38


 頭が割れそうに痛かった。
 意識した途端、鼓動と一緒に響き渡った痛みに、吐き気が込み上げてくる。
 痛むごとに、否応なく眠りに押し沈めようと重みを増す暗闇に呻く。
 こじ開けた朧げな視界の中で人影が本を閉じたようだった。ぱたりという軽い音すら耳を刺す。
「まだ無理よ。もう少し寝ておいた方がいいわ」
「ケィ、……ン、……?」
「一緒にいた子たち?」
 身体にうまく力が入らない。
 頷く代わりに、瞼を閉じたけど、うまく動いたか定かでなかった。
 呆れたような溜息が降ってくる。
「伝言用に置いてきたわ。あなたと同じ薬だもの。夕方には目を覚ますでしょ」
 だから安心しておやすみなさい、と彼女は言う。
 ほっとした気持ちに反して、言われるまでもなく意識が押し流されて、深みに足をすくわれる心地がした。
 闇の奥底に引きおろされる感覚に身体が冷えて怖気が走る。どうしようもなく指先が震えてしまって、手にあたるものにしがみつく。まわらない頭で心もとないよすがが毛布みたいだと思った瞬間、また何もわからなくなる。


 イレイナ、と叫ぶ男の声に私の意識はびくりと浮上した。
「どういうことだ。なぜこんなことをしたんだ」
「らちがあかないから、誘拐してきたのよ」
 動きにくい首を巡らせれば、私に背を向けたイレイナが肩をすくめたところだった。
「手紙に書いておいたでしょう。やっとのことでおじ様を説得できたんだから。こんなところに来ていないで、早く発つ支度をして。先に行って」
 男女の喚き立てる声を聞くごとに、目が覚めていく。
 無事に生きているらしいことを実感して、かすかに胸に込み上げてくるものがあった。
 意識ははっきりと晴れていて、じわじわと何が起こったのかを思い出す。
 ちっとも身体を動かせない状態に、自分の置かれた状況を省みた私は、自分自身に呆れてしまった。
 日頃の行いのせいに決まってはいるけれど、一体どれほど暴れると思われているのか。
 手足が縛られているさらに上からも、毛布で身体をぐるぐるに巻かれていた。床に寝転がされているものの、下に毛布が敷かれているから一応の配慮はしてくれたのかもしれない。だけど正直、そんな配慮よりこの状態をどうにかしてほしかった。
 これだけ固定されていたら、動こうにも動けないわけだ。
「ねぇ。ケフィとスタンはどこ。無事なの」
 口論する二人に呼び掛ければ、二人はぎょっとした顔で私を見下ろした。
「もう、起きたの」
「……目が覚めてしまうくらいには、あなたたちうるさいわよ?」
 イレイナの向こう側では、チュエイル家の子息であるベルナーレが、彼女の肩に手を添えイレイナを止めていた。
 普段着に外套をまとっているだけのせいか、新年会よりもいくらか精彩をかいて見えるベルナーレは、私からイレイナを守ろうとしているようにも見えた。近づけないよう気をつけなくても、私だってこの状態じゃ、足だって踏めやしないのにと思わなくはない。
 だけど、今はそんなことよりもだ。
「ケフィとスタンは? 私と一緒にいたでしょう」
「さっきも言ったでしょう。伝言用に置いてきたわ」
「無事なのね。二人は、ここにはいないのね」
「さすがに三人は、運びきれないもの」
「そう」
 よかった、とひとまずそれだけは安心する。あれからどのくらい時間がたったのか。ひかれたカーテン越しの光の加減から夜ではないらしいとわかるものの今どのくらいなのかが定かでない。
 それでもケフィとスタンが、あのまま屋台の中にいるのなら、きっとすぐに見つけてもらえるはずだった。
「私の髪飾りは? 返して」
「私が言うのもなんだけど、もっと自分の心配をなさいよ」
「返して。大事なものなの」
 言い募れば、イレイナは眉間にきゅっと皺を寄せた。私の方を見下ろしたまま、彼女はやがて観念したように息をつく。
「ここにはないわ。あなたを攫ったことを信じてもらえないと困るから証拠として置いてきたもの。ちゃんと明日の朝、あなたを引き渡す手筈も伝えている」
「なら、壊れていない?」
「壊れていないわ」
「ケフィたちと一緒?」
「女の子の方に持たせたわ」
「そう。ありがとう」
 よかった、とまた一つ確かに安堵して、目の前で寄り添う二人に目を向ける。
「それで? あなたたち、恋人同士だったの?」
「彼女は、私の婚約者です」
 即座に返ってきたベルナーレの申告に驚きつつイレイナを見れば、彼女は口を引き結んだまま肯定するよう、こくりと頷いた。
 新年会でイレイナがチュエイル家の親族たちからあからさまに煙たがられていたのを思い出す。恐らくあれは彼女が平民だからという単純な理由だけではなかったのだろう。
 チュエイル家の状況とイレイナの生家が商家を営んでいることを考えれば、彼らの婚姻を結びつけるのは貴族位と資金の交換だ。資金をちらつかせ、ついには地位を買った商人の娘だ、と。そう揶揄することもできる彼女の立場は、あの親類たちがさも嫌いそうなことだった。
 ただ、ベルナーレがすぐにイレイナの立ち位置を明かしたのを見る限り、イレイナがチュエイル家に手を貸しているこの状況を鑑み見る限り、当人たちの仲はそう悪そうではなかった。むしろ親しい間柄に見える。
「カザリア様、やっぱり何も聞いていなかったのね。あっさり引っかかったとは思ったけど、あなたあんまり親切すぎたものね」
 イレイナから同情するように告げられて、私は何も言い返せなかった。
 イレイナの指摘はまさにその通りで、彼女がチュエイル家の子息の婚約者だなんて完全に寝耳に水である。
 新年会の日、私がイレイナと話をしていた時に、ロウリィが困っているのか、ぽやぽやしているのかわからない、どっちつかずの表情をして私たちを見ていたことを思い出す。
 たぶんそれは、私に話しかけてきたのがイレイナだったからなのだろう。
 教えておいてくれたらよかったのに、と心のうちで詰ってしまいたくなる。けれど同時に、彼女と話したその後、私がベルナーレの足を踏み続けた上、足を踏ませて騒ぎを起こしたのが原因だと気づいた。
 あの後イレイナに会うこともなかったし、私が余計なことをしたせいで、ロウリィの頭からすっかり抜け落ちてしまったのかもしれない。
 いや、でもやっぱり、教えておいてくれるべき情報だったとは思うけれども!
「何。じゃああなた、婚約者がいたのに、あの調子で私に声をかけてきたの?」
 半ば八つ当たりのように睨みつければ、ベルナーレが何か言うよりも早く、イレイナが肩をすくめた。
「ほら。この人、顔と調子だけはいいから、ちょっと前まで、ころっと女の子がひっかかっていたのよ。ちょーっと優しくすれば、女の子もお姉様もおば様方だって、すーぐ援助してくれたものだから。もう今は、状況が状況だっていうのに。昔と変わらず、なんでも思い通りにうまくいくって思っているんだから」
「カザリア様さえ味方にできれば、まるくおさまると思ったんだよ。この方は王宮に顔がきくんだ」
「おさまるわけないでしょう! ベルたちが狙っているのは、この人の旦那なんだから」
「だからそれは賭けが」
「だからどうしてあんな賭けに出たおじ様を止めなかったのよ!? 早くこんなところ出ていけばいいのに。金食い虫のあの聖堂も、ベルたちに寄生するだけの親族も、全部放り出してしまえばいいだけじゃない!」
「だが、ここから逃げたらイレイナにあげられるものが何もなくなってしまう」
「バカじゃないの! 私を貴族にしたがったのは私の両親であって、私じゃないのに! だから、早く逃げてって言ってるの。そんなものいらない。私が全部なんとかするから。お願いだから」
「イレイナ、何言って」
「じゃないと、ベルが王様に殺されてしまう」
 悲壮な声でそう叫んで、イレイナは拳をぎゅっと額に押し当てた。