五、移ろいを幾返りも繰る【1】


 その日、村に初霜が降りた。
 気休めにはなろう曇天越しの薄い日差しが、道端の雑草に立った霜をようやく溶かし終えたのは、まもなく昼になろうかという頃合いだった。
 まだ艶やかに表面を濡らしている雑草を足早に踏み荒らし、若者は腕を摩りながら寒風に向かって進んでゆく。
 渓大けいたいだった。人好きのする優しげな風貌と相まって、快活でよく回る口から出てくる語りは周りに集う人の心を一瞬で引き込む。見目同様、渓大は大層人当たりがよかったから、若者たちの間では特に慕われている。実際、旧来の友である十重とおじゅうから「お人好し」と散々揶揄され続けてきた加地かじの目から見ても、渓大の方がよほど世話好きであったし、頼りにされれば断れない性質であった。ただ、加地のような年長者から見れば、一度思い込めばひとところから梃子でも動こうとしない妙な頑固さが玉に傷でもある。
 その渓大が、何やら深刻な顔をして、こちらからはす向かいに立つ家の戸を叩いている。まもなく奥から顔を出したその家の主を加地は昔からよく知っていた。訪問者を見るや、家主は剣呑に眉を潜めた。硬い顔を突き合わせて、二言三言交わし合った二人は、戸を閉め揃って外に出る。
 加地は竈の灰を掻き分け、火ばさみで取りだした丸石を水を張った小甕の中に落とし込んだ。じゅっと、瞬時に沸騰した水からもうもうと湯気が立ちあがる。
 足早に通りを行く二人の姿が、立ちこめる白湯気に押されて薄らいでいく。
 加地は短く刈り込んだ白髪頭をざらりと撫でつけ、息をついた。
「いやぁー。悪かったね、加地さん。急に呼びだしちゃって。なにせ、ここ数日でぐんと寒くなったろう? 冷え込んだ途端、急に痛みだしてね。毎度毎度のことだけど、もう、いやになっちまうよ」
 年老いた婆は、何が可笑しいのやら、今しがた痛むと言ったばかりの膝を自ら叩き笑っている。
 加地は無言のまま、沸き立つ湯に布をさらして、小上がりに腰かけた。あらかじめ婆の患部に塗っておいた薬の上から、温布をゆったりと巻いていく。
 ほぅ、と婆は目を細めた。温布からはほかほかと蒸気が立ち上る。
「なんにしても、まずはよく温めてあげることだよ」
「そだねぇ。おかげで随分と楽になった気がするよ。今度また傷んだら、自分でもやってみようかね」
 のんびりと、まるで湯にでもつからせてもらったかのように言う婆に、加地は頷いてみせる。それでも、ひどく足の悪いこの婆が、独りで湯を沸かすことはそう容易ではないのを医者である加地はよく知っていた。
 冷めてきた布を、再び熱い湯にさらし膝に巻いてやってから、加地は「よっこら」と掛け声をかけて重い腰を動かした。
 ありがとよ、と婆は皺まみれの顔で笑んで、ふと、思い起こすように溜息をつく。
「うちに嫁がおったらねぇ。あんたにわざわざ来てもらわんでも、いろいろ気も使ってくれたろうに」
「うぅむ。そだなぁ」
「……あんこはよい娘じゃったよ。よい嫁になるはずじゃった」
 そだなぁ、と加地は答えようもない婆の昔語りに相槌を打つ。今夏の暮れに、かつて嫁に入った娘が死んだと聞き及んでから、思うところがあるのか、この婆は繰り返し同じことを口にしていた。夫とは二年前に死に別れ、支えとなるはずだった一人息子は八年前に遁逃して以来、村には戻って来ない。生きているかも定かではなかった。
「あんこは戻って来んのかねぇ。そうしたら、加地さんにこんなに世話をかけることもないのにねぇ」
 薄くなった虚ろな眼を通りに向けて、婆は細く吐息する。遠くで鳥が甲高く鳴いた。
「あんこはどうしてる?」
 婆は問うた。真っ直ぐに。けれども、背けられている横顔に、加地は苦い思いを抱きながら、ゆるく首を振る。
「知らんよ」
「そうか」
「あぁ。そうだ」
 さて、そろそろ行かねば、と加地は戸口に立つ。なにしろ己は大変人の好い医者で婆のような一人寂しく暮らしている者たちの家々をいちいち訪ねて回らねばならないのだ、と白髪頭を撫でつけながら肩を落とし言い訳すると、婆は元の明朗さを取り戻し、加地をしっしと手で払いやった。
「さっさと行きな」
「あぁ。そうするさね」
 きちんと温めてやるんだよ、と加地が口煩く言うと、婆は鷹揚に頷く。
「おっと、ちょいと待ちな、加地さん。裏にもらったヒィマメがあるから」
 持っていきな、と婆は皆まで言わず、顎をしゃくる。
「なら、ありがたく」
 加地は家の内を振り返ると、白髪頭に手を添えて、会釈した。


 雲間から覗く空が、いつの間にか高くなっていた。鼻頭にあたる風が妙に冷たい。
 加地は村の裏手から伸びるなだらかな丘道をゆっくりと登った。つい先頃まで、鮮やかに色づいていたはずの裏山は、ところどころ抜け落ちて、寒々しい山肌を覗かせつつある。こんなにも冬は近くなった。
 あがってきた息を整えるため、加地はついの間、立ち止まる。重たげな雲の下をツムドリが群れをなして飛んでいた。冬場、山向こうの湿原に餌を求めて数え切れぬほどのツムドリが集まるらしい。子どもであった遠い昔、加地は村に行商に来ていた男から聞いたことがある。一体どこから集まって来るのだと彼は言っていただろうか。行商の男は目をすがめ、節くれだった指先で、夕暮れの空を渡るツムドリの群れを追った。ああやって一羽もはぐれることなく、あの山のすぐ裏手の湿原へツムドリたちは飽きもせず渡っていくのだと、確かそう言っていた。
 記憶に残る行商の顔はおぼろげだ。ひどく年老いていた印象ばかりが残っているが、今の自分の歳と比べれば随分と若かったような気がする。毎年、ツムドリの群れが村の空高くを横切るたびに、加地は裏山の向こうにあるという湿原と、そこに集うツムドリを思った。生まれて五十年。加地は行商の男の語った湿原をついぞ見る機会がなかった。これからも目にすることはないのだろう。
 加地は深く息を吐き出した。額にじわりと浮き出た汗を掌で拭う。彼の前で舞い上がった息は、はっきりと白くくゆった。それでもまだ雪が降る時分には幾分も早い。雪がすっかり辺りを埋め尽くしてしまうには、さらに時を要するだろう。
 加地は強張り始めた腰を叩いて叱咤し、ようやっとのことで歩みを再開した。
「早々に雪が降ってくれると助かるんだがな」
 そうして春など訪れないといい。しんしんと降り続く音のない雪に閉ざされて、ひっそりと佇む。一人死んでしまうよう、静かに。現には、決してそうはなってくれそうにないあばら家を、丘の上に見とめて、加地は重く肩を落とした。
 息を吸って気持ちを入れ替える。ぴたりと閉ざされた今にも壊れそうな木戸に向かって加地は「おぉい」と掠れた声で呼びかけた。
「私だよ。加地だ」
 しばらく待ってみたが、内からの返事はない。加地は首を巡らせて辺りを伺ってから、家の裏手に回ってみることにした。
 しずしずと流れる清い水音に、加地の足は自然、畑の入り口で止まった。寒風に晒されている枯れ草は、身を縮めて地面にしがみついている。畑を取り囲む木々のほとんどがすでに葉を落とし、根にこんもりと落ち葉を積みあげていた。ざわざわと途方に暮れるほど煩く畑中に葉が生い茂っていたあの晩夏が嘘のようである。
 目当ての少女の姿は見当たらず、代わりに軒先に吊るしてあったナシャの実に加地は目を細めた。冬の最中、軒先に干すナシャの果実は、中身まで完全に凍り切ってしまってはじめて食べ頃となる。少女の母が毎年かかさず作っていたものだった。
 見れば、つい先頃まで木から落ちて庭先に数多転がっていただろうルグの実も、丁寧に拾い、洗われ、笊に均して乾かしてあった。
 ええ、だから、と達観した女の声が聞こえてきた気がした。加地は畑を後にし、あばら家からそう遠くない場所にある川の方角へ足を向ける。
『あの子はどうしたって災いを呼ぶから』
 見舞いに来た加地に、さきは声を落として言った。感情の感じられない静謐な声だった、と。思い起こすたびに、加地はあの時の咲の声音を記憶のうちに辿る。
『だから、加地さん。とても……とてもありがたいけれど、もし私に何かあった後には、ここには来てはいけない』
 透き通った目であった。娘と同じ、虚空を見つめた咲の目は、その時すでに自分の病の行く末に気付いていたのだろう。
 それでも、と加地は一人土手に立ち尽くし、人気のない川原を見渡した。いくら目を凝らしても荒涼とした景色の中に人影はない。ならば、あの子は裏山にでも行ったのだろうか。そうであるなら、探して村に帰る頃には、すっかり日が暮れてしまう。
 加地は諦めて、元来た道を引き返す。
 ――それでも。
 咲の望むまま放っておけずにここまで来てしまったのは、雪が降りだすその前に、今度こそできることがあると己が信じたいだけなのかもしれなかった。