2-11:夜伽話【4】



 翌年、ガジェンは約束通りやってきた。
 以前と変わらぬ海域。以前と変わらぬ船。
 甲板に立つガジェンを目にした瞬間、サーシャは言葉が見つからなかった。
 まるで昨日もここに来ていて、別れたのが夢だったのではと錯覚するほどの自然さで、ガジェンはサーシャの前に立っている。
 ただ、以前とは違い、彼の首には、魔女から奪った赤い石の指輪が紐に通されさがっていた。
 ガジェンは半年前と同じように海の上に現れた魔女を見あげ、快活に笑った。
「なんだ、ようやく俺のところに来る気になったのか?」
 言われた意味がわからず、サーシャは首を傾げる。ガジェンはいっそうおかしそうに笑いながら、自身の左手を指差した。
 サーシャは自身の左手を、さっと右手で覆い隠す。
 指摘されるまでもない。サーシャの左の薬指には別れた時と変わらずガジェンが贈った指輪が輝いていた。
「誰がっ! これは今度、会う時まで失くしたら困るからこのままにしていただけで!」
 全力で否定する魔女に、ガジェンは腹を抱えてけらけらと笑う。
 サーシャは悔しさに歯噛みする。この半年間、綺麗な色だ、と気がつけば自分の指に光り輝く石を眺めて暮らしていたなど、口が裂けても言えなかった。
「それよりも、私の指輪を返して。それは師から贈られた大切な指輪なの」
 ああ、これか、と言ってガジェンは首から赤い石の指輪を外すと、そのままひょいっとサーシャに向かって放り投げた。
 予想外の行動に、サーシャは慌てて手を伸ばす。勢いよく投げられたとはいえ、船から離れた空中まで小さな指輪が届くはずもない。早くも弧を描き甲板に向かって落下しはじめた指輪をサーシャは必死で追いかけた。
 指輪についているのは硬度の低い石だ。割れてしまえば、もう取り返しがつかない。
 サーシャが伸ばした指先に指輪がかする。だが、掴み損ねた指輪は、指先にかすり、弾かれたことでかえって落下の勢いを増した。
 間に合わない、と焦った瞬間、ガジェンが、ぱっと指輪を掴みとった。続けざまに落ちてくるサーシャもしっかり抱きとめる。
「――お前、図ったな!?」
「引っかかるほうが悪い」
 サーシャの耳元で、「ははっ」と笑いながら、ガジェンは自分の腕の中にすっぽりと収まった魔女をぎゅっと抱きしめた。
「会いたかったぞ?」
「私は別にお前になんか会いたくない」
 尻窄みになった言葉が震えた。そうか、と耳元でささめくガジェンの低く心地よい声も、やはり以前と何ら変わらない。
 懐かしいと感じてしまった香りを追いやるように、サーシャは俯いて、口をつぐんだ。

 それからの日々はまた、去年と変わらず過ぎて行った。
 ガジェンはただ愛しい魔女に会うためだけにカーマイル王国の海域に現れる。サーシャと会うことができれば満足するのか、たいてい怒って魔女が姿を消すと、もう他には用がないらしく、何もせずに帰っていく。
 この調子なら、放っておいても海賊たちが被害を起こしそうにない。そうサーシャが思いはじめると、見越したように、ガジェンは決まって「来ないなら船を襲う」とサーシャを脅してきた。
 それが毎日毎日、まるで去年の出来事を何度もなぞるように、飽きもせず繰り返された。
 繰り返される日々の中、それでも季節は巡っていく。
 ついに今年も凪の季節が終わるという頃、事件は起こった。


「今日は、特別なものを用意した」
 自信満々にガジェンが取り出したのは何の変哲もない綱で編まれた網だった。
 ガジェンは出会った頃から相も変わらず網を投げつけてくる。よくそんな方法を思いついたなと感心してしまいそうになるほど多種多様な趣向を凝らして投げつけられる。
 おかげで、サーシャはガジェンと出会ってこのかた防御の腕が無駄に、だが、確実にあがってしまったことを自覚していた。
 しかし今日、目の前で掲げられているのは初めてガジェンと対峙した時と同じ、何の変哲もない網だった。注意深く観察しても細工がしてあるようには見えない。そもそも細工があったとしても、網を魔法で弾いてしまえばよいだけだ。今さら、そんなものに引っ掛かるはずもない。
「馬鹿にしているの?」
 サーシャは呆れて半眼する。
 ガジェンと部下たちは、魔女のようすに目をきらりと輝かせ、ほくそ笑んだ。
「よし、今だ!」
 かけ声と共に、魔女に向かって網が投げられる。
 サーシャは、片手をあげた。網を薙ぎ払うために突風を起こそうと、手を一閃させる。
 だが、起こしたはずの風は、そよとも起こらなかった。なぜそうなったのか理解が追いつかず、サーシャは寸の間、身を竦ませる。気づけば迫る網を避けるには遅く、サーシャは呆気なく網に捕らえられた。
 落下していく合間も、絡み付く網を切り刻もうとしたサーシャは、驚きにそのエメラルドの瞳を見開く。
 やはり、網は切れるどころか、傷すら入らない。魔法がまったく通用しなかった。
 ガジェンの狙い通り、東の魔女は意図も簡単に彼の腕の中へ落ちてきた。
「成功だ!」
 いまだ呆然とする魔女をよそに海賊たちは歓声をあげた。
 憮然としているのは、サーシャだけだ。
 思い当たる原因はただ一つ。
「ラピスラズリを使ったのね?」
 睨みつけるサーシャに、ガジェンはにやっと笑う。
 それは明らかな肯定だった。
「なぜ知っているの?」
「北西の賢者に教えてもらった」
「は!?」
「酒飲み友達なんだよ」
 けろりと答えたガジェンの言葉にサーシャは絶句した。
 ラピスラズリは魔を弾く特性がある。古来より悪しき魔の存在を遠ざける守護の石の一つとしても知られてきた。だが、その実、魔の属性でもある魔法が通用しないため、魔女や賢者にとってもなかなか厄介な代物なのだ。
 ただ幸いにも、ラピスラズリが魔女たちが使う魔法をおさえる効果を持っていることを知る者はほとんどいない。
 そもそも普通の人間が、魔法を目の当たりにする機会など、ほぼないに等しいからだ。確かめようのないことに気を払う者などいない。まして、困った時に助けを求める相手である魔女や賢者の魔法を遮りたい者も遮るほどの理由も例外をのぞけばほとんどない。
 そんな情報を――しかも自分の弱味にすらなりうる情報を簡単に教えてしまった北西の賢者をサーシャは心の中で激しく糾弾した。
 東の魔女の名を引き継ぐ際に、彼とは一度だけ顔をあわせたことがある。あの時出会った北西の賢者の好好爺然とした姿がまざまざとよみがえった。もし目の前にいたら思わず首を絞めてしまっていたところだ。
 サーシャが葛藤する姿にさえも目を細め、ガジェンは魔女の頭を引き寄せた。滑らかな黒髪の質感を確かめるように、頬を擦り寄せる。
「こうやって抱きしめるのも久しぶりだな」
 いきなりきつく抱きしめられたサーシャは思わず息を呑む。
 最近は捕らえられるようなへまは滅多にしていなかったから、久しぶりに感じる温かさに顔が火照った。
 いつもならすぐに抜け出すことができるが、ガジェンに向かって放つ魔法がすべてラピスラズリによって無効化される今、逃れることもできない。
 とにかく落ち着こうと、息を整えても、鼓動は早くなるばかりで、落ち着く気配を見せない。
 むしろ、ガジェンの硬い胸板にぐりぐりと押し付けられている今、呼吸することさえ困難だった。それどころか、息を吸う隙間すらもないのではないかと思えてくる。
「く、るしい」
 サーシャの訴えに、ガジェンは慌ててその腕を緩めた。解放された小さな魔女はぜえぜえと肩で息をしている。
「悪い。大丈夫か?」
「……殺す気?」
「悪かったって。嬉しくて、つい」
 二人のやり取りに他の海賊たちが愉快そうにげらげらと笑う。いつものことながら、見られていたことに気付き、サーシャは恥ずかしさに肌を真っ赤に染めた。
 ごまかすように、サーシャは話題を変える。
「それより、どうやってラピスラズリを手に入れたの? かなり高価なもののはずでしょう?」
「画家にラピスラズリの顔料を少しわけてもらったんだ。それを網にばれない程度に塗りこんだ」
 ほら少し光ってるだろう、とガジェンが指さす。見れば、確かに網には藍色の細かい粒子がついていた。
「もしかしてそれも……」
「あぁ、酒飲み仲間だ」
 いったいどんな仲間なの、とサーシャはがっくりと項垂れた。
 まぁ、まぁ、とガジェンはおかしそうに笑う。慰めるようにサーシャの髪を指先で梳きはじめた。その手つきの心地よさに、サーシャは思わずうっとりと目を細めそうになる。
「なぁ、今年は本当に一緒に来ないか?」
 今までにない真剣な響きに驚いて、サーシャは弾かれたようにガジェンを見あげた。
 いつものような調子のよさも、ふざけたようすも一切見受けられない。
 ただ、言葉の響きと同じ少し不安を含んだ真摯な青い目がそこにはあった。
 捕らえられたら、もうそこから逃れることは不可能だ。
「わ、たし、は……」
 うっかり零れてしまいそうになった言葉をサーシャは飲み込む。
 真摯な眼差しから、目をそらすことはできなかった。代わりに一度だけ、目を瞬かせて、サーシャはガジェンを見据えなおす。
「私は‟東の”魔女なの」
 はっきりとサーシャは言い切った。
 あぁ、とガジェンは頷いて、サーシャの言葉の意図するところを認める。それでも、ガジェンには動じなかった。
「それは知ってる。北西の賢者に聞かされてるからな。東の大陸に住む奴らは、東の魔女を心のどこかで拠り所にしている。そんな奴らのために、東の魔女も訪ねてくる人の相談を受けないといけないってことも」
 サーシャは告げようとした理由を先に言われてしまい押し黙る。そんな彼女を見て、ガジェンは笑みを深めた。
「けど、それならサーシャが今、住んでいる家の扉を俺の国に繋げてしまえばいいじゃないか。そういうのって、魔法じゃできないのか? それで問題は解決されるだろう」
 考えもしなかったその提案に、エメラルドの瞳が揺れる。もうずっと昔から、強く芯としてサーシャの身の内にあった決心が大きくゆらいだ気がした。
「サーシャ、一緒に来い」
 ガジェンは、東の魔女としてある娘に向かって言う。
 言葉なく、静かに朱を散らしたサーシャの頬へ、ガジェンは手を伸ばした。


「お頭!」
 部下の叫びがあがったのは、その時だった。
 呼び声に反応し、ガジェンは素早くサーシャを自分の下にかばうと、腰から短剣を抜いて一閃した。
「――な、何!?」
「出てくるな!」
 聞いたこともないガジェンの緊迫した声に、サーシャはただ事でないことを瞬時に悟る。頭ごと抱え込もうとするガジェンの腕を退けて、サーシャは辺りを見渡した。
 見渡して愕然とする。
 なぜ気づかなかったのか。目の前には何艘のも大きな帆船が迫っていた。何千もの兵士が船上で矢を番えている。
 幾重にも連なる帆船を率いる船の先端に、見知った顔がいるのを見てとって、サーシャは声を張りあげた。
「国王! 約束を違える気ですか」
 怒りをたたえる魔女の気迫に、カーマイル国王はたじろぐ。だが、次の瞬間には、平静を取り戻し口を開いた。
「魔女殿、私は約束を違えてなどおりません。約束はあなたが捕らえた者の命はとらないというものだったはず。しかし、あなたはまだ海賊を捕らえてなどいない。そうでしょう?」
 王の言葉にサーシャは、ちっと舌打ちする。
「ですが、この海賊たちはもう船を襲っていない! そちらに被害もないはず」
「ところが被害はあるのです。海賊たちが船を襲うことはなくても、海賊が出る、という噂だけで、この港へ来る船はいまだ減ったまま。これでは、何ら変わりはありません」
 反論する言葉もないサーシャに国王は続けた。
「魔女殿、あなたを傷つけるつもりなど私には毛頭ございません。どうか早く、こちらへお移りください」
 サーシャは唸りそうになった。王の言い分に非がないのは誰の目にも明白だ。だが、離れれば、すぐにも射かけられそうな今、動こうにも動けるわけがなかった。
 睨み付けるばかりで一向に動く様子のない魔女の姿に、王は肩をすくめる。
「海賊どもに情でも移りました?」
 国王は片手をあげ、攻撃の指示を出す。同時に、すべての矢がたった一艘の船に向けられた。