例えば、彼女の世界はもとよりたったひとつと言うわけではなかった。
 例えば、それはヒカリでありヤミであり、ハレでありクライのであると、少女は彼女がぽつりと発する言葉の数々から知っていたのだ。
 ぼんやりと形を成さない不確かな認識。けれども、少女の世界には、はっきりとそれらが何であるのかが映っていた。
 長らく雨が降り続いていたある朝。
 キィと、ひかれた木戸の音に彼女は夢より引き出された。
 一体どのような夢を見ていたのか、切れ端だけが残るおぼろげな意識の中、頬に当たる荒い布目の一織一織の感触がだんだんと強くなっていく。
 それでも起きるにはまだ眠すぎて、少女は目をつむったまま近くの布を引き寄せた。

「……ああ、やっとハレたわ」

 ほっと、胸をなでおろすように零れた言葉。
 声にひかれて、少女はほんの少し掛布から顔を出した。
 キィ、キィィと戸がさらに開かれる。 
 寝そべっている彼女の額にじわりと朝日が差しこんだ。
 からりと澄んだ雨上がりの風が、湿りよどんだ家の空気の重さをまたたく間に塗り変えていく。
 少女は、ゆったりと瞼を押し上げた。瞳のすみずみまでがヒカリに満ちる。
『ああ、ハレたのだ』と彼女は思った。
 母が動く気配がする。
 彼女は、すぐにそちらへと意識を向けると、身体にかかる掛布をどかして、低い寝台を降りた。
 母の言葉を耳にできるのは、多くとも一日に十。
 少女は、母の言葉が好きだった。
 彼女は、家の中にとどまっていなければならない雨の日よりも、ハレの日を好む。
 だから、『ハレたわ』と呟いた母の声に、紛れもなく明るい調子が聴こえて、今日は朝から、少女の気持ちは一段と嬉しくなった。
 ハレでヒカリは、彼女にとって、とっておきの良い日であった。

***

「なんだ、そんなところにいたのか」

 ほっと吐かれた息が、風の音と交差する。
 次いで、ざりざりと足の裏が、土の上の砂粒を踏んだ。
 映る世界にふっとヤミが落ちる。
 クライ夜でもないのに、あっという間にヤミになる。
 ぽかぽかと暖かいヒカリだらけの世界は一転する。
 それは、これまでほとんど起こったことのないことだった。少なくとも、少女がじっと座り込んでいる時には一度も起こったことなどない。
 けれども、今ではすっかり馴染みとなっていることだった。
「こんなところで寝ていると風邪をひくぞ」
「寝ていなかったよ」
 まだ、という言葉を飲み込んで紅は両手を頭上にあげる。
 するとやはり掌が毛だらけの頬にぺしぺしと当たって、紅はきゃらきゃらと声を立てた。
「実己」
「ん? なんだ?」
 不思議そうな声がする。わずかに身を引いたのだろう、手が何にも届かなくなってしまった。
「魚、獲れた?」
「鳥が獲れた」
「魚、いなかった?」
「鳥はいたな」
「魚、逃げられた?」
「さぁ、紅はどうだと思うか?」
 紅はじっと押し黙る。同時に、ひょいと浮いた身体が、大きな肩の上に乗っかった。
 ぱっとヤミがはじけて世界を覆い尽くしたヒカリ。
 紅はすぐ手元にある頭に手をついて、ぐらぐらと揺れ出した空気の中を、落ちないようにしがみつく。
「鳥が魚を食べていたから捕まえた?」
 こてんと、紅は実己の頭に顎を載せて問いかける。答えはなかったが、かすかに実己が笑った気配が手の内に伝わった。
 きらきらとヒカリが近い。下を向くと、ふわりとヤミに包まれる。
 紅はくすくすと笑った。
「どちらも好きだなぁ」と、少女は呟く。
 頭上から聞こえた声に、実己は夕飯の話だろうか、と見当はずれにも一人首を捻った。