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 あの日を忘れられない。
 あなたと出会った日と同じように。
 けれど、それとは対極の記憶。
 忘れたくとも一生忘れることなど許されぬのでしょう。


 赤に塗り固められたあの日。
 次第に冷たくなってゆく血に染まり、深く沈んだあの日のことを。


*****


 扉を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、床に打ち伏し事切れている侍女の姿だった。
 ひっ、と隣で私が連れてきた侍女のミエアラが悲鳴を呑み込む。
 吐き気を催すほどむっとする錆びた鉄のような匂い。肌に張りつく湿り気をおびた空気。
 それだけで、何が起きてしまったのか、理解するには充分だった。
 この一年足らずの間に次々と‟病死”していった兄弟姉妹に義理の母、叔父叔母、従兄弟姉妹たち。他にも、縁遠く顔も曖昧な親類たちが同様に亡くなったのだと聞いていた。
 残されていたのは現王である父。
 実母と実弟、そして私。
 いつかは伸ばされるだろうと思っていた闇の手は、やはり伸ばされ、逃れることなどできなかった。
 そんなこと、頭ではわかりきっていたはずなのに。
 それでも、城より遠く離れた領地にあった縁戚までが不幸にあったと聞いていたから、むしろこの城の中に在る方が、目の届かぬところへ逃れるよりは安全だろう、と。父王の助言に従い、極力目立たぬよう、静かに暮らしていたはずだった。
 なのに。
 この先にあるはずの恐ろしいものを想像してカタカタと身体が勝手に震え出す。
 両手で自分を抱きしめるように抱え込み、震える足をかろうじて動かし、前へ一歩踏み出した。
 無惨な侍女の屍を越え、部屋へと続く角に差し掛かる。
「――っ!」
 思わず足を滑らせそうになり床を見ると、生々しいほど鮮やかな血溜まりへ、足を踏み入れていることに気がついた。
 まるで泉のようだ。沸き上がる震えに身じろぎする度、足元に波紋が広がる。
 赤い色をしたそのあまりの鮮やかさに眩暈がした。
 これ以上はもう見てはならない、と。頭の片隅で警鐘が鳴る。
 だが意志に反して、目は勝手に目の前に横たわる現実を、正確に映し続けた。
 足元からゆっくりと、赤の泉を創り出している根源へ目を滑らせる。
 あったのは、倒れているいくつもの命ある人であったモノたち。
 奥の部屋へ向かうごとに、重なりあう数が増してゆく。
 凄惨な景色の続いたその先で。最後の最後まで、その二人は皆に守られるようにして倒れていた。
 いつもと同じように、挨拶をかわしたのは、まだ、朝食の席だったはずだ。
 今朝まで普段と変わらず笑みを浮かべていた母と幼い弟は、今や一身に血を纏い、ただの肉の塊と化していた。
 何がそんなに憎かったのか。何度も何度も刺し貫かれたらしい彼らの姿は凄惨で、血がこびりついた顔からは、母と弟の最期の表情すら窺えない。ぽかりと開いた紫の、見慣れた母のその双眸だけが、窓から漏れ入る陽光を映して、宙を見上げていた。
 ――なぜ。
 膝が震えた。崩れだしそうな身体を押しとどめるため、壁へと手を伸ばし、呼吸を整える。耳の奥で、どくどくと心音が耳障りに鳴り響く。
 硬く目を閉じ、冷静に受け止めようとするが、そのような意志は、いつまでも鼻にまとわりつく醜悪な匂いによって、それこそ意図も簡単に、ことごとく打ち砕かれた。

 今日は久しぶりに三人で午後に集まって、お茶を飲みましょう、と。
 そうして、他愛もない話をたくさんしましょう、と。
 もう何週間も前から決めていたはずなのに。

 眼下に広がる現実を受け止めることができず、ただ、ぼんやりとそんなことを思う。
 これが何か、それこそ出来の悪い夢のように感じるせいか、涙は出てこない。
 目を覚ませば母と弟が笑いかけてくれるのではないか、と。
 けれど、残酷に切り刻まれた母と弟から目を逸らそうとする自分も、震え続ける自分も確かに存在していて、それが、彼らの死をきちんと認識していることを告げる。

「トゥーアナ様……」

 同じようにカタカタと歯を鳴らしながら後ろに控え、傍について来てくれていた侍女のミエアラが怯える目でこちらを見上げてきた。
 彼女も恐ろしいのだ。歳が同じで気安いからと、こんなところまで連れてきてしまったことを悔いる。
 私は浅く息をついて、努めて冷静な声を出そうとした。
 こんな事態に巻き込んでしまった彼女の前で、主人である私がうろたえるわけにはいかなかない。
「ミエアラ。なすべきことは、わかっていますね?」
 ミエアラは胸の辺りで両手をぎゅっと握りしめ、震えながら何度も頷いた。
「それなら、すぐにこのことを知らせに行きなさい。私は大丈夫です。あなたも気をしっかり持って」
「……は、はいっ」
 力強く首肯し、すぐさま元来た道を駆けて行く彼女の足音を聞きながら、再び母と弟、そして彼らを取り囲む者たちへ目を向ける。
 まだ新しいその屍たちからは、いまだ生温かい血が流れ続け、徐々に赤い泉の範囲が拡大している。
 生きていたのだ。つい、ほんの少し前まで。その事実が、痛切に胸に響いた。
 だが、彼らを見ていることができたのは、ほんのひと時の間だけだった。
 響いていたミエアラの足跡が数歩進んだところで止まり、短い悲鳴と共に途切れた。どさりと、何かが床に落ちた音がする。
 振り返り、戦慄する。
 飛び込んできたのは、乱れて床に広がる栗色の髪を持つ侍女の姿。
 次いで彼女から流れ出した赤色の液体は私の思考を停止させるには充分だった。
「ミエ……ア、ラ?」
 壊れた人形のように、ぐんにゃりと不自然に脚を曲げて倒れている彼女から答えは返ってこない。
 もう、耐えられなかった。
 壁に寄りかかっても支えることのできなくなった身体が崩れ落ちる。水音共に、ぬるりとした生温い感触の中に手がついて、辛うじて身体を保った。
 その、あまりにありありとした感覚に怯える。
 床にできた血だまりに視線を落としたまま動けない私の前へ、鈍色に光る細く鋭い刃の切っ先は、差し出された。
 切っ先、刃、柄、手、腕へと促されるように順に辿り、目の前の剣を握る持ち主を、見つめる。

「リーアン兄様」

 私を見下ろしていたのは王族暗殺の首謀者ではないかと、もう随分前から疑われていた人物。
 だが、確たる証拠が残されない‟暗殺”であったからこそ断定できなかった人物。
 ある者は、剣によって、毒によって、或いはいがみあい、殺しあうよう仕向けられて。
 例え、自身で手を下さずとも、一人残らず、皆、この人物に殺されたのだと、瞬間的に理解する。
 リーアン兄様は、温度のない灰色の双眸で私を見下ろす。
 まばたきすら許されない私の視線のその先で。
 対する私の頭越しに、倒れ伏している母と弟、そして折り重なるように周りに倒れている血に染まった従者たちへと目を向けた彼は、やがて愉悦すら含んだ表情で薄く笑った。