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「不気味だから歌うのをやめろ」

 もうかれこれ一週間塔の上で歌い続ける女の目の前に立つ。
 鉄の格子越しに見る亡国の王女は日増しに痩せ細り、やつれていくどころか、生き生きとしていた。
 今日も楽しげに微笑み、口を開く彼女は奇怪そのものだ。
「それは聞きかねぬご相談にございます。なぜなら、歌は私の生活の一部ですから」
 それに、と王女は秘め事を明かすようにささめく。
「歌えばあなたが来てくれる。でしたら、私はますます歌うことをやめることはできません。だって私はあなたに会いたくてここまで来たのですから」
「なら、もうここへは来ない。歌っても無駄だ」
 元来た道を戻ろうと踵を返すと、歌うように軽やかな声が石造りの牢の中響いた。
「それでも、私は歌い続けます。あなたがここへ来なくなったとしても、あなたの耳には私の歌が届くのでしょう? そうしたら、あなたは嫌でも私のことを思い出してくれる」
 振り返れば、少しも応えた様子を見せないトゥーアナが相変わらず静かに微笑んでいた。
「あなたは何がしたい。何が望みだ?」
「ただ、あなたの傍にいること」
 毎日繰り返される問答。一音も変わらぬ響きで、彼女はこの日も同じ答えを紡いだ。
 聞く者が聞けば、酔いしれるほどの甘美さを持つはずの魅惑的な言葉だ。
 だが、紅い唇から紡がれる言葉は、いつにもまし、ただ、苛立ちを増幅させるばかりだった。
 はっ、と知らず笑いが溢れた。
「つまりは、こういうことか」
 格子に細い指を絡めて一心にこちらを見つめ続けるトゥーアナに再び近づいていく。
 さすがに意味が掴めなかったらしく、首を傾げた王女の頭へと手を伸ばした。
「――ガーレリデス様、何を!?」
 侍女の悲痛な叫びを無視して、トゥーアナの頭を押さえつける。
 反射的に抗おうとする彼女の体を抱え込むように格子へと引き寄せ、その紅い唇へと口付けた。
 突然、空気の通り道を奪われ、必死に息を吸おうと開いた口の中へと、自身の舌を無理やりねじりこむ。
 奥へ逃れる彼女の舌をからめ捕り、逃げることも、呼吸をすることさえも許さない。
 細い首裏から彼女の頭を掌で押さえ込み、自分の元へと寄せた唇を、固く冷たい格子越しに、何度も角度を変えてむさぼり続けた。
 息を吸い込もうと彼女がもがくたびに、鉄格子に白い頬が打ちあたり鈍い音をあげる。震える身体を無理矢理引き寄せたまま逃さなかった。
 やがて、抵抗することを諦め、流れに任せていたトゥーアナの体から力が抜け、かくりと膝が落ちた。
「トゥーアナ様!」
 体勢を崩したトゥーアナの体をメレディが素早く支える。
 ひゅぅっ、という音と共に、再び息を吸うことを許されたトゥーアナは、胸を押さえて激しく咳きこんだ。そんな彼女を支え切れなかった老侍女は、王女と共に倒れこむように床へと腰をおろした。
 いまだ整わぬ呼吸で、喘ぎ続けている王女を格子越しに見下ろす。
「これであなたは満足か?」
 冷えた鉄の格子の奥で、紫の瞳がこちらを見上げてくる。
 身体を支えていた手を床から離し、トゥーアナはそっと、その細い指を鉄格子に絡めた。膝をつき、格子に沿ったその拍子に、淡い金の長い髪が石床をする。
「いえ」
 そこには不快な色も、哀しみも、ましてや怒りさえ映ってなどいない。
 ただ、いつもと同じ穏やかな表情があるだけだ。
「なぜだ?」
 硬く低い声が広い石造りの部屋の中に、思いがけず朗々と響いた。
「……なぜ、と申されましても、何がでしょう?」
 彼女が首を傾げる。
 まるで本当に検討もつかないとでも言うのように。
 けれど、どこか楽しげに。
 その姿がとてつもなく憎々しい。
「なぜ、俺にこだわる? なぜ、俺を嫌いにならない? このようなことをされても、なお」
 トゥーアナは一瞬きょとんとし、それから目を細めて微笑んだ。
 可憐で、純粋で、木漏れ日に咲く小さな白い花のように。
 彼女は、微笑む。
「なぜなら、あなたは私が嫌がると知っていても、なお、そうしたから。そして、それを後悔しているから。だから、そのような顔をなさっているのでしょう?」
 呆気にとられる俺をよそに彼女は小さく笑声を洩らし、さらに言葉を続けた。
「それに、私は知っているのです。あなたが、とても優しい方だということを。だからこそ、私はあなたを愛してしまった。だからこそ、あなたに会うためだけに、私は今、ここにいるのです」
 まだわかりませんか、とでも言いたげに、彼女は口許をほころばせる。
「勘違いをしてはなりませんよ、ガーレリデス様。あなたは先ほど私に苦痛ではなく、喜びを与えてしまったのです。これでは、ますます、あなたを嫌いにはなれるはずもありません。もし、私に嫌って欲しいのでしたら、あのような生半可なものではなく、最後の最後まで私を痛めつけることです」
「つまり、それこそがあなたの真の望みであると?」
「はい」
 悪びれもなく頷くトゥーアナに嘆息しつつ、再び牢の中の彼女と向き合った。
「いいだろう。あなたの国を貰った礼として、一度だけあなたの望みを叶える。ただし、一度。それ以降は無い。それから、歌をやめろ。それが条件だ」
「はい、お約束いたします」
 彼女が微笑う。
 花のように。
 そこに、企みが隠されているのか、未だ読み取ることはできない。

「牢を開けて、部屋を用意させよう。湯浴みをして存分に支度をするとよい」