今年が今年である時間



「もーいーくつねーるとーおーしょーおーがぁつー」

 それは今年が今年であるのを終える十五分前。除夜の鐘が、ごーん、ごーんと、厳粛な音を響き渡らせ始める時間帯。
 有馬は除去されていく百八の煩悩に想いを馳せるでもなく、ただどこから突っ込めばいいのかな、と真剣に考えていた。
 それは簡単に言うとするならば、『どうしてこのご時世にもかかわらず自分の住んでいるアパートにはインターホンの一つすらついていなかったのだろう』から始まり、『もういくつも寝なくても、あと十五分もすれば正月なんだけど』に続く。
 けれど結局、有馬が尋ねてしまったのは「除夜の鐘に載せてお正月の歌って微妙じゃない? 魔女子さん」だった。
 有馬の家の玄関の前、つまり、アパートの廊下で熱唱していた奏多は、ぴたりと歌を止めると、「うぅ」と呻いた。
「そんなこと分かってるんですよ! でも、あとちょっと! あとちょっとでいいですから我慢して下さい!」
 奏多は早口にそう言い終えると、有馬が了承するよりも先に歌を再開させる。
 有馬は『どうして扉を開けてしまったのだろう』と思いながらも、今更閉めるのはさすがに奏多が不憫に思えたので、仕方なしに除夜の鐘と奏多の歌の二重奏に耳を傾けるはめになったのだ。

「……で、どうでしたか!?」
 全てを間違えることなくなんとか歌いきった奏多は、ずずいと有馬に詰め寄った。
「どうでしたって、何が」
「歌ですよ! 歌! 歌ってたでしょう?」
「歌ってたけど、何で歌ってたの」
「罰ゲームです!」
 胸を張って自慢にならないことを自慢げに言い放った奏多に対して、有馬は予想通りの答えに「またか」と零した。
「罰ゲームは、ほどほどにねって前に言わなかったっけ?」
「言いました! 依月ちゃんとのりちゃんにもちゃんと言いましたよ。ただ、聞き入れてもらえなかっただけです!」
「だから、それ自慢にならないから、魔女子さん。で、何の罰ゲームなの」
「大富豪十回連続勝負です」
「大富豪……十回、連続?」
 奏多は「そうです」と大きく頷いた。そのはずみで肩下まで伸びた黒髪が揺れるくらいには大きく頷く。
「私の名誉の為に言わせてもらいますが、今日もこの間の時も初めは私が大富豪だったんですよ。ただ、終わりがけになってきたら、だんだん落ちてきて、最後はなぜか大貧民になってただけです」
「つまり、魔女子さんは大富豪を十回連続でやったところ、最後の最後に大貧民になったから負けになったんだね」
「そういうことになりますね」
「うん、じゃあ、そういうことになったのはいいんだけどさ、魔女子さん達の罰ゲームに、どうして僕が巻き込まれるのかな」
「……怒ってます?」
「怒ってはないけど、巻き込まれるこっちのことも考えて欲しいとは思うね」
 大晦日だからこそ大抵の人は起きている。だが、普通だったら夜中に分類されるこの時間帯に他人を訪問するなど、ましてや、扉を開いた瞬間歌い出すなど常識として間違っている。
「近所迷惑でしょ」
「そうなんですけどねー」
 奏多は決まりが悪いのか、すすすーと目を有馬からそらした。
「それで、理由は何だって?」
「う、はい。のりちゃんの家の両隣、つまり、安田さんか藤堂さん、どちらにすると聞かれまして、なら藤堂さんと答えてしまいました。見ず知らずの方よりも、まだ見知ってる有馬さんの方が罰ゲームはやりやすいと思いまして……す、すみません!」
 奏多はぺこりと頭を下げた。目をそらしていたせいか、有馬が立っている方向とは少しずれて、コンクリートの壁に向かってだったが。
「そう、それなら魔女子さんが安田さんの家の方に行かなくてよかったと思うことにするよ。安田さんの所はすごく親切で、優しい老夫婦が住んでるからね。びっくりしても怒らないどころか、お年玉さえくれたかも。すんごく、とっても、いい人たちだからね」
「うぐっ……もうしません、すみません、ごめんなさい、今度こそ依月ちゃんとのりちゃんを止めてみせますから」
「もう今度、来たら開けてあげないからね」
「う、はい、しっかりと心に留めておきます」
 奏多はちらりと、顔を上げると有馬の様子を窺った。恐る恐ると口を開く。
「それで、ですね……有馬さん。先程の歌の感想をお聞かせ願いますでしょうか?」
「懲りてないね、魔女子さん」
 有馬が冷ややかな目を向けると、奏多は慌てて両手を突き出しぶんぶんと振って弁解を始めた。
「いや! 違うんです! 違うんですよ、有馬さん。しっかり懲りてます。だけど、ここまでが罰ゲームなんです! 感想を聞いてこないと怒られるんです! また、有馬さんの家に行って来いとか絶対言われます!! 助けてくださいよ。何でもいいです! 何でもいいですから、感想を!」
 あまりにも必死な懇願ぶりに、有馬は、ふむとさっきの歌を思い返すことにした。ここまでやったのに罰ゲームを成し遂げぬまま奏多を帰すのは、少しばかりかわいそうな気もしたのだ。何よりも、再び押しかけられる方が迷惑である。
「そうだね、よく歌えたね。すごいと思うよ」
 端的すぎる有馬の感想を聞いた奏多は「それだけですか?」と首を傾げる。
「さっき何でもいいって言ったのは魔女子さんでしょ」
「確かに言いましたけど……大体、何がすごかったんですか? 嬉しいのは嬉しいんですけど褒められた理由がいまいち分かりません」
「だって、替え歌じゃないの初めて聞いたから。そんな歌詞だったんだなあと思って」
「知らなかったんですか!? 有馬さん、それ日本人じゃない!」
「よいお年を!」
「わっと、待って、すみません、ごめんなさい!!」
 奏多は閉じかかった扉をはしっと両手で掴み、何とか留めた。
 なんだか見たことのある光景だな、と思いながら、有馬は取っ手を持つ手の力を緩めた。途端、力の均衡を崩した扉は当然ながら外側へとすごい勢いで開いてしまったのだ。
 うぎゃあ! という声が響き渡り、扉と共に後ろによろめいた奏多は、勢いをそぐことも出来ずに尻もちをついた。
「うわっ、大丈夫? 魔女子さん」
「大丈夫なわけないじゃないですか! 痛いですよ。何で急に手、離すんですか!」
「いや、離してはなかったんだけど、緩めたら魔女子さんの力が強すぎて勝手に外れた」
「もうちょっとくらい踏ん張ってくださいよ」
 泣いてはいないが、立ち上がった奏多の眦(まなじり)にはうっすらと涙が滲む。どう見てもかなり痛かったのだろうということは、さすがの有馬でも予想がついた。
「えっと、ごめん、確かに今のは、僕が悪かった、です」
 奏多は、ふむと頷く。けれども、彼女の顔が仏頂面であった為、有馬は困惑気味に「うーん」と唸ると部屋の中へと引き返すことにしたのである。

 扉は開いたままであるものの、玄関の外に取り残された奏多の方は有馬の予想外で唐突すぎる行動に唖然として立ちつくした。
 しかし、ハッと我を取り戻した奏多は微妙に垣間見える室内に向かって、すぐさま呼びかることにした。
「ちょっと、有馬さん! どうすればいいんですか? 別に私もう怒ってませんから、気にしないでください。そうだ! ほら、さっきのと罰ゲームでかけちゃった迷惑で今回は、おあいこってことにしましょうよ。ね、それでいいでしょう?」
 だが、いくら呼びかけても有馬からの答えは返ってこなかった。
 ただ、つけっぱなしになっているらしいテレビから、ごーん、ごーんと、除夜の鐘の音が聞こえてくるのみだ。
 ようやく、突き当りの廊下の陰からひょっこりと有馬が姿を現したのは、奏多が、帰るべきかな、と扉を閉めようとした時だった。
「はい、魔女子さん。これ、お詫びね」
 手渡されたものの大きさに、奏多は再び軽くよろめくこととなった。両腕いっぱいに抱えなければ持てない程の大きな袋。その中にはぎっしりと多様な種類のお菓子が詰められている。
「えぇ!? これ、ど、どうしたんですか?」
 お菓子の詰め合わせと甘いものが苦手な有馬。どう考えても一番似合わない組み合わせである。奏多は巨大なお菓子の袋で隠れて見えない有馬に問いかけた。
「なんか商店街の福引で当たっちゃったんだよね。けど、そんなに食べようとは思わないし、帰省した時に持って帰って、従兄弟にあげようと思ってたから片付けてた」
「え、それなら、駄目ですよ。貰えません!」
「いいよ。持って帰るのも大変だと思ってたから。むしろ貰ってくれると助かる。お土産はまた買えばいいし」
 お詫びなんだから、と有馬は付け加える。
「魔女子さんは、お菓子が好きでしょう?」
「はい、大好きです! 実は、ちょっぴり、すんごく喜んでます」
 ならそれ、ちょっぴりじゃないじゃん、と有馬は苦笑する。
「ありがとうございます」
「いえ、どういたしまして。さっきは本当に悪かったね」
 奏多は首を左右に振った。大きすぎる菓子の詰め合わせに阻まれて、有馬には全く見えはしなかったが。
「有馬さん、有馬さん」
 奏多は、うきうきと有馬に呼び掛ける。
「ん? 何?」
「これから、みんなで初詣に行くんですけど、有馬さんも一緒に行きませんか?」
「え、嫌」
 それは、まさしく即答であった。
 奏多は、む、と眉を寄せる。だが、やはり、これも有馬には全く見えはしなかった。
「今の流れは、断るべきところじゃないですよ」
「どんな流れなの。だって人混みも寒いのも嫌い」
「いか焼きがあるじゃないですかぁ!」
「なに、そのちっとも初詣らしくない発想」
「いいじゃないですか! おいしいじゃないですか、いか焼き」
「まあ、おいしいけどさ」
「なら、行きましょうよ」
「嫌」
 再度の勧誘は、これまたすげなく返された。
 むむむと顔を顰めた奏多は、けれど、聞こえてくるテレビの音が変わったことに気付いてお菓子の詰まった袋を地面に置いた。
「明けましておめでとうございます、有馬さん」
「はい、おめでとうございます、魔女子さん」
 奏多の新年の挨拶を受け、有馬もまたお辞儀を返す。
 今年は去年へと変わってしまった。
 けれど、来年が今年へと新たに変わったのだ。
「今年もよろしくお願いしますね」
「うん、いいけどさ。押しかけてくるのは、ほどほどにして」
「う、はい、分かってます」
 奏多が下に置いた菓子袋へと視線を落とすと、上からは小さく笑い声が聞こえてきた。
「うん、魔女子さん。よろしくね、今年も」
 奏多は顔を上げて、「はい」と朗らかに微笑んだ。
 よいしょと抱え上げた大きな袋。「それじゃあ」と奏多が踵を返すと、後ろから「楽しんでおいでね」と声がかかった。
 首だけ動かして振り返ると、有馬が片手を上げていたから、奏多は「お土産期待しといてください!」と返したのだ。

 新たな年は再び回り始めた。