椿


 その名を与えられし花は、散ることなく、ほとりと落ちる。


 *

 ――落ちてもなお美しいとはまさにこのことよのう。
 と、誰かが言った。

 ――それならば、庭を埋め尽くすほどに椿を植えおきましょう。
 と、誰かが答えた。
 お待ちしましょう。こことあなたにわかるように、と。

 けれども、その花の名を与えられしものは、子どもは――どうすればよいのか。


 * * *


 霞がけぶる中、常緑に埋もれる鮮やかな紅に目を細む。
 椿、と呼びかければ、彼の少女は口を引き結んで、ついと目線をこちらに向け、かと思えば、すぐに咲き乱れる紅い椿の花へと何ともきまり悪そうに目をそらした。
 意味もなく紛らわそうと己の指先で黄の芯をつつく少女を眺めて、ついたちは相好を崩してうち笑う。
「ね、お茶の一つも出ないものかな?」
「……いい、けど」
 艶やかな花弁に触れた指先は、そろりと震えて、零れそうな紅の花は落ちることなく枝にしがみつく。椿から離れた手が落ちてしまう前に、朔は少女の手を己の手に取った。
 彼女の手は、小さくて、白くて、だが、細かく切れた皮膚には紅が滲む。冷たい冬の水にさらされた手は、綺麗でも至るところに傷がある。
 ね、と朔は首を傾げて、己よりも背の低い女子おなごの顔を覗き込んだ。至極透明な黒茶の瞳が、それでも光を宿す黒茶の瞳が、かち合うと同時に微かに揺れる瞬間が朔は例えようもなく好きだった。
「ね、椿。祝言を挙げない?」
 一対の黒茶がわずかに見開かれ、そのまま、くしゃりと歪んで崩れる。
「いいけど、とは言わないの?」
 朔が問えば、椿はふるりと一度首を振って、「何度も言った」と掠れた声を響かせた。
 彼らの間を吹いた風は、黒い髪を掬っては流れる。目の前を行き過ぎる黒糸をそのままに、風がおさまるのを待って、朔は再び口を開いた。
「だから、何度も言ってるんでしょう? 出会った時から、ずっと。椿が何度も断るから」
 かつて胡乱気に向けられていた瞳は、今や痛まし気に代わり、どちらの方が良かったのか朔には分からなかった。それでも、時折向けられる穏やかに凪いだ瞳の色があるから、今の方が前にも増してより愛おしいと思える。率直に嬉しいと思う。
 ね、と声をかければ、まるでその先を遮るように彼女はぽつりと呟く。
「朔は武家でしょう」
「椿も武家の娘でしょう?」
「……落ちぶれてる」
「別に構わないよ。もう戦なんて疾うの昔に果てた。今じゃ武家も名ばかり」
 そうでしょう? と問い返せば、少女からは「そうじゃなくて」と言葉が返る。
「何度も言ってるでしょう。椿は、……忌まれてる」
 散ることなく、花の姿のまま、ほとりと首を落とす椿は縁起が悪いと。
 落ちる首も、太平となった今では最早ないというのに――出回った風習はなかなか削がれはしない。
 椿というその名だけで、ないがしろにされてきたその女子は、ひたと目の前に立つ青年を見据えた。
「だから、嫌。朔の首が落ちるのは嫌」
 落ちるわけがないでしょ、と苦笑して、朔が彼女の額を、ていと押し叩けば、「落ちたらどうするのよ」と不機嫌な声が戻る。
「父上の首は」
「うん、分かってる。何度も聞いたから」
 椿を愛でた彼女の父は闘争の最中に首を落とされた。彼女の母は、約束の印として椿を植えていた。産まれた女子にも夫の愛する花の名を授けて待った。
『落とされた首はほんに美しゅうて、まるで地に落ちた椿の花のようじゃった』
 彼女の母は、夫の最期を思い返すたび、いつも目を細めては涙していた、と。椿はそんな母の姿を何度も何度も見てきたのだ、と。朔は聞き知っていた。
「だけど、だからこそ、椿の名は愛されてつけられた名でしょう? それを、忘れちゃいけないよ。椿は自分の名が嫌い?」
「嫌いじゃ、ないけど……」
 嫌い、と呟き、目を伏せた少女の顔には翳が落ちる。瞬かれると同時に陽光をも弾く睫毛は、そよ風を送るようにそ、と揺れる。
 朔は刻一刻と留まることなく些細な変化を起こす彼女の表情を眺めやって、ふと目を細めた。そらされた一対を探るように、椿の顎に添えた手をくいと上げる。
 ね、と朔はまるでそらすのを惜しむかのように、少女の黒茶を見据えた。
「僕は、はらはらと舞う山茶花よりも、ほとりと落つる椿の方が好きだよ?」
 ね、と朔は楽しそうに、面白そうに、朗らかに、続ける。
「知ってる? 椿はとても人に好まれているよ。椿の油は髪を艶やかにするのに使われるでしょう? それに、刀を錆びにくくもしてくれる。葉は打撲にもよく効くし、葉が灰になれば媒染剤にも、焼き物の釉薬うわぐすりにもなる。椿の材木は重宝されているし、炭は火の粉も飛ばさぬ高級品だよ。それにね、椿の木には神が宿るとされている。邪気や災いを祓ってくれると、忌避されるよりも、もっと古からずっとずっと言い伝えられているんだ。忌まれるよりも、椿はずっと人に好かれてきたんだよ。ずっと好かれているんだよ」

 *

 椿は何も答えない。唇の端をほんの少し噛んで、そらしたくてもそらすことは叶わないから、椿はただ朔をじい、と見上げるしかなかった。
 つまりね、何が言いたいかと言うとね、と朔は相も変わらず、ほんのりと笑う。
「僕は椿がとても愛おしいということ」
 そこに彼女の意思は存在しなくて、いつも青年の笑みによって隅へと追いやられて。む、と眉を寄せて抵抗してみても、打ち消されて泡のように溶けて弾けるから、椿は余計に悲しかった。きっと朔はこんなこと気付いてもいないのだろうけど。やはり、気付いて欲しくはないのだけれど。
 朔は、と椿は青年をじいと見上げたまま心細げに口を動かした。
「どうして、そんなことばかり言うの?」
 ほっといてくれればいいのに、と彼が姿を現す度に、椿は思ってしまう。そうしたら、どんなに楽だろうかと考えていたのは始めからで、けれども、どこか違ってきてしまったのはいつからだったろうか。
 きゅっと握りしめた袖は皺が寄って、離さなければと分かっているのに、握りしめてしまう。掴まっていないと、落ちてしまいそうで、どうしても怖かったから――きゅっと、手に力ばかりが籠る。
 だから、いつも言っているのに、と朔はくつりと笑った。
 私もいつも言っているでしょう、と椿は笑われたことに納得がいかなくて、青年を睨めつけた。
 それでも朔は、「ね」と椿に問いかける。
「これを受け取って欲しいんだけどな」
 そう言った朔の手の中には、けれど、何も握られてはいない。「何」と椿が問えば、「後向いて」と言われる。不審げに見ていると、結局朔は自ら椿の後ろ手へと回った。
 わっ、と椿が声を上げてしまったのは、急に髪を引っ張られたからだ。優しく、優しく、されているのは分かるのだけど、それでも違和感は否めない。「あれ」とか「ううむ」と己の背後で考え込んでいる朔の唸りを聞きながら、一体何なんだ、と椿は空を見上げた。
 春の木と書く花が咲いたというのに、浮かぶ空は寒そうにくすんでいる。ちらり、ちらりと雪の粉が舞い始めてもまだ不思議ではない。
 椿は自分と同じ名を持つ花にそうと触れた。紅の花を覆う艶やかな常緑の葉は、鮮明に輝き過ぎて眩暈がする。
 ついに遠ざかった髪を撫ぜる手に、椿はそろりと瞼を上げた。
 捩じられていた黒髪はいましめを失くしてするりと解け、何事も無かったように流れ落ちる。辺りにはかつんと澄んだ音だけが高く響いた。
 椿が振り向いてみれば、朔はしかめ面で地面と睨み合いをしていた。彼の目線の行く先を辿って、椿も雑草すらない剥き出しの地を見やる。
 冷え冷えとした薄茶の地面の上には、飴色のかんざしが一挿し。
 それで、椿は「ああ」と悟り、しゃがみ込んだ。温もりの色合いを持つ透明の簪に手を伸ばす。土埃を払いやったら、なんだかとてもおかしくなって、椿は朔を見上げた。
「へたくそ」
「うーん、返す言葉もありません」
 差し出された手に、椿は己のが手を添えて立つ。
「存外難しいものだね。もっと簡単かと思ってたよ。椿はあっという間に結いあげちゃうから」
 握りしめた掌から覗く飴色の簪の表面を、椿はもう一方の手で撫でた。つやつやと触り心地がよく、しっとりと肌に馴染む簪からは、見た目と同様、温もりまでもがじんわりと伝わってくる気がした。
 きれい、と椿の口からは自然と感嘆が零れ落ちた。
 深みのある繊細な色は差し込む光さえも柔らかな優しいものへと加減を変えてしまう。手の中で透き通る光に飽くことなど決してないように思われて、椿は簪をじいと眺め見つめた。
 ね、と朔は楽しそうに椿へ話しかける。
「これね、鼈甲べっこうは入ってないけどね、鼈甲なんだよ。高いんだよ。ものすっごく、とっても、とっても高かったんだよ?」
 椿は手元に注いでいた視線をしばたかせ、慌てて朔に簪を押し返した。朔は簪をひょいと椿の手から取り上げ、頭上に掲げると、陽光に照らして飴色の簪を透かし見る。
「あー、傷がついちゃってるね。傷がついちゃったよ。せっかくの鼈甲に傷がついちゃったね。さっき落としちゃったからなぁ」
 ねぇ椿、と朔は非難めいた面白みを投げて、彼女に同意を求めた。
「お、……としたのは、朔でしょう?」
 椿も朔に負けじと非難を向けてみた。なぜなら否があるとすれば、それは明らかに彼の方で、責められるべきは彼なのだ。されど、せっかくの深みのある艶の中に線が引かれてしまったのは、ほんのわずかなものではあるが事実で、半ば尻つぼみとなってしまった非難には説得力が足りないようだった。
 傷があっても椿には美しく見える。それでもやはり、ついてしまった傷が惜しいと感じているせいか俯いてしまう。
「どうしようかなぁ、これ。傷がついちゃったしね、返品することもできないね」
 朔は椿の目に映るように簪を差し出してきた。
「もしかして、脅してるの?」
「脅したら受け入れてくれるなら、いくらでも」
 椿は胡散臭げに朔を見上げる。すると、朔は「ね」とほんのり微笑して、椿の手を取り、そのまま彼女の掌へと簪を落とした。つられて椿も己の手の中を見下ろす。掌には先程と寸分変わらぬ澄んだ飴色があった。

 *

 ね、と椿は簪からようやく目を離して、目の前に立つ青年を見据えた。共に椿の手の中を見ていた朔もまた、少女の呼びかけに簪から顔を上げる。
 いいの、と椿は問う。
「本当に、いいの?」
 存分に確認するように、少女はゆっくりとゆっくりと問うた。
 うん、と朔は頷いた。何度も何度も繰り返してきたにも関わらず、いまだ不安気に揺れつづけているものを留めて止めるように、そおっと、彼は椿の手の中に包み込ませる。
「ありがとう」
 朔は添えた手を離さぬまま言った。
 椿は朔を見つめたまま、どこか驚いたように目を瞠ったから、彼は目を細めて彼女の姿を留め置く。

 ね、と朔は椿に呼びかけた。
 椿は本当に椿のようだと彼は秘かにずっと思っていたから。

 少女の笑みは、まるでその名と同じ花のように
 ――ほとりと静かに、零れて落ちる。