夢を見る。
 どこまでも続くこの砂漠には果てがあるのだろうかと。
 容赦なく照りつける熱気は、水分を奪い、なにものをも枯らし、
 容赦なくまとわりつく冷気は、すべての命の育みを凍らせる。
 昼と夜の繰り返し。
 あるいは夜と昼の繰り返し。
 朝が来るのは夜が終わるからなのだろうか。
 夜が来るのは朝が終わるからなのだろうか。
 答えは誰が持っているのだろう。
 ここには、何もなくて。ただ果ての見えない砂の海が広がるばかり。
 この場所には何も見えないのに、ただひたすら、わたしたちは、記された道筋を歩く。

***


「私とあなたどちらがより不幸かしらね?」

 書物を読んでいたエウリアは姉姫の言葉に、ふと顔を上げた。
 彼女が口にした言葉の意味を図ろうと、エウリアは姉の青い双眸を注視する。
 そんなエウリアの目の前で、彼女は、仄暗い自嘲を形のよい唇に閃かせた。
「いえ、この質問はおかしいわね。“トゥッシトリア(三番目の姫)とフィストリア(五番目の姫)どちらの方がより不幸かしら?”と問いたかったの」
 言いつつも、アジカの視線は妹であるエウリアではなく、窓の外へと注がれる。蒼穹をゆく鳥の群れを眺めやって、アジカは目を細めた。
 日の光に照らしだされたアジカの横顔には、彼女が瞬きをするたびに、長いまつ毛が翳を落とす。よく造形の整った顔は、ダランズールの至宝と呼ばれて名高い。
 エウリアは作り物めいた姉の横顔を押し黙ったまま眺めた。
 同じ父をもちながらも、母が違う彼らは、似ても似つかない。まず、目の色からして違っていた。姉であるアジカが鮮やかな海の青をもつのに対し、エウリアが持つのは、曇りの夜に似た淀みのある群青だ。
 エウリアは口を開かなかった。否、開けなかった。
 異なった双眸をもった彼らは、やはり異なったものを見てきた。
 トゥッシトリア(三番目の姫)であるアジカはトゥッシトリアに示された道を。
 フィストリア(五番目の姫)であるエウリアはフィストリアに示された道を。
 それぞれの道は、各々通ってきた者にしかわからない。
 ただ、同じなのは、彼らには用意された道を通るしかないということ。
 エウリアは姉の辛苦を知らない。アジカの場合もまたしかりだろう。
 彼らは彼ら自身であることを許されない。許されるのは、役目がようやく終わるときだけ。
 その点だけが、彼らの中で唯一共通することだった。
「私は、フィストリア(五番目の姫)であるあなたがうらやましいわ」
 アジカがぽつりと漏らした。
『私はトゥッシトリア(三番目の姫)である姉様がうらやましい』
 胸の内で呟いてしまった言葉の代わりに、エウリアが実際に口にしたのは別の言葉だった。
「アジカ姉様はもしや、嫁ぐのがお嫌なのですか?」
 アジカは数日のうちに隣国ノロンへと嫁ぐことになっている。砂漠の南に位置するノロンと関係を結ぶことによってもたらされる有益は大きい。今回の婚儀において、特に重きを置かれたのは、今までは曖昧であった為、衝突が絶えなかった砂漠という国境(くにざかい)に、彼の国との国境をはっきりと設けることだ。これで、争いごとがまた一つ減る。
 あなたの役目はそれで終わるのに。
 役目を与えられたトリア(姫)たちの中で、嫁いでもその役目の終焉にたどりつけないのはフィストリア(五番目の姫)だけだ。
 自分よりもいち早く役目を終えられるというのに、なぜそのようなことを口にするのか。エウリアは無感情に姉を眺めた。
「嫁ぎたい、嫁ぎたくないではないの。私は、あなたのように自由になりたいの」
「お言葉ですが、アジカ姉様、私のどこが自由だというのでしょう」
 ふつりと湧きあがった感情をいなすことができず、エウリアは声を出していた。アジカは、妹であるエウリアに向き直り、挑戦的な青い目を向けた。普段、楚々とふるまう彼女が見せる本来の姿を知っているのは、同胞である彼らだけである。だから、エウリアは別段驚きはしなかった。
「エウリア、あなたは、自由に皇宮をでられるじゃない」
「自由に皇宮を出られる? ならば、姉様は自由に皇宮に帰ることができるではないですか」
 フィストリア(五番目の姫)の役目は、自国だけでなく、時には他国まで足を伸ばし、内密に状況を調査すること。故に、この役目を負う彼女は年中旅を続けなければならない。エウリアが皇宮に戻れるのは、年に十数回足らず。外に出ている方がはるかに長い。どんなに疲労を抱えている時でも、本来の家であるはずの皇宮に戻ることはできない。
 与えられた任務通り、街から街を渡り歩くだけ。次へ行く場所も指定されて、これのどこが自由だと言えるのか。
「私は、外を自由に歩いてみたいと思っていたの」
「私は、心休まる場所がほしいとずっと思ってきました」
「皇宮(ここ)のどこが心休まるというの?」
「姉様は根なし草の暮らしを知らないから、そのようなことが言えるのです。私は、早々に嫁いで、役目から解放される姉様がうらやましい」
「何を言っているの? あなたは、私と違って相手を選ぶことだってできるじゃない。身分の境もない」
「そのようなこと、果たして意味があるのでしょうか? どうせ選べたとしても、傍にはほとんどいられないのです。嫁いだとしても、私の旅はまだ終わらないのですから。それならば、心があるなしは関係ないのでは? いっそない方が楽です」
 大体、とエウリアはアジカを睨んだ。
「アジカ姉様は、誰かを愛して結ばれたいなどと思ってはいないのでしょう。ただ、あなたはこの道に逆らいたいだけ」
 アジカは静かに微笑む。肯定か否定かエウリアには判断がつかない。
 ただ、自分はそう思ってきた。この決められた道を前にして。終わりまで見えているなんて、何の面白みがあるというのだ。
 終わりを求め続けながらも、終わりが来ることを恐れ、歩き続けることに疲れている。
「それでも、あなたはフィストリア(五番目の姫)の役目に誇りを持っているのでしょう? 私は、トゥッシトリア(三番目の姫)の誇りなど捨ててしまいたいといつも思うわ」
「誇りなど……持っていなければ、歩みを止めてしまいそうになるから持つのです」
 それだけです、エウリアは姉と相対した。
 アジカの背後にはすんだ空が広がる。あの空の下を、本当の意味で旅してゆくことができたのなら、
 そう思ったところで、エウリアは力なくかぶりをふった。重苦しい気分を吐きだす。
「やめましょう、姉様。どうせ私たちにはわからないのです。どちらが不幸かなど」
 考えるだけ無駄なこと。
 うらやましいと。代わりたいと、こい願っても、所詮彼女たちには叶わぬことなのだ。
 そうね、とアジカはどこかさみしげにごちた。
 どうしようもないことを聞いたわ、と彼女は部屋の出口へと向かう。
 まるで頭を垂れるようにうつむいたエウリアの前をアジカは行き過ぎた。
 狭い視界にうつった影に、エウリアは思わず顔を上げていた。姉の背中に向かって彼女は呼びかける。
「アジカ姉様!」
 アジカは立ち止まる。顔だけを、妹の方へと向けた。
「この度の御婚姻、心から祝福申し上げます」
 それは、トゥッシトリア(三番目の姫)の役目の一応の終わりを示す祝辞。
 アジカとエウリアは瞬時視線を交差させ、同じ時を共有する。
「ありがとう」
 アジカはふと青い目を和ませた。
 後はもうどちらも言葉を発することはなかった。

 姉が出て行ってしまった後、エウリアは唇を噛んだ。
 濁った群青の双眸を空に泳がせる。薄くたなびく雲。透明な空は、ただ広いだけで空虚なものだ。
「どちらが不幸かなど……」
 私たちは、誰も不幸に決まっているのではないのか。
 エウリアはことり、と頭を格子に預けて、目を閉じた。


 彼女の姉が役目から解放されたとエウリアが知るのは、それから数か月の後のことだった。