いわずもがなの理


 湿めり気を帯びた風が、重たくたゆたう。
 じわりと汗ばんだ肌に張り付いた襦袢が何とも言えず疎ましい。
 縁側に坐していた椿は、訳もなく足を動かしたくなる衝動をこらえた。
 さりとて、盆を置いてしまった今では、特にすべきことを見いだせない。自然手持無沙汰となってしまった手を、彼女は組んでは離し、握り方をかえながら無為な動作を繰り返した。
 ふと、目の端に橙色が映り込み、椿はそろりとそちらを伺い見た。
 つるりと綺麗に皮の剥けた枇杷。
 今にも果汁が滴りそうな程、瑞々しい橙色の実を、長い指が皿から掴みとる。
 節の目立つ彼の手は、お世辞にも美しいと言えるものではない。けれどもすんなりと腕へとつながる手の甲が――甲に浮き立つ骨が、指が動くたびに、些細に仕草を変えるのを、椿は不思議な心地で見つめていた。
 生ぬるい風が微かに通り抜ける。
 日差しで茶に透けた前髪が、さらさらと揺れ動いた。 
 涼しそうだなぁ、と椿は羨ましく思う。自分の周りは、こんなにも暑くじめじめとしているのに、どうして彼の回りだけあんなにも涼しげなのか。
 暑さを感じさせない横顔。
 遮る垣根のその先を見据えていた彼の鼻先が、つとこちらを振り向いて、椿はそそくさと目を伏せた。
「あんねぇ、椿」
「……」
「せっかく途中でとってきたんだから、見てるだけじゃなくて食べたら?」
 ほら、と朔(ついたち)は、皿に残っていたもうひとつの枇杷を椿に差し出した。
 椿は目の前に出された枇杷を見、ついで朔を胡乱気に見上げる。
「いいよ、朔の分だから。私たちのは、朔がとってきすぎて、まだいっぱいあるから。あとで食べる。いらない」
「こら。僕の枇杷が食べられないっていうの?」
 朔は自分の分の枇杷を口の中にほおり込むと、くいと椿の顎を上げた。「それは聞き捨てなりませんね」ともう一つの枇杷を椿の口に押し込む。
 んむ、と椿は眉根を寄せた。口の中に、甘くて、けれど、少し渋みのある味が広がる。
 朔はさも面白そうな光を双眸にたんと含ませて少女を見、椿の顎と枇杷とから手を離した。
 椿は一口分の枇杷を飲み込んでしまうと、食べかけを自身の手で持ちなおし、彼を睨めつける。
「喉につまったらどうするの」
「助けてあげるから心配なさるな、椿殿」
「そういう問題じゃない!」
 朔はからからと笑いだした。ゆったりと縁側に腰掛けて、笑うその様は何とも楽しそうだ。
 仕方がないので、椿は残りの枇杷も食べてしまうことにする。
「うー、べたべたする」
 枇杷を持っていた手もだが、朔に触られた顎のあたりの感覚がひどく気になった。汁気の甘い香気が立ち上がる。朔の指に枇杷の汁がついていたせいだろう。
「だから、いやだったのに」
 手を見つめながら溜息をついた椿に対し、朔は首を傾げる。
「食べたかったんじゃないの?」
「そんなこと思ってない」
「え。何。一緒になってくれる気になってた?」
「どうしてそうなるの」
「そうならないかなぁーと思ったから」
 ねぇ? と朔はいつものように彼女に問うた。
 椿には、涼しげな彼の表情の奥にある真意をどうしても見出すことはできなかったから――はぁ、と小さく嘆息を零す。
「……朔は時々馬鹿なんじゃないかと思う」
「ちょっと、それ椿、どういう意味……」
「何でもない」
 椿は、ふいと顔をそらして、立ち上がる。「お茶、つぎなおしてくる」とまだ空にもなっていない湯のみを盆に載せて、彼女は朔を一人残し、縁側から離れた。