めているわけじゃないんです、と重ねて念押しされた言葉に、私は頷いて話の続きを待つ。
「その……」
「何?」
「……カザリアさんが好きな人を知っています」
「ふぇっ!? どうして、私まだ何も言ってな……」
「王宮で夜会が開かれた日に、会場をあとにしたあなたがどこにいたのか偶然見てしまったことがあるので」
「え」
 ロウリィが言った意味に心当たりがあって、私は瞠目する。
 同時に、私が踊りが嫌いだと知っていたロウリィが、どうして足を踏んでしまうほど下手だとは思っていなかったのか、その理由に納得してしまった。
 ロウリィの口にした“好きな人”は、確かに私の好きだった人だ。
「私って、そんなにわかりやすい……?」
「一目でわかってしまったくらいには」
「そう」
 息をつけば、気づいたことがあって、途端やっぱりちくりと胸が痛んだ。
 賑やかで華やかな夜会の外で、私と同じく躍りが苦手らしいアイツは、厄介なことに会場から離れてしまうことも苦手らしかった。きっと何事もないか見守っていた方が、知らぬ場で気を揉むより、いくらか気が紛れたのだろう。
 広いバルコニーに面した夜の庭。ガラス窓の向こうの夜会の様子を、仕事仲間との談笑を挟みながら、密かに眺め続けていた彼のことを、私は庭の生け垣の影から気づかれないように見ていた。
 いつだってつい様子を見に行ってしまうのは、ほんのわずかの時間。
 ほんの限られた時間であったはずなのに、見られて知られてしまった。
 私たちが見つめる先で、想いを寄せられていることを知るはずもない私の親友リシェル は、いつだって陛下の隣で凛と美しく輝いていて。
 ――どうしたって届くはずがない。
 なぜなら彼女は未来の王妃に最も近い候補者だったから。幼い頃から陛下だけを見てきたリシェルは、同じくリシェルのことを見てきた幼馴染みに気づくはずもなかった。
 そんな想いをもうずっと長い間、続けていた彼は、きっと私と同じように、いつだってリシェルのことを尊く清廉な存在として大事にしていた。
 翠の瞳に、蜜色の髪。
 リシェルとは似ても似つきはしないけれど、緑に金と同じ色を持ちあわせてしまった私は、だからこそ絶対に彼の視界には映らない。遊び相手としてすら、選ばれないことは私が一番わかっていた。
 なんてバカで報いのない恋をしているのだろうと常々思っていた。
 リシェルの笑顔が間違っても翳ることがないよう、リシェルから彼を遠ざけ守りながら、彼を想ってしまった私も相当にバカだったのだと思う。
 ――あぁ、でも。
 そんな姿を見られてしまっていたのだ、と思うと、ひどく情けない気持ちになった。
 そうして会場からは離れたそんな場所に、どうしてロウリィが偶然居合わせのたか。考えるまでもなくわかってしまったことに、身勝手にも痛みを訴え続ける心が止まらない。
「その時に一緒にいたのがエイミーさん」
 口から滑り出てしまった響きの重みに、言った私自身が凍りついてしまった。
 恐る恐る隣を見れば、案の定、ロウリィもピシリと凍りついている。
「待って、違うの。責めてない! 私だって責めるつもりはないの」
「……僕、もしかして……口にして、しまいました?」
「熱があったのよ。朦朧としていたのよ。夢を見ていたのだから仕方がないでしょ」
「……ま、待ってください。じゃあ、あの都合のよい言葉は」
「ごめんなさい。あの、……違うの。ロウリィの大切な思い出を汚したかったわけじゃないの」
 ただあんまり悲しそうだったから、つい成り代わってしまっただけだ。せめて夢の中では好きな人と結ばれてほしいと願っただけだった。
「……違いますよ。だって、あの時の声は、あの言葉をくれたのは、ちゃんと」
 だけど、と言いにくそうに淀んだロウリィを遮って、私は首を振るう。
「ごめんなさい」
「謝らないで。いや、謝らせているのは、……僕ですよね」
 ほろ苦く、ロウリィが微笑をとり崩す。握り込んだ私の左手の中で、柔らかな白詰草が、いとも簡単にくしゃりと潰れた。
「カザリアさん。誤解してほしくないので、聞いて欲しいんですけど。その……」
「エイミーさん?」
「……エイミーとはちゃんともう何年も前に別れていますし、だからもう終わっています。カザリアさんが、思うようなことは何も」
「私、別に気にしないわよ?」
「…………うぐ。カザリアさん、聞いて」
「だってエイミーさんとは、望んで別れたのではないのでしょう?」
 だからあんなに切なくて優しい響きだったのだ、と何度あの夜を繰り返し思い返しても、その結論に辿り着いてしまう。
 きっとそうでなかったのなら、私はロウリィへの自分の気持ちすら、自分では気づけはしなかった。
「……そうですね。彼女とのこと後悔がなかったと言えば嘘になります。僕には力がなくて、どうすることもできませんでしたから」
「……私が聞いても構わない?」
「はい。聞いていて。カザリアさんが構わなければ」
「ええ」
 頷いて、促す。
 そうして、ロウリィが教えてくれたのは、きっとそんなに遠くはない、終わってしまった恋の話。
 ――私に恋を教えてくれたエミリーさんの話。