懐郷 06


 擦り合った葉が風に揺れる。草を咀嚼するラッカルの鼻先をぶんと虫が羽音を立てた。
 大地には澄み渡った空が繋がる。空には草いきれに噎せ返る大地が。
 そこには前も後ろもなく、見渡す限り、ただ、だだっ広いだけの青がいつまでも続いていたのだ。



「あ」
 レンダバーニは卓に広げられた地図の一点を指差した。なだらかな山脈の終焉と河が交錯する平野から東にそれた場所。長年に渡り周辺国から領土を削り取られ、今では手狭となっている小国――ルガーダを彼は指先でとんとんと叩き示す。
「ここでいいじゃんか。ほら、ルガーダの東には姫がいるって有名だし、確か中はもうがた崩れだったろ? 歴史は長い分由緒もある。ここと繋がり持っちゃえば、ぎゃーぎゃー言ってる奴らも口出しできなくなるだろ」
 そっか、まだ余ってたんか、とレンダバーニは機嫌よさそうに目を眇める。彼は端に避けてあったペンを手に取るや、早速インク壺に浸した。たっぷりインクを吸ったペン先を地図に押し当てて、レンダバーニはぐるぐると花丸をつける。
「よーし、決定。じゃ、王家潰して、ディルダの妃に貰ってくる感じで。先に潰しとけば、煩い舅も消えるしな」
「ちょっと待て。俺の意見は総無視か」
 エイディルダブラカーリアは、勝手に話を纏め始めた歳の変わらぬ側近に非難を向ける。けろりとした顔を地図から上げ『何か問題あるか?』と問うてくるレンダバーニに、自分の縁談が進められそうな王は眼下の皺を深くする。
「それっていくつだ」
「ざっと見積もって、二十より下かな。多分、カイルよりかは上。十八か十九くらい?」
「あんなぁ。それ、俺からしてみれば、娘的な年齢だろうが」
「場合によっては、孫でもいけると思う」
 悪びれもなく笑うレンダバーニに、王は疲労を滲ませ長い息を吐いた。向かいに座す男は、どうせ他人事としか考えていまい。
 椅子の背に行儀悪く頬杖をついたエイディルダブラカーリアは面倒事を示す花丸へ目をやって半眼になった。
「……なら、カイルに娶らせろよ」
「あれは、まだ駄目だ。無理」
 即座に王の意見を棄却して、側近は王の目先から地図を取り上げた。レンダバーニは、手慣れた仕草で地図を巻く。ご機嫌斜めな王の気を引くように、レンダバーニは棒状になった地図を王の前であざとらしく振ってみせた。
 だが、一向に反応を示さない王に飽きたのだろう。レンダバーニは、投げやりに肩を竦めると、巻いた地図を卓面へ軽く打ちつけた。柔らかな皮紙の地図は卓に弾んで、わずかひしゃげる。
 あまりにも容易く地図に入った皺を見るやレンダバーニは、つまらなそうに曲がった地図を指先で弄った。
「国じゃなくて、お前について来てる奴らばっかなんだよ。今は、まだな。なのに、カイルが継ぐみたいな動きしてみろ? 誰もあいつにつかないだろうよ。それどころか、一気に崩れる。俺たちも。国諸共、な」
 エイディルダブラカーリアは、年甲斐もなく口をひん曲げる。分かり切っていることだ。成人の儀を終えたばかりの青年には荷が勝ちすぎる。
 元は草を求めて、家畜と共に土地を周遊していただけの部族。百程しかいなかった民は、彼らが戦場に足を踏み入れてから三十年で、膨大になりすぎた。もはや把握しきれるはずもない。
 長年、全土で不毛な戦いを続けてきたこの大陸で、西側一帯をほぼ制圧しつつある覇者は肩を落とした。
「まぁ。カイルが一番こういうの嫌うだろうからな」
「分かってるじゃないか」
「あれは、まっすぐすぎる」
 曲がることを知らない青年を思い浮かべて、王は口元を緩める。まるで若木そのものだ。草のようには、流れる風に身を任せきれない。
「いる?」
 レンダバーニに差し出された地図を、王は忌々しげに奪いとった。
 それを受けて、往年の友人は性悪く口端を吊り上げる。エイディルダブラカーリアは毒づきたくなる衝動を抑えた。
 改めて広げた地図。大陸の西域を中心に描かれた地図には、主要な街の合間を縫って、山河が各々の場所に横たわっている。
 その中で、地図の中央部だけが白く塗り潰されていた。今は砂地があるばかりの場所を、エイディルダブラカーリアは、虚ろな目で眺める。
「取ってて損はないと思うけどなぁ、ディルダ。近頃、東のレダギルグが勢いづいてる。盾にするなら、東の国境にあるルガーダは持ってこいでしょう?」
 レンダバーニに促されて、王は殺風景な地図には似合わない花印に目を移す。

 ルガーダは、西のセイディルアの手に落ちた。

 歴史ある国の都を落とした軍勢は、その足で国境に接する東の砦へ向かった。
 砦に幽閉されていたルガーダの前王の愛娘。『隠し姫』と高名な詩人が称えた彼女は、西の覇者によって再び、外の大地を踏むこととなった。
 寛大な王は、彼女の為に剣を取って、隠し姫に自由を与える。
 王国の冠をルガーダの本来の血流へと返す者。
 偉大な王に、姫は感謝の意を込めかしずいた。
 比類なき王は、彼女を妻とし、西の大地に平穏を誓う。
 西の覇者と隠し姫の新たな歌は、古い歌に連なって、王が姫を砦から出して数カ月もたたぬうちに西大陸に広まることとなる。

* *

 これと言って戯れるでもなく薄い女を腹に載せた男は、骨ばった指で彼女の背に散らばる黒髪を掴んでは落とすという動作を所在なく繰り返した。
 されるがままに王に身体を預けていたシィシアは、自分の下から聞こえるひどく緩慢な鼓動に耳を傾ける。胸の上下に合わせて、吐き出される呼吸が深閑とした夜の中に満ちた。横顔にあたる織目の荒い衣服の匂いは、擦り切れた毛布に似ている。
 シィシアは指を伸ばして、男の首に縋りついた。
 つ、と。一瞬立ち止まった手は何事もなかったように再び背で動き始める。
 筋と血脈の浮く太い首。老いを感じさせない骨の頑丈さは、シィシアの頼りない手で折ることは不可能であろう。けれども、気道を圧するのはとても容易いことのように思えて、彼女は王の首に顔を埋めた。
 表面上は女に命を晒している男は、彼女の動きに気に留めた様子もなく、ぱさつく黒髪を気まぐれに指先で弄び続ける。
 薄く瞼を開いたシィシアは身じろぐと、虚空を見つめ続ける男の顎を見上げた。
「寝ないの?」
「あぁ、寝てなかったのか」
「眠りに落ちそうになるたび、髪を引っ張られるんだ。いくらなんでも寝られるわけがないだろう?」
「違いない」
 男の笑い声は、夜のしじまを密やかに満たす。だが、同じた言葉の割に、彼が髪をいじくるのをやめる気配はなかった。
「シィの髪は粗いな」
「これでも、クニャが何度も櫛で梳いてくれてる」
 シィシアは、事あるごとに自分の世話を焼き続ける妓女の名をあげる。事実、彼女の髪の合間を王の指が難なく通り抜けるのは、クニャたちのおかげだ。
 今いる砦の最上階。そこにある一室に閉じ込められていたシィシアはひどい有様だった。長い黒髪に皮脂がこびりついて絡まり、櫛など通る状態でなかった。肌も同じ。この間までこびりついていたはずの垢は、今では嘘のように削ぎ落されていた。
 シィシアはそのことに奇妙さを覚えはするものの、あまりありがたみは感じていなかった。
 要するに、状況が変わっただけ。たった、それだけに尽きる。
 王は手にした女の髪の束を顔に寄せると、深く吸った息を吐いた。
「ラッカルと同じ匂いがする」
「何それ。食べられるの?」
「食糧にも衣服にもなる有益な家畜だ」
「あぁ、素敵だね」
 女は緑眼を煌めかせて王の首に絡ませていた腕を解くと、代わりに男の腹の上で頬杖をついた。
「動物は好きだよ。生きてるものはなんだってあったかいから」
 息づく王の首を眺めて、シィシアは笑んだ。
「エイディルダブラカーリア?」
 首を傾げる女に、老いた王は意外そうに目を細める。
「ねぇ。腹の上に乗せて髪を撫でるだけなんて、あんたは一体何をしにここへ来たの?」
「なんだ。遊んで欲しかったのか?」
「誰もそんなこと言ってない。だけど、あんたは私に流れる血が欲しいんだろう?」
「そうだな」
「それとも王ってのは垢まみれの女が好みなの? 泥でもつけておいた方がよかった?」
 砦に現れたその日、目の前の王に容赦なく犯された事実をシィシアは抑揚のない声で指摘する。むしろ軽口を語るように微笑すら浮かべている娘に、男は腹を抱えて笑いたくなった。
「まさか。あの時は鼻が曲がるかと思った」
「だろうね。で?」
「血は欲しい。だが、今、孕んでも、どうせ子は流れるだろうからな。シィの身体は薄すぎる」
 王は、シィシアの背を叩く。「なら、なぜ?」と、頬杖をついたまま女は問いを重ねた。
「わたしの身体は今もあの時も大差なかったはず。わたしを手元に置くのならいつでも構わなかっただろう」
 何もあの時でなくてよかったはずだ、と女は言う。裏を返せば、それは今、何もしない理由になりはしない、と。
 もし、あの日、子が宿っていれば。そして、子が流れれば。シィシアは子の産めない身体になる危険だってある。それは、彼の望む利益とは、大きく外れたところにあるはずだった。今あえて、その可能性を懸念材料として引き出すのであれば、あの時この男が、そのことに思い当たりすらしなかったとは考えられない。
「シィ」
 身を起こした王は、シィシアの顎を絡め取った。上向きにされた彼女は、向かいにある温度のない灰青の双眸を見上げる。
 腕の内から逃げだそうとすらしない従順な娘。皺を深めた老王は、「お前は死ぬだろう思った」と彼女の耳元に答えを明かした。
「徐々に犯されていつか死を思い悩むようなら、いっそ初めに圧倒的な力で踏み躙られて絶望しておいた方が手っ取り早く死を選べるだろう。その方がこっちも有効的に時間を使える。まぁ、結果としてお前は死ななかったが。他を選ばなくてよかった分、こちらとしても助かった」
「そう。じゃあ、今日来たのは、単に人恋しかっただけか」
 真面目な顔をして結論付けた女に、エイディルダブラカーリアは虚を突かれる。くつり、と喉奥から笑いを漏らした彼は、シィシアの肩口に額を押し当てて身体を震わせる。
「敏いと思えば、どうしてそうなる。眠ったら、また話すかと思っただけだ」
「何を」
「終わらせ方の続きを」
 不可解さを宿した気配をねじ伏せて、王はシィシアを組み敷く。
 反転した視界に意を唱えるでもなく、女は男に手を伸ばした。対する相手の頬を挟み込む。
「いいことを教えてあげようか、エルディ。わたしは、まだ死なないんだよ」
 確かな予言を西の王に与えて、シィシアは微かに歪んだ王の顔を指の腹でなぞった。