8


「奥様、……何をしていらっしゃるのですか?」
「何って……」
 開いた隙間から目を離して、背後から声をかけてきたバノを見上げる。
「……ロウリィの観察よ」
「え、見たまんまなんですか」
 スタンが、不審もあらわに驚きの声を発した。素直に自分の心情を口に出してしまった同僚の頭を、バノがすかさずはたく。
 わかっている。ちゃんと自分でもわかってはいるのよ。
 夫の私室の前にしゃがみこんで、なおかつ、ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、部屋の主にばれないように、こっそりと覗き込んでいるこの状態が、誰から見ても怪しいんだってことは。
 だけど、言い訳するなれば、夫の素行調査は、妻の特権事項だとも思うのだ。
 再び、隙間へと視線を戻す。スタンも、同じように中を見る。さすがにバノは、隙間に目を当てて覗き見るような真似はしなかったが、それでも、彼も、ちらちらと中の様子を気にしているようだ。
 縦細い扉の隙間から、辛うじて垣間見えた部屋の中では、開かれた窓の前で、ロウリィが何かをゴリゴリとすりこぎで擦り続けていた。
「ねぇスタン、あれ、何していると思う?」
「何なのでしょうね。料理……でしたら、厨房でなさいますよね?」
「今日は“危ないので中に入らないでくださいねぇ”、と仰られてはいたのですが」
「何、あれって危ないの?」
 問い返せば、バノは「領主様が仰るには」と請け負った。
「……どちらかと言えば、危なく見えるのはロウリィの方なのだけれど」
 スタンが、真上でぷっと吹き出した。ポコンという何とも気持ちのよい音が聞こえたのは、バノがスタンの頭を小突いたからだろう。
 だけれど、大きな一繋がりの硝子の眼鏡をかけ、口元を覆う白布を後頭部で留めているロウリィの姿は、見るからに危ない人物そのものだ。
「お義母様が――」
「あ、領主様のお母上は、どうなさったのですか? 一緒にお話しなさっていたのですよね?」
「ええ、ついさっきまでね。だけど、お昼寝をなさりたいと仰っていたから、一度客室の方に案内して来たわ。王都からこのエンピティロまでは随分と遠いもの。きっとお疲れなのでしょう」
「ああ、屋敷中を散々歩きまわりましたしねぇ……」と、スタンが苦笑する。
「それで、お義母様が、ロウリィは薬作りが得意だと仰っていたから、本当なのかしらと思って見に来たのよ。だけど、部屋に入れないほど危ないってことは、やっぱりあれは毒なのではないかしら。どう考えても、ロウリィと薬とが結びつかないんだけど」
「え、奥様知らなかったんですか!?」
「え、何が」
「だから、領主様と薬ですよ!」
 スタンは言うと、バノに「なぁ?」と呼びかけた。
「俺、前に腹痛になった時、領主様が痛み止めくれましたよ」
「私も、怪我をした際に軟膏をいただいたことがあります。とてもよく効くのですよ」
 スタンの言い分を受け継いで、バノまでもが頷く。
「え!? 何それ、ロウリィと薬って有名なの?」
「有名も有名。“何かあったら領主様”は、だいぶ前からエンピティロじゃ常識ですって。ご存知なかった方がびっくりです」
「領主様がいらっしゃって間もないころは、毒見もあっていたんですよ。今は、領主様が必要ないと仰るので、その役もなくなりましたが。ですが以前、毒見役が倒れた時に、すかさず薬を処方してくださったのも領主様です」
「おかげで、毒もそんなに怖くなくなったよな! 当たっても、領主様なら何とかしてくださるだろうって安心できるし、心強いのなんのって」
「…………そ、そうなの」
 何だ、この疎外感。
 こっそり確かめようと思ってきたのに、実はみんな知っていたというこの事態。知らないのは私だけだったのか。
 だけれど、誰もそんなこと教えてくれなかったじゃないの。ロウリィだって、薬の話は一度もしていなかったじゃない。
 それとも、あれかしら。いつも遮っていた毒の話の先は、薬の話に繋がっていたのかしら。いや、でも、まさか。ぽやぽやとした顔で、いかにも真面目そうな薬草の話をするロウリィなんて想像もつかないわ。
 そもそも、慣れない土地にやって来たにも関わらず、特に体調を崩すこともなく、健康に過ごしてしまった私が悪いのだろうか。風邪の一つでも引いていたら、ロウリィは薬をつくってくれたのかしら。そうしたら、今日まで知らなかったなんてことなかったのかしら。
 だけど、図太いとまでは言いたくはないが、か弱くなんて決してないのよ。いいじゃないか、健康で何が悪い。
 頭上では、バノとスタンがロウリィの薬について談笑し合う。
 口を挟むこともできないのでそれを耳半分に聞きながら、室内を覗き続けていると、ふとロウリィがすり鉢を机に置いて、その場を離れた。棚に何か取りに行ったのだろうか、と首を傾げかけたところで、はっとする。
「――いっ!? お、奥様!?」
 立ち上がった瞬間、真上にあったスタンの顎に、ゴンッと頭が激突した。
「どうなさ――」
「バノ、部屋の裏手にまわって! 外っ!」
 すぐに察したバノが、踵を返して駆けて行ったのを横目で見ながら、勢いよく扉を開いた。脱いだ靴を、手でひっつかんで部屋の奥に向かって放り投げる。
 部屋を一直線に横切っていった靴のヒールは、カッコーンと窓に顔を出したばかりの男の額に命中した。「ほげっ」という、悲鳴に続いて、ドサリと倒れる音がする。
「奥様、捕獲いたしました! 本日もお見事です」
 隣の部屋の窓から外に出て、まわって来たのだろう。バノが、窓の外からひょこりと顔を出して報告してきた。
「バノー、ありがとう、ご苦労様」
 バノに向かって大きく手を振った後、手についた靴の汚れを払うために、パンパンと両手をはたく。
「まったく、そう何度も同じ手で来られたら引っ掛かるところも引っ掛かれないって言うのよ」
 はぁと溜息をつけば、隣で顎を押さえていたスタンが「今日は屋敷を一周したし、全員一掃したと思っていたのに、まだ隠れてたんですね……」とどこか感心したように言った。


「いやぁ、びっくりしましたよ」と、眼鏡を外したロウリィは、こちらは外し忘れているのか白布で口元を覆い隠したまま、うんうんと頷いた。
「だって、部屋の中をいきなり靴が飛んで行くんですから」
「…………」
 バノが拾ってくれた靴を履きなおす。そりゃあ、私だって、好きで靴を投げたわけじゃないわよ。ただ、近くにあった一番投げても問題なさそうなものが靴だっただけで。
「そんなことよりも、ロウリィ! 何をしているのかは知りませんが、窓を開けて作業するのはやめなさい! ただでさえ、危ないのにもっと危なくなるじゃないの」
 窓をあんなに全開にするなんて、この人の場合、どうぞ殺してくださいと言っているようなものだ。
 それに、窓が開いていたせいで、暖炉がまったくもって役割を果たせていない。これでは、寒いではないか。こんな部屋にずっといたら、風邪をひいてしまいそうだ。
「ですが、今日はちょっと危ないかもしれないので。換気は徹底しておかないと」
「だから、その危ないって何なのよ。薬、……を作っているんじゃないの?」
 こわごわと伺ってみると、「薬は、今日は違いますね」とロウリィはあっさりと返してきた。何だ、薬ではないのか。なんだか、期待してしまった分、損した気分だ。
「……えっと、じゃあ毒?」
「じゃなくて、今日は燻し玉でも作ろうかと思ってるんですよね。試しに、いろいろ入れてみてますし、後で実験するので――ちょっとカザリアさん、いいですか?」
「へ?」
 燻し玉? と思っていた瞬間、ロウリィに肩を掴まれた。そのまま身体が左右交互にまわされる。私の後ろと前とを確認してから、ロウリィは「よかった」と息を漏らした。
「どうやら巻尺はついていないようですね」
「……ちょっと待ちなさい。話の流れが見えないのだけれど」
 一体どういう意味だ。巻尺をつけて歩いている人なんていたらおかしいだろう。
 ロウリィは溜息をつく。
「――あの人、採寸魔なんですよ。誰かれ構わず採寸したがるんです。しかも母さんが気の済むまで付きあわされますからね、やられている方はとても疲れるんですよ。餌食になっていなくてよかったです」
「餌食って……。ああ、でも、それなら、お義母様は、仕立てがお得意なの?」
「いえ、まったく」
 ロウリィは布で半分隠れた顔の前で、片手を振り否定した。
「ただ、採寸が好きなだけなんです。裁縫とかそういったものは、まったくできません」
「あ、そうなの……」
 それは、大層変わったご趣味をお持ちで。
「あとは、さっきの塵騒動も。付きあわせてしまってすみませんでした。あの人、ある種の人見知りなんですよ。慣れていない人がいると妙にはしゃいじゃうんです」
「ひ、人見知り!? あれがっ?」
 驚けば、ロウリィは困ったように「はい」と頷く。
 確かに、部屋で話をしたお義母様は、割合、落ち着いていらっしゃったけど、人見知りって普通無口になったりとか、そういうものじゃなかったのかしら。
 絶句していると、ロウリィは重ねて言った。
「あんなにはしゃぐのも今のうちだけなので、申し訳ありませんが、落ち着くまで、しばらく我慢してくださいね。できるだけ速やかに王都に送り返しますから」
 何と言うか……あまりにもロウリィが奇妙すぎて、首を傾げる。
 布のせいで表情が隠れているせいか、すごくぶっきら棒だ。いや、布がどうとか言う以前に――
「カ、カジャリアしゃん? ……にゃにするんですか」
「え、だって、なんだか、ぽやぽやしてなかったから」
 当て布を取っ払って、ロウリィの頬をびよーんと横に限界まで引っ張る。「‟ぽやぽや”ってにゃんですか」と、ロウリィは不機嫌そうに抗議してきた。
「だから、ロウリィはぽやぽやしてないと気持ち悪いのよ」
 どうして今日はこんなに機嫌が悪いのかとか、そんなことは知らないけれど、彼がいつものようにぽやーんとしていないと私が、気持ち悪くて仕方がない。
「それにゃら」と、むっと眉根を寄せて、ロウリィは言った。
「にゃっ、にゃに!?」
 伸びてきた、ロウリィの手に今度は私の頬が、びよーんと引っ張り返されて、瞠目してしまう。助けを求めて、部屋に残っていたスタンを見れば、彼もさぞびっくりしたのか目を丸くして立ちつくしていた。
「カジャリアしゃんだって、気持ち悪いですよ」
「にゃっ、にゃんで私が!」
「だって、あの笑いは気味悪いです」
「にゃんですってぇーーー!?」
 それは、聞き捨てならない。だって私はこれまで、あの笑みで称えられてきたというのに!
「あにゃた、みぇが悪いんじゃないの!?」
「じゃんねんですが、これでも目はいいんです! だって、あれ、寸分足りとも表情が変わらにゃかったじゃにゃいですか。あれじゃ、まるで、お化けですよ。お化けの方がまだましですよ!」
「ひ、ひでょい……!」
 そんなこと言うかこの口は! ぐにぐにーっとロウリィの口を力任せに引っ張る。
「い、痛い痛い。痛いですって!」
「当り前じゃにゃい! わざと痛くしてるんだから……って、いひゃいいひゃいいひゃい! にゃにするのよー! ロウリィにゃんて、ぽやぽやのくせにっ!」
「だかりゃ、それはにゃんにゃんですかっ!」
 ぐにぐに、ぐにぐにと引っ張り合う。
 負けてたまるものですか!

「いーかげんになさいませっ!」

「「い、痛いっ!」」
 拳骨が落ちて、ロウリィの顔から思わずぱっと手を離す。
 横を向けば、いつの間にやって来たのか、ルーベンがじょうろを片手に、厳めしい顔でこっちを見ていた。ロウリィの方は、じょうろで叩かれたのだろう。頭を押さえて呻く彼の周りの床には、いくつもの水たまりができている。
「ルーベン!?」
「スタンに言われて来てみれば……お二人とも一体、何をなさっているのですか」
「だって、ルーベン。ぽやぽやじゃないロウリィは気持ち悪いんだもの!」
「だけど、ルーベン。カザリアさんが笑うの気持ち悪いんですよ!」
 互いに指差して言い合えば、ルーベンは「はい?」と困惑した顔になる。
 しばらく、交互に顔を見比べていたルーベンは「とにかく」と溜息をついた。
「子どもじゃないんですから。お二人とも頬が真っ赤ですよ?」
 きょとんとロウリィの顔を見れば、確かに頬が赤く腫れている。元から顔がぽっちゃりと丸い分、まるでトマトだ。
 私もあんななのかしら、と自身の頬に手を添えていると、目の前に濡れ布が差し出された。
 侍女のケフィは、布をそっと頬に当ててくれながら「大丈夫ですか?」と心配そうに覗きこんでくる。布の湿った冷たさがひんやりとしていて火照った頬には心地いい。
 彼女もルーベンと一緒に来てくれたのだろうか。
 そう思って、よくよく周りを見渡してみると、いつから見物されていたのか、ケフィの他にも扉近くには大勢が集まってきていた。
 皆一様にほっとしている。
 その中から「どいたどいた」というだみ声と共に、観衆をかきわけて、コック長のジルが現れた。
 両手の皿それぞれに、山盛りに盛ったクッキーを乗せたジルは、ずんずんと部屋の中に入って来る。彼の後ろにはまた、クッキーが盛られた皿を抱えたコックのみんなが続いた。呆気にとられて見ている中、彼らは、こちゃこちゃと雑多な机の上の物を脇にどかして、皿を並べ始める。
 全ての皿を机の上に並べたジルは、私たちの方を得意気に振り返った。
「さぁさ、領主様も、奥様も、お食べなせぇ。作ったばかりの焼き立てほやほやをわっしが責任をもって持ってきたものですから、毒入りの心配はありませんですぜ。食べたらきっと、虫の居所が悪かったこともたちまちのうちに収まりますって」
「そんな、ジル。子どもじゃないんですから」
 唖然としながら言うロウリィに「まるでどころか、ほっぺを引っ張り合うなんて子どもそのものでしたけどねぇ?」と、ジルは愉快そうに笑う。つられて集まったみんなも、笑いはじめた。
 どうにもこうにもきまりが悪いのは、私とロウリィだけである。しかも、お互い頬が腫れて真っ赤ときた。
 なんとなく気まずい空気の中、笑い続けるみんなの様子を眺めていると、ロウリィと目があった。
「仕方がありませんねぇ」と肩を竦めたロウリィは、ようやく、ぽややーんと苦笑したのだ。