ひとりぼっちにならぬよう


 高い高ーい塔の上。地面に茂る草よりも、空にある雲の方が近いくらいのそんな場所。ランチェルという少女は、たったひとりで暮らしていました。
 ――いいえ。
 塔のある敷地には、ところどころにガタがきてはいるものの人が暮らすには充分な家が立っていましたし、小さいながらもよく手入れされた畑と、庭には物置小屋もありました。何と言いましても、ゴーテルという老婆がここには住んでいましたので、ランチェルはゴーテル婆さんと二人で暮らしていると言った方が正しいのかもしれません。
 けれども、ランチェルはひとりでした。
 小さなランチェルはどうして自分がこの塔に住まわなければならないのか、詳しい理由を知りません。ですが、十九歳を終えるまで塔から出てはいけないのだと、ゴーテル婆さんが教えてくれました。
 ゴーテル婆さんは優しい人です。ランチェルに本を与えてくれました。塔から見える街の出来事を話して聞かせてくれました。とびきりおいしい料理を運んで来てくれましたし、ランチェルと一緒にそれらの料理を食べたりもしました。
 ですが、ランチェルは一日の大半を塔の上の狭い部屋で、たったひとりで過ごさねばなりませんでした。
 元よりそうであったにも関わらず、ゴーテル婆さんの身体は年々自由が利かなくなっていきました。同時に、ゴーテル婆さんが、塔の上までやって来る機会も年々少なくなっていきました。
 と言いますのも、高いばかりのこの塔には、階段がありませんでした。あるのは、窓一つだけ。ランチェルのいる部屋に行く為には、窓にくくりつけられ、地へと垂らされたロープを使って壁伝いに登るしか方法がなかったのです。
 ゴーテル婆さんは、名の知られた魔女でした。しかし、使える魔法と言えば、煎じ薬の効能をあげるくらい。自分の身を浮かせて遥か空高くにあるランチェルの部屋に辿りつくことなど、とてもじゃないけどできません。
 ゴーテル婆さんは、地面まで届いたロープの先に籠を取りつけてくれました。籠の中に本や料理を入れてくれました。ランチェルは、ロープを手繰って籠を引きあげます。時折、そうして手紙も交換しました。
 ゴーテル婆さんは、毎日欠かさず塔の下からランチェルに声をかけました。ランチェルも、ゴーテル婆さんに負けず劣らず声を張り上げて、ゴーテル婆さんに呼びかけました。けれども、風が強く吹き荒れる日には、二人の声は互いの場所まで届くことがありませんでした。
 そういうわけで、ランチェルはゴーテル婆さんが傍で暮らしていることを知っていました。ですが、塔の上から降りることのできないランチェルは、いつもたったひとりで日々を過ごしていたのです。
 いつもひとり。
 朝日によって目覚めを促されて起きるランチェルは、昼には流れる雲に思いを馳せるよりも、飴色に照り輝く街に暮らす人たちを想像することの方が好きでした。きっとあの街には、本に登場する人物が暮らしているのかもしれないと思うのです。そうしているといつの間にか黄昏が優しく街を包みこんでいきます。すっぽりと街が夜に飲み込まれた頃、ランチェルはやはりひとりで窓辺を離れると、温もりのない寝台に入るのです。
 そんな日々が毎日飽きる気配もなく続けられました。
 しかし、終わりも毎日変わらぬ日常の中、やって来たのです。
 その日、ちょうどランチェルは風邪をひいていました。ランチェルがうつらうつらと夢との合間を漂っていると、窓からひょっこりとふわふわとした薄茶頭の男の子が顔を出しました。
 ランチェルは、ぱちくりと目を瞬かせました。夢と現実を見定める為に、閉じかかっていた目をしっかりと開けました。
 そうこうしているうちにも、窓をよじ登った男の子は部屋の中に転げ落ちました。どうやら、本当に今起こっている出来事のようです。ランチェルは、掛け布を跳ねのけると身を起こしました。
 寝台から降りたランチェルは、急いで男の子に駆け寄りました。突然現れた男の子は、けれど、突然消えてしまうのではないかとランチェルは気が気ではありませんでした。
 窓から転げ落ちた際に頭を打ったのか、男の子は後頭部をさすりながら、むっくりと身体を起こします。ですが、せっかく起きあがったばかりの男の子は、倒れてくるランチェルの身体を受け止めた結果、押し戻されてしまいました。
 ぎゅっと抱きとめられた身体。「いてて」という男の子の呻き声を、ランチェルは自分の身体の下で聞きました。ランチェルが慌てて男の子から身を離すと、男の子はたしなめるようにランチェルを睨んでいました。
「だめだよ、走ったら。熱が高いんでしょう?」
 そうなのです。熱があることを忘れて走ったランチェルは、途中で足をもつらせて、こけてしまったのです。
「ランチェル」と男の子は、ランチェルの手を取って呼びました。どうして自分の名前を知っているのだろうと、そんな疑問はランチェルの頭にはよぎりませんでした。
 代わりに、『王子様なのかしら』――と、ランチェルは幼心に思いました。真剣にそう思いました。目の前にある鼻から頬へとそばかすの散らばった男の子の顔立ちは、お世辞にもかっこいいとは言えません。けれども、ゴーテル婆さんから貰った本の中には、そういった物語がありました。
 男の子は不意に噴き出しました。けらけらとランチェルの手を握ったまま笑いだしました。
「おれが、王子様だなんて、そんな夢みたいなことあるわけないよ」と男の子は可笑しそうにお腹を抱えました。
 それでランチェルは、思ったことをうっかり口に出してしまったのだと気付いたのです。ランチェルは、恥ずかしくって、恥ずかしくって、すっかり真赤になってしまいました。元々熱があって真赤だった頬は、今にも湯気が立ちあがってしまいそうなほどです。
 ひとしきり笑った男の子は、名をハイデルと名乗りました。あの飴色の屋根の街から来たのだと教えてくれました。今日からゴーテル婆さんの手伝いをすることになったのだと、彼は言いました。
「ハイデル?」
「そう」
 男の子は頷きます。ややあって立ち上がったハイデルという男の子は、自らが入って来た窓に目を向け、「うわぁ」と感嘆の声を上げました。
「すごいや! 街があんなに小さい。見て、教会の鐘が小指の爪みたいだ」
 ね、とハイデルは、左手の小指を立てるとランチェルに示して見せました。
 自分だけしか知らなかった世界。小さくて小さすぎて、けれどずっと美しいと思っていた世界。ランチェルは、熱に浮かれた頭で誇らしげに笑いました。
「すごいのよ、あのね!」と、ランチェルは意気揚々と窓の外を指さしました。ハイデルにもっと他の光景も見てもらおうと思ったのです。
 ですが、ハイデルは、ランチェルが指した指を見て、「ああ、忘れていた」と、窓から伸びるロープを大慌てで手繰り上げました。ロープの先についていた籠には、透明の瓶に入ったリンゴジュースと緑の瓶に入った水、それに薬瓶や布が入っています。ハイデルはロープから外した籠を手に持ちました。
「ゴーテル婆さんに、君の看病を頼まれていたんだった」
「だけど。だけどねっ、ハイデル」
「だめだよ。病人は寝てください」
「そんなの治ったわ」
「治ってないよ、だって手が熱いもの」
 ハイデルは、繋いでいたランチェルの手ごと手を上げると、ランチェルの目の前に示して見せました。打って変わってふくれっつらとなった少女を押しやって寝台までつれてくると、軽く整えた寝台の中にランチェルを寝かせてしまいました。
 水に浸された布がランチェルの額にのせられました。ひんやりとした気持ちよさが熱の中に沁み渡ります。
 ランチェルは、ぼんやりとした頭で、ハイデルがてきぱきと仕事をこなしているのを見ていました。けれども、ランチェルは、ハイデルが布を水に浸す時、彼がほんの少しだけ顔をしかめたのを見逃してはいませんでした。
 額に置かれたハイデルの手首を、ランチェルはすかさず捕らえました。
 ロープを伝って登るときに擦れてしまったのでしょう。ハイデルの掌は、両方とも痛々しいほどの赤さを持っていました。ところどころ、血が滲んでいるところもあります。
 ランチェルは、眉をひそめました。
 気にしなくていいよ、とハイデルは言いました。
「初めてだったから、ちょっと登るのが難しかっただけ。次は上手くやるよ」とばつが悪そうに苦笑しました。
 そう言って、早々にランチェルの手から逃げようとしたハイデルの手を、しかし、ランチェルはもう一度掴みなおしました。
 それから、掌をくっつけ、彼の手と自分の手を組み合わせました。
 するとどうでしょう。ハイデルの手にあった痛みはたちまち消えてしまったのです。痛みどころか、傷までも、何事もなかったように消え失せていました。
 ハイデルは、綺麗になった自分の手を見て言葉を失くしました。
 極限まで見開かれた眼が、ランチェルを見下ろします。ランチェルは、満足そうに今日出会ったばかりのハイデルを見上げると、にんまり笑顔だけを残して、あとは、すぅと眠りに落ちました。
「夕方にも来てくれるかしら」と願い事を唱えながら、眠りに落ちました。
 明日も来てくれるかしら。明後日も。その次も。その次の次も。その次の次の次もずっと。
 そんなことを願いながら、たったひとりきりだったランチェルは、ハイデルがすぐ近くにいるのが嬉しくって、その日、早く風邪を治してしまおうと眠りについたのです。

***

「……あのさ。あまりにも思い出を美化しすぎじゃない?」
 今では青年となったハイデルは、腰かけた椅子の背に凭れかかっているランチェルに問いかけました。
 相変わらず塔の上に住み続けている娘、ランチェルは「そうかしら」と首を傾げます。腰まで伸びる栗色の髪、深く色づく緑の瞳。美しいとも言える容姿を持つ娘は、しかし、ただ美しいと言うには難のある娘に成長しておりました。
 ハイデルは、ランチェルが日記だと言い張る帳面を捲ります。
「おれ、出会いがしらにこんなこと言われた覚えないんだけど」
「王子様? 私のことを思いっきり笑ったくせによく言うわ」
「……うーん……」
 ハイデルは、ますます首を捻りました。そもそも、ランチェルはそんなに可愛い思考の持ち主じゃないだろうとは、口が裂けても言えませんでしたが。
 あれから何年もの時が流れました。
 ハイデルはすぐに塔を登ることに慣れました。するすると登り行く様は、まるで誰かが引っ張り上げてくれているのではないかと周りの者を錯覚させる程となりました。怪我をすることもなくなりました。
 そこで、ランチェルは、窓から垂らしていたロープを部屋の中に引きあげてしまいました。するとゴーテル婆さんはすぐに鉤付きのロープをこさえました。
 鉤が空近くの窓に向かって投げられます。鉤がしっかりと窓に到達するまで、数日かかりました。しっかりと鉤が窓にかかって固定されるまでにはさらに数日、そうすると慣れないながらもハイデルがよじ登って来るのに時間はかかりませんでした。その代わり、ハイデルは結構な打ち身をこさえながら塔の上に辿りつきました。
 その内、また、鉤付きロープを使うこともハイデルにとってはお手の物となってしまいました。予期せぬことで怪我をこさえるなど、そんな失敗は起こらなくなりました。
 そこで、ランチェルはいつの日からか物を落とすようになりました。ゴーテル婆さんも、ハイデルも当然怒りますが、それでも彼らはランチェルをひとりにはしませんでした。
 ランチェルは、日記と睨めっこをしている友人を見て、くすりと微笑を零しました。
「今でも思ってるわよ? ハイデルはやっぱり王子様だったわ」
「――っぐほっ……!?」
 ハイデルは、咳き込みました。それはもう可哀相なくらいの咳き込みようでした。
 だから、ランチェルは今日もお腹を抱えて笑うのです。
 塔の上までやって来てくれる友人を指差しながら、けらけらと。
 それはそれは、楽しそうに。