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「のどかだわ。すごくすごーくのどかだわ」

 刺客の心配がないだけで、と零すと、お茶の準備をしてくれたケフィがくすくすと笑った。
「まさかお庭でこうしてお茶の時間がとれるなんて思っていませんでしたものね」
「そうよね。いつかは終わるってわかっていたはずだったけど、まさかこんなにのんびりした気持ちになるなんて予想外だったわ。もう一ヶ月になるのに慣れない」
 気を抜いたらその辺から邪魔が入るんじゃないかと今でもつい思ってしまう。実際には、そんなことはあれから一度もなくて、こうしてのんびりお茶を飲んでいると、呆けてしまいそうになる。
「調理場のみんなは、毒の心配がなくなって張り切っていましたよ。これで全部召しあがっていただけるって」
「それは正直……せめてあと少し量が落ち着くと嬉しいわ、ね?」
 どれもおいしいのだけど、とひとりごちて苦笑する。
 庭に面したテラスに設けてもらったテーブルにも、何種ものお菓子が用意されていた。どれも皿にこんもりと盛られ、賑やかに並んでいる。一見ちょっとしたパーティみたいだ。
 食事の時もこの調子で、腕が鳴るとばかりにつくられた豪勢な料理が大量に並ぶのが最近の新しい悩みになりつつある。苦労をかけたし、好きな分だけつくってもらいたいのも山々だけど、なにせ量が多すぎるのが困りどころだ。
 小山の中から摘まみあげたクッキーをさくりさくりと食べていると、いつの間にか随分やわらかくなっていた春の風が近くを過ぎていった。
 つぼみが膨らみはじめたと思ったら、いっせいに花開いた色鮮やかな美しい庭を前に、また気が抜けた気分になる。
 ロウリィじゃないけれど、傍目から見たら今の私も随分とぽやぽやしていそうだ。
「のどかだわ。すごくすごーくのどかだわ」
 ほややんとまた繰り返してしまった私に、ケフィがおかしそうに同意した。
 

 チュエイル家からの回答は話し合いから五日後に正式にロウリィの元にもたらされた。
 難航するかに思われた当主の説得も「聖堂がカラフルにされたらたまらん」という奇妙な理由で、ベルナーレたちが驚くほどあっさり終わったのだと言う。
 カラフル? と揃って首を捻ったという二人に、あぁ、と思う。
 二人が出した答えを領主の執務室で教えてもらった私は、チュエイル家の当主が口にした意味を知っているだろうロウリィとルカウトに疑いの目を向けた。
 素知らぬ顔でにこにこといつもと異なる表情を浮かべたロウリィと、無表情を崩さないままあらぬ方向を見たルカウトに、やっぱりと確信する。
 煙玉だ。あのやたらカラフルに色がつく煙玉に違いなかった。
「……脅したのね?」
 呆れて聞けば、ルカウトが「奥様、そんな人聞きの悪い! 確かにちょーっと一度ついたらとれませんよって、誇張はしましたかねぇー?」とうそぶく。
 急いでいましたしね、と言い訳するように付けくわえたロウリィに、ルカウトは大仰に頷いた。
 急がせる原因だった私は、そう言われるとそれ以上、突っ込んでは聞くことができない。
「ご当主は元々ご自身の持ち分への執着が激しい方でしたから。特に聖堂は特別思い入れが強いようでしたし。ベルナーレさんの方は領地そのもののようでしたが」
「あのご子息も、これからはもうちょっと頭働かせてくれるといいんですけどねーえ?」
「働く働かないに関わらず、こちらではきちんと考えて働いてもらいますので問題ないです。チュエイル家内部のことは、彼ら自身でこれから徐々に向きあってもらうしかないでしょう」
 あぁでも、とロウリィがどこか夢見心地でほくそ笑む。
「刺客はご当主の方だけど、毒はベルナーレさんが手配してたみたいなんですよねぇ。お好きなんでしょうか。素晴らしい選別でしたし、その辺、これからは詳しく話せるかなぁ」
「やめなさい。絶対げっそりされるから」
 うっかり本人に聞く前に、強く強く念を押す。
 毒殺を目論んだ相手に、使った毒を根掘り葉掘り聞かれるなんて、相手にしてみればただの嫌がらせでしかない。
「えええー。そうですかね?」と聞いてきたロウリィに、私は「やめなさい」と重ねて止めた。
 イレイナからも私に対して正式に謝罪があった。と言っても、さすがに直接会うのはまだはばかられたから、ロウリィを経由して手紙を受け取ったというのが正しい。
 開いた手紙には、彼女の本来の性格なんだろう。実直な文字が並んでいた。
 今すぐにすべて許して私たちの間に横たわるわだかまりをほどくのは難しい。だけど、新年会ではじめて会った時に彼女が言ってくれたように、いつか友人になれたらいいな、と思う。
 領内の反発は予想に反して今のところ大きなものはあがっていないみたいだ。
 一連の沙汰の内容が領内に知らされた後、私が話を聞いたのが親しくしてくれていた人たちだったからというのもあるかもしれないけど。
 みんな「いや、ねぇ」と揃って困った顔になった。
「そりゃあ、びっくりはしましたけど、あの人らがこの先どうなろうとあんまり関係ないですしね。今のまま暮らしていければいいんですよ」
「生活が楽になるのなら、それに越したことはないけど。今も、そんなに困ってないものね。わざわざこれ以上、変える必要もない気もするけど」
「私は賑やかなのは好きだしいいと思うわ。昔は賑やかだったって、ひいじいさんから聞いたことがあるもの」
「あぁ、そう言えば、祭りも昔はもう一つ大きなのがあったって、うちのおばあちゃんも言っていたなぁ」
「そもそも領主様の顔なんてそう知らなかったのに、ロウリエ様になってからやたらその辺を歩いていらっしゃるから、もう近所の知り合いみたいなもんだし」
「こう言っちゃなんですけど、夫婦二人してあんなほのぼの仲よくしているの見ちゃったらねぇ。今さら、恨もうにも恨めないと言いますか」
「あんなにほんわかしている姿を見せられたら、疑うにも疑えないと言いますか」
「まさか、何かの作戦でした?」
「なら、まんまと騙されましたね」
「そんなに心配することないですって。うちらはうちらで、勝手にしますから」
 あはは、と愉快げに笑って、みんなはばんばんと親しげに私の腕を叩いた。
 あぁでも、と彼らは私を取り囲んで不敵に口の端をあげる。
「もしもの時は全力で追い出しますからね!」
 何せ私らには前例がありますから、と誇らしげに胸を張った領地のみんなの姿は勇ましく、私が知っていた以上に、はるかにずっと強かだった。


「みんなもついているなら、エンピティロはきっと安泰ね」
 数日前のやりとりを思い出してのんびり呟けば、ケフィが不思議そうに目を瞬かせた。
「私は奥様がいてくださって心強いです」
「私もケフィがいてくれて心強いわ。最近、淹れてくれるお茶も日に日においしくなっている気がするし」
 ティーカップに口をつけた先から、湯気と一緒に豊かな芳香が鼻先をくすぐる。ティーカップの向こうで、はにかんだケフィは「あぁ、それは」と種明かしをするようにこそりと言った。
「以前は、緊張していたんです。今回は大丈夫かどうか。ですが、今はもう自信を持ってご用意できますので」
「あぁ、それは……苦労をかけたわね」
 いいえ、とケフィは首を横に振る。
「もしもの時は領主様が気づいてくださるとわかってはいたのですが」
「それでも、ねぇ?」
 同意を求めれば、ケフィは困ったように苦笑した。
「そういえば領主様はどうしてあんなに毒がお好きなんでしょうね?」
「子どもの頃に紫陽花に毒があるって聞いて興味を持ったそうよ。私もお義母様から聞いたんだけど」
「へぇ、母さんがそんなこと言ってたんです?」
 かかった声に振り返れば、ロウリィが室内からテラスに降りてくるところだった。休憩時間とあえば、と言っていたから、多分都合がついたんだろう。
 いつの頃の話だろう、と首を捻りながら、ロウリィは椅子を引いて、私の隣に腰掛けた。追加されたお茶に礼を言いながら、彼はクッキーの小山に手を伸ばす。
「覚えていないの?」
「全然記憶にないですね。五歳の頃にルカと実験中、一緒に死にかけたのは覚えているんですけど」
「……何やってるのよ」
「こっ酷く叱られました」
「当たり前でしょう!? 聞くだけで怖いわよ」
「なので、それより前かと。確かに物心つく前から紫陽花も興味深く思っていましたが。だけど、紫陽花かぁ……」
 ロウリィはどこか懐かしそうに、けれども、どこか複雑そうに、相反する表情をして、結局口をつぐんだ。つぐんだまま、こちらをちらと見たかと思えば、目があうよりも早く視線を逸らされて、私は思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「何」
「えーっと、その」
「途中でやめられたら気になるわ。教えて」
 請えば、ロウリィは観念して溜息をついた。
「その……見たことがあるって言ったでしょう、見ていたカザリアさんを」
「えっ!? え、ええ」
 互いに“誰を”とも、“誰と”とも言いだせずにいるのに、何のことかがわかってしまって、どうしようもなく奇妙な空気が流れる。
 続けて、と口に出しては言いづらくて、私は目線でロウリィを促した。
「その時、カザリアさん、紫陽花の傍にいたんですよね。僕、いつも冬の一番大きいのにしか参加してないんですけど。でも、紫陽花って冬場は枯れるでしょう? 葉が全部落ちて枝だけになる。だから、ほら……僕がいる方からは、とても目につきました。他の年に会場の中から気づいた時は確かに影になっていましたけど。いつもそこだったので、もうちょっと隠れた方が、って」
 過去の自分のあまりの恥ずかしさに、ぴしりと固まれば「す、すみません」と慌てて謝られる。確かにそれなら、気づかれていてもおかしくなかった。火照った頬をごまかすように、私は無言でお茶に口をつける。
 なので、とロウリィは頬を掻いた。
「……紫陽花と聞くと、ついカザリアさんのほうを思い出します」
「……毒もあるし?」
「確かに、殺気が読めたり、刺客を倒せるほどとは思いませんでしたね?」
「否定しなさいよ」
 睨み付ければ、ロウリィはおかしそうに笑った。
「くるくる表情が変わるところも紫陽花みたいですよ。場所によって花の色が変わるでしょ」
「忙しないって言ってる?」
「おもしろいなぁ、と思ってます」
「それって、褒めてるつもりなの?」
 怪訝さを隠しきれずに聞けば、ロウリィは曖昧に首を傾げた。だから、それはどっちなのか、きちんと説明してほしいのに。
 悔し紛れに小山から摘まみとったクッキーを口に放れば、隣でお茶を飲んだロウリィが「春ですねぇ」と見当違いの穏やかさで、陽光に向かって目を細めた。
「あ。そうだ、すみません。エリィシエル姫から手紙が届いていたんでした」
「リシェルから?」
「そう。ここに来る直前に届いたから、僕が持っていった方が早いかなと思って預かってきました」
 言いながら、ロウリィが上着の内ポケットから手紙を取り出す。差し出された薄く緑がかった春色の封筒には、確かにリシェルの名前があった。
 手に取ると、いつだって親友の姿が透けてみえるようで、そわそわと気持ちが浮き立ってしまう。
 いろんなことがありすぎて滞っていた手紙の返事を、先日まとめて出したのはまだ記憶に新しかった。お茶の時間が終わったら、ゆっくり読もうと我慢して、テーブルの脇に置く。
「ありがとう」
「あれ、読まないんです? いつも楽しみにしているから、早い方がいいかなと思ったんですけど」
「今、いいの?」
「そりゃあ、いいですけど」
 あれ、いけませんでした? と不思議そうな顔をするロウリィに首を横に振るう。
「本当は今すぐ読みたい」
「なら、よかった」
 ほややんと笑って、ロウリィはお茶を飲みながら庭に目を向けた。邪魔にならないよう、私に気を遣ってくれたんだと思う。
 一見ぽやぽやとした何気ない仕草に、途端ほんわかした気分に浸ってしまいそうになる。そっと横顔を盗み見ながら、私は早速手紙を手に取った。
 手紙の封を切っていると、手紙を書いた時のことを思い出した。リシェルに話したいことが多すぎて、はやる気持ちと裏腹になかなか進まないペン先にやきもきしたのだ。
 届いた手紙の分厚さに、リシェルはきっと驚いたに違いない。
 開いた手紙からは、辺りに満ちている空気と同じ優しい香りがした。
 連なる文字に導かれるまま、目を滑らせる。
 読み終わる直前、末尾に添えられていた言葉に不思議と涙があふれた。
 ほたほたと音なく落ちた雫に手紙の文字があわく崩れて滲む。
 慌てて手紙を置いて、手で目元を拭った。
 滲んだ視界の先で、私の様子に気付いたロウリィとケフィが揃ってぎょっとしていた。
「カザリアさん?」
 席を立ったロウリィが、私の手をとる。
「何か悪い知らせでしたか?」
「ちがっ、そうじゃなくて」
「どうしたんです」
 聞きながら、薄蒼の双眸が心配そうに曇った。
 自分の手だけではとても足りなかった涙が、代わりにロウリィの指で拭われる。
 当たり前のように寄り添ってくれる温もりが幸せで、こんな時いつだって眩暈がする。
「ちがうの。いいこと。嬉しかったの。だから、大丈夫」
 途切れ途切れに、そう訴えれば、ロウリィがほっと息をついたようだった。
「そうですか」
「ええ」
「よかったですね」
 手紙に書かれていたのと同じ言葉をもらって、私は息を詰まらせた。
 たった一言の労いの向こうに、笑顔と思いやりが重なって、透けてみえる。
 泣きたいと思ったはじめの日は泣けなかったのに、嬉しくて心の震えがまたそのまま溢れた。
「ロウリィ」
「うん?」
 なかなか泣きやめない私の頬を辿る手を捕まえて、私は指を絡ませる。
 見上げれば、あわい水色の春空のもと、ロウリィは私を見つめて、言葉を待ってくれていた。
「あのね」
「うん」
「私、あの日、何も知らずにここまで来てよかった。帰さないでくれて、一緒にいさせてくれて、ありがとう」
 冬の名残を残した薄蒼の双眸が、きょとりと瞬く。
 思わず笑ってしまった私の前で、ロウリィはほややんと微笑んでいた。
 

 

【おわり】