「ケルティカ様、こちら本日分の献上品にございます!」
「うん、ご苦労。ありがたくいただくね」
 エドワルドに差し出された包みを、ケルティカはいそいそと受け取ると、早速中身を確認して、欲しいものリストに済チェックをつけた。今日のものはケルティカの出身オウリッヒの小麦だ。カーマイルの小麦で同じ作り方をしても、どうしても懐かしの故郷の味は出せないからと、欲しいものリストに加えていたものである。
「いつも悪いね、エド。それで、そろそろリストもあと少しになったから、また新しく足してもいいかな? もう一巡同じものでもいいんだけど」
「もちろんです、ケルティカ様。どちらでもお好きなほうでどうぞ。どちらか決まりましたら、お知らせください。では、ケルティカ様、ソラリア、今日はこれで失礼します」
「おや、もういいの? 最近、急いで帰るけど、今日も忙しいのかな」
「はい。ソラリアに会えて、元気もいただきましたし」
 ね、とエドワルドは、ソラリアに笑いかける。答えは求めていなかったのか「今日もソラリアは素敵だなぁ」と、ふやけた笑顔を浮かべた彼は、しみじみ噛み締め呟いて、宣言通りそそくさと砦を出ていった。
 ケルティカは砦の窓から、馬に乗って地上を駆けていくエドワルドを見送って、台所へ向かう。先に台所でオウリッヒの小麦を使った菓子作りの準備をしていたソラリアの頭をケルティカは優しくなでた。
「最近、忙しそうにしているね、ふわふわの鳥頭君」
「今までが、異常だったんですよ、あのしたまつげぼん!」
「今日なんてソラリアが一言も話さないうちに行っちゃったし」
「そろそろ、いい加減、飽きてくれたんじゃないですか」
 ソラリアは言って、木製のボウルへバターと小麦を測り入れた。
 ふぅん? とケルティカは目をすがめる。ぽんぽんと宙を跳ねながらやってきた二つの卵が、ボウルの上で割れて、中身が落ちた。ボウルの中で卵がバターと小麦と混ざりあって、くるくる踊る。
 睨みつけるよう、その様子を見つめている弟子の頬を、ケルティカは横からつねった。
「ソラリア。エドの依頼をさぼっているね? 行っていないのでしょう、怒って戻って来たあれから一度も」
 ソラリアは唇を引き結ぶ。横では、彼女を叱るケルティカを抗議するように、ガタガタとボウルが揺れはじめる。「やめて」とソラリアは鋭く言って、居心地悪そうに身じろいだ。まもなく、ボウルは大人しくなる。
 ねぇ、とケルティカは、頬をつねる指をほどいて、ソラリアの両手をとり、向き合った。
「……報告はちゃんと受けていますよ?」
「そう。でも、そろそろきちんと自分の目で確かめてくるべきだってわかっているんじゃない?」
 ケルティカは握った両手を軽くゆする。
 ゆするたび眉間にますます力をこめはじめた弟子に、ケルティカは息をつく。
「すねるのも八つ当たりも大概になさいな。ソラリアの感情のありかなど、本来、依頼主のあずかり知らぬところだ。それでも仕事をしないって言うのなら、ここから放り出すからね。私は、お前の仕事だと言ったよ」
 ぐっ、とソラリアは顎を引いて息を呑む。縋るような新緑の瞳が、はかなく砕けそうに思えて、ケルティカは「ああ、もう、この子は」と繋いでいた両手を離した。
 動かない弟子をそのままに、くくりつけの棚の引き出しから泡だて器を取り出したケルティカは、中途半端な状態で放置していたボウルを引き寄せる。
「……私もたいがいあまいけど。まぁ、あの子なら許してくれるでしょう」
 言いながら、泡だて器で材料を混ぜあわせ、ケルティカは生地をつくりはじめる。
「いいね、ソラリア。このお菓子が出来あがったら、行きなさい。ゆっくり作ってあげるから。師匠命令。それ以外は認めないからね」
 泡だて器が動くごとに、生地がゆるゆるとまとまっていく。その光景を目の端で眺めながら、ソラリアはぐぐぐと、ますます眉間の皺を深くした。

****

 澄んだ夜空の下、慰めに吹いた風にあわせて、ソラリアはくるりと宙で一回転した。
 どうしてもあの場に行くのに気がのらなくて、砦を出た後もだらだらと空を漂っているうちに、すっかり日は暮れてしまった。エドワルドに、とケルティカに持たされた焼き菓子も、夕食代わりに食べてしまった。
 すねている、とケルティカに指摘された通りだ。それはわかっている。バカにされた、とあの時、感じた悲しみと怒りも、ケルティカの言う通り、ソラリアに起因する感情にすぎず、よく考えなくともあのお気楽なぼんぼんがそんなこと考えるはずもない。
 単純に知らなかっただけだ。野菜の育て方を。そもそも知るはずがない。なぜなら、彼はこの国有数の貴族の出で、土に触る機会どころか、野菜そのものを触る機会すら、そうなかったはず。
 エドワルドは、あれからずっとあの小屋に出入りしていると聞いている。いったい何をしているのか、ソラリアからはそれ以上、聞きはしなかったけれど。
 ソラリアがあの日見た、あんな土の状態では、作物など根付くはずもなかった。そもそも、この土地ほど、作物を育てるのに適さない土地はない。特にまだ冬にあたるこの時期は、海上から吹きつける季節風《ナディール》のせいで、どの季節よりも風が強かった。はじめからここに畑をつくることが不可能なのはわかりきっている。
 だからこそ、農民になりたい、と言った彼の気持ちが真実であるかどうかは別として、その気であると東の魔女の前に示し続ける限り、ソラリアは他に適した場所を教える立場にある。教え導くべきだったのだ。
 そんなこともできなかった自分が情けなく、師に指摘された今の段になっても足が向かない自分に腹が立つ。
 ソラリアは、深く溜息をついた。
 このままいじけていても、行かないと終わらない。
 そう遠くないと思っていたのに、やっとの思いで辿りついたその場所に、観念し、地に足をつける。
 小屋に明かりはついていなかった。確認したら、もうとっくにこの場を離れたという。
 思わずほっとしてしまい、ソラリアは唇を引き結んだ。
 さんざめく星の下、冷風が吹き荒れる。
 流れる銀髪をかきあげたソラリアは、足元で鳴るしゃらしゃらとした音に気付いて、はっと、目を凝らした。
「なに、これ」
 しゃがみ込んで手を伸ばせば、細やかな葉をもつ植物に触れた。足元の土をつまめば、明らかに土質が変わっていた。あんなにあった石も、雑草もとりのぞかれている。
 月明かりに照らし出されたその場を見渡せば、風よけの柵に、木が、あった。この前までなかった畑らしい畝《うね》には、低い背丈の苗が数種類植えられている。どれもソラリアは知らない植物だった。だが、おそらくどれもが、確かに作物なのだろう。
「うそ。どうやって」
 こんな荒野で、作物が根付くなど常識では考えられない。意味がわからなかった。
 気づいていなかったわけではない。
 ケルティカとの約束を果たすため、律義に贈り物を届けては、すぐに取って返すように帰っていくエドワルドの手が、いつの頃からか、ぼろぼろになっていった。爪の先に、土くれがついていることさえあった。
 ずっと見ないふりをしていたものの、本当の意味を知る。
 少なくともソラリアが持つ知識よりも、ずっと優れた知識をこの短期間で手にいれて、実際にこの畑をつくってしまった。
 あまりの途方のなさに、呆然とする。
 ソラリアは指の先でそっと葉に触れた。
 隣では、風よけを越えてなおふきつける強風に、苗がいっせいに煽られている。
 はたしてこの中のいくつが、無事に育つだろうか。一つも残らない可能性のほうが高い。
 きっと、これから先、数え切れぬほど失敗を繰り返すことになるのは目に見えている。
 それでも。
 ――ねぇ、とソラリアは、夜空を仰いで話しかける。
「少しだけ、この辺りで遊ぶのを控えてくれない?」
 言えば、くすぐるように首元を駆けていったつむじ風に、ソラリアは微笑する。
 立ち上がって、ソラリアは畑に向きあい、両腕を広げた。

「オクトディアス――どうか、この大地に祝福を」

 夜空に向かって、苗たちが一心に背を伸ばす。
 月明かりを映す、まだ小さな葉の一つ一つを、ソラリアはじっと見つめていた。