予兆 03


 喧騒から距離を置いた端の天幕までやって来たクニャは、鮮やかな刺繍の施された垂幕を腕で掻きあげた。
 肩で息をしながら、クニャは幕内に残っていた技芸団の下っ端二人を睨む。
「ダン、一番おっきな盥に水汲んで来て! ラーヤは石鹸と櫛! 粗いのから細かいのまでとにかく一揃い全部。ああっと、それからラーヤ。何でもいいからあんたの服一枚ちょうだいな。後であたしの何でも好きなのあげるから。あぁー、もう、しんどかった!」
 クニャはやっとの思いで背負ってきた女を地面に下ろす。妓女が連れてきた女の黒髪と右足の鎖から大方のあらましを飲み込んだ青年はすぐに準備に取りかかった。一方少女の方は聞いた命よりも好奇心の方が勝ったのか、幕内から出て来はしたものの、橙の目を丸くさせてクニャが支えている痩躯の女をまじまじと覗き込む。
「ラーヤ、早く用意」
「う、うん、分かってる。けどクニャ姐さん、この子」
「いいから、さっさと行く!」
 クニャは少女の尻をぴしゃりと叩く。ひゃうと竦み上がった少女は「ひどいわ」と零しながら慌てて駆けて行った。
「姐さん、これ」
 人一人入るには充分な盥を手に、ダンはクニャに問う。
「どう?」
「いいわ、それで」
「水は? 沸かす?」
「沸かしてたらキリないわよ」
 傍にある焚き火は暖をとるものではあるが、頼りない煙が伸びるのみで多量の湯を沸かすには圧倒的に薪が足りない。ダンもそれは重々承知しているのだろう。表情を変えずに彼は事実だけを並べた。
「だけど姐さん。その子あんまり肉が付いていないし、もう日も落ちちゃったし、水に放り込んだら凍え死んじゃうんじゃない?」
「なら、ダンの好きなようにしてやんなさい。気休めでもぬるま湯の方がマシでしょうしね」
「分かった」
「姐さん、姐さーん。ちゃんと持って来たよーぅ?」
「あぁ、もう分かったから早く持ってきな!」
 無邪気な少女にクニャは声を荒立てる。
 多量の水とほんの気休め程度の湯の入った盥。汚れきった襤褸をはぎ取ると、クニャは運んできた女を盥の中に放り入れた。
 頭上から水をかければ、それだけで流れ落ちた塵が水面に浮かぶ。眠ったままの女の髪を目の粗い櫛でときほぐそうと苦心していたラーヤはむぅと口を尖らせた。
「姐さん、とけない」
「とけるまでとくのよ」
 ラーヤは肩を落として、先輩妓女を睨む。手にした布で懸命に女の背をこすり続けるクニャは、少女に気を割く暇はないようだ。ラーヤは不平を零しながら、すっかり暗くなった空を仰いだ。手にした黒髪に焚き火が反射する。濡れそぼった髪はごわついてはいるものの真夜中の色そのもの。
「隠し姫って本当にこんな色だったのね」
 溜息をついて少女は引っかかっていた櫛をまた動かし始めた。黒髪を目にしたのは何もこれが初めてではない。ここに来る道すがら垣間見たこの国の人々は皆そうであったし、今も荒れ野にいるのだろう人々も黒髪だった。
 けれども手にしている黒髪は歌で見ていた分、周りとは違ったもののような気がした。
「だけど、あたしの方がずっと綺麗だわ」
 何も答えないクニャの代わりに、ダンは大きく目を瞬かせた少女の頂を、子どもにするように撫ぜあやす。
 貧相な身体にこけた頬。ラーヤは伸び放題になっている前髪を掻き分けると、洗われて幾分か見られるようになった隠し姫の顔を両手で包み込む。
「クニャ姐さん。前髪はとかずに切ってしまってもいいでしょう? その方が絶対にいいわ」


 身の内で響いた耳鳴りに、シィシアは髪色と同じ黒い睫毛を揺らした。
 徐々に持ちあげられる瞼と色を現し始めた緑眼。彼女の目覚めにいち早く気付いたのは切り揃えた黒髪を細かな櫛で梳っていたラーヤだった。
「姐さん」と、少女は興奮してクニャの袖を引っ張る。少女の服を着せたものの、細り切った身体には余る布をどう調整しようか考えていたクニャは、ラーヤの呼びかけに面を上げた。
「起きたのね、お嬢ちゃん。あんた運ぶの大変だったのよぅ?」
 安堵して覗きこんだ顔に表情はない。それが起き抜けと疲弊から来るものだろうと踏んだクニャは、座らせていた娘が急に立ち上がったことに驚いた。
 お嬢ちゃん、と呼びかけた声は耳を素通りしてしまったのか、娘は気付いた様子もなく歩き始める。先の途切れた鎖が足に引きずられ、敷き詰められた絨毯に跳ねた。間の悪いことに入口の幕布から姿を現したダンは、ふらつく足取りで近づいて来た女に思わず道を開けてしまった。
 まるで夢の如く現実味のない数秒。彼らが忘我から立ち返ったのは、娘の背丈には少し足りない赤服の裾が無言で天幕の外へ姿を消してからだった。
「ちょっ、お嬢ちゃん!」
 クニャは慌てて天幕から飛び出した。天幕が占める人気のない暗闇を一人裸足で練り歩く女の姿は傍目にも異様に映る。原因の分からぬ焦燥にかられて、クニャは随分と先まで行ってしまっている女の背を追いかけた。
「待ちなさいってば。そんな恰好でどこ行く気」
 叫んでみたが、案の定女は素知らぬ顔で進み続ける。追う度に近づいて行く喧騒の波。ようやく距離が縮むと思ったところで、予想通り現れた人混みにクニャは悪態をつきたくなった。
 女は迷いなく宴会の中心へ向かう。ふらとよろけた細身が酔った男にぶつかろうとも彼女の足取りは変わらなかった。前ばかりをぼんやりと見据えて歩き続ける娘の様子にクニャはぞっとしたものを覚える。
 あるがままに黒髪を流して歩く女に気付いた男の一人が細い腕に手を伸ばした。それでも彼女は自分を掴む男に見向きもせず、一方向だけに顔を向け続ける。
「もう、やぁですよぉ。他の女に気を逸らすなんて」
 小麦色の手が男の両目を覆い隠す。背にしなだれかかった妓女の甘やかな声に気をよくした男は、見えなくなった黒髪の女に興味を失くしたらしく手を緩めた。
 彼の相手をしていた妓女は、娘を追っている仲間に気付いていたらしい。男の手の内から抜け出した黒髪の女を見送ってすぐ「いまのうち」と口を動かした妓女にクニャは頷き返した。
 込みあった人の合間を縫いながら、赤服の辿る道を追う。不確かな足取りながらも小柄な女は人混みを意に介した様子がない。対して、全体的に豊満であるクニャの方はごった返した騒ぎの間を潰されそうになりながら何とか通り抜けていた。
 ようやく足を止めた女にほっとしたのもつかの間。目に飛び込んできた光景にクニャは絶望に口を押さえる。
 天幕のない開けた間。
 祝宴の中心に担ぎ出された王の傍で、見かけぬ女に気付いた青年が焦りを帯びて剣を抜く。
 こけた頬にギョッとするほど大きな目。釣り合いのとれていない印象的な緑の双眸は、焦点が定まっていないのか精彩に欠ける。黒々とした長い髪は、傍から見ても痛み切っていた。目の覚めるほど鮮烈な服の赤は、痩せた姿態を隠すのに余計な布地を使い過ぎたらしい。骨の浮く肩からは、服が片方滑り落ちていた。
 剣を構える年若の青年は遠目で見れば堂に入ったものであったが、実際は緊張にこめかみを引きつらせていた。
 見計らうばかりで動けぬ青年には目もくれず、隠し姫は王に向かって笑みを広げる。
「エイディルダブラカーリア・エッキデ・コリアルハナブラ・セイディルア。砂漠をつくった西の王よ」
 人差し指と共に名指しされた王は、女の様相に眉を跳ねあげた。
 静寂と化した広間の片隅で、女は細り切った顔にそぐわぬ大きな緑眼をぎょろつかせながら、干からびた唇を動かす。
「魔獣が世界を覆う時、お前の国は滅びるよ。手にしたものは一つ残らず、瓦礫のもとに還るだろう」
 不吉な未来を予測する言葉。咄嗟に剣を振り上げた青年を王は片腕で止めた。落とした声で「動くな」とカヒルガイに釘を刺す。
 爆ぜた薪が耳につく。
 王が睨むその先で、シィシアの身体は崩れ落ちた。
 悲壮な声を上げて駆け寄ってきた妓女を目の端に入れながら、エイディルダブラカーリアは地に倒れる女を眇め見る。
「呪詛か、それとも魔女か」
 呪いを得意とする部族を彼はいくつか知っていた。ルガーダもそうであるとすれば納得はいく。果たして誰が吹き込んだかなどは考えるだけ無駄であろう。
 残る一つの可能性。王は自分が口にした予測に首を捻る。
「魔女は五人しかいないはず」
 それは誰にとっても明白なこと。この大陸にいるのは、死者をも蘇らせるという時の魔女と彼女の弟子である四人の魔女。他に四人の賢者もいるが、シィシアが女に分類される以上こちらは有り得ない。
 中心という以外は場所が定かでない『森』に住む時の魔女。彼女でなければ正確な居住地が割れている魔女に会うのは割合容易い。魔女と賢者に関しては、人から大きく逸した力故に、ある程度地位を築いた者ならば念の為にも場所を把握しておくのが常である。
 蒼白しきったカヒルガイに反し、意識を失った女を前に口笛でも吹き出しそうなレンダバーニは、王の視線を受けて諸手を挙げた。
「西の魔女には取り付けておくよ。呪詛なら呪詛で解いてもらわないと」
「任せた」
「遅くとも明後日には、こっちに姿を見せるだろ」
「だといいがな」
 すっかり冷めきった空気が漂う中、王と老年の男だけが普段と変わらぬ調子で言葉を交わす。
 エイディルダブラカーリアが、杯を脇に置いて立ち上がると、シィシアに寄り添った妓女がびくりと肩を震わせた。下される刑を恐れてか、歯を耳触りにかち鳴らしながら意識のない娘の身体を抱き締める。
 妓女の様子に気付いた王は「あぁ」とぞんざいに手を振った。
「朝まで預かっておけ。まだ部屋が用意できてない」
「今、片せって言ったら、あいつら間違いなく目を剥くぞ。ただでさえ駆けずり回ってる宴会中は機嫌が悪い」
 肩に手を置いて話を継いだレンダバーニに、王は「違いない」と相打って苦笑する。
 連れだって宴会の場を離れてゆく王とその側近を、クニャは呆然とした面持ちで見送った。