おまけ



 森の木の先端にひっかかっていた夕暮れの切れ端も、もうまもなく地平に隠れてしまうころ。
 イーデルト・クローデリアは、夫である夜の盟主よりも一足先に、その地へ降り立った。
 ほのやかに輝きはじめた指先で、帰り損ねた者たちの足元を照らし出す。
 夜を待ちわびていた者たちが、そこかしこの草むらから跳ね出てきた。
 イーデルト・クローデリアは夜を歌って、懐かしの、ひび割れた、白い神殿で、くるりと回る。
 薄い裾の連なりを踊るままに翻し、床の割れ目から芽吹いた草に足を取られ、つまずく。
 その勢いのまま、イーデルト・クローデリアは硬い床を蹴った。
「グラーチェ!」
 イーデルト・クローデリアは愛おしさに胸を震わせて、現れた闇にしがみつく。
 羽を畳んだ夜の盟主は、頬ずりをしてくる妻に居心地が悪そうに身じろいだ。
 夜の盟主は、ほひゅると息を吐き出して、イーデルト・クローデリアの身体を手繰り寄せる。
「今度こそ、消えてしまったかと思ったよ、イーデルト・クローデリア」
「ええ。私も消えてしまうのかと思った」
 その身の、髪の先まで、光を宿した娘は、日を追うごとに輝きを増し、その輝きが頂点に達した期を境に、日を追うごとに衰えていった。
 それは、命のつきかけた人間を無理にこの世にとどめた代償か。
 昨夜、ついに跡形もなく世界に呑まれた妻に、夜の盟主は成す術も知らず、途方に暮れた。
 イーデルト・クローデリアは、夫の首にしがみついたまま、彼の肩に額を寄せる。
「神様に会ったの」
「神に?」
「ええ、たぶん。三人いらっしゃった」
 朝と昼と、そして夜の神様、と話すイーデルト・クローデリアに、夜の盟主は目を瞠る。
「グラーチェも会ったことがあるのでしょう?」
「……夜の神には、な」
 お前が衰えるにつれ、そろそろ呼び出されるかとは覚悟していた、と夜の盟主は懺悔をするように瞑目する。
「だけど、消えるのはお前ではなく私の方だと思っていたんだよ」
「なぜ?」
「時間がなかったとは言え、異界に返りかけていたお前を、神に伺いもたてずに留めるのは賭けだったから。
 結果的にこちらに残せたから許されたと思ったんだ。まったく大丈夫じゃなかったわけだが。
 決めるのが遅すぎたのは私も同じだった。異界に返ることもできずに、世界に溶けたお前を見て、後悔した。
 断罪されるべきは、イーデルト・クローデリア、お前ではなく私の方だったのだよ」
 苦しげに吐き出された声に、イーデルト・クローデリアは目を閉じる。
 震える羽をそっとなでて、イーデルト・クローデリアは囁いた。
「“あれは少し生真面目すぎる”」
 夜の神様がそう仰っていたわよ、とイーデルト・クローデリアは、くすりと笑う。
「ねぇ、聞いて。ちゃんとここにいるじゃない。大丈夫。ずっとここにいて、いいって言われてきたの。
 許す許さないではなくて、おもしろいから合格ですって」
「……おもしろい?」
 ええ、とイーデルト・クローデリアは嬉しそうに頬を上気させて頷いた。
「“身近な他人の不器用な恋路ほど、見ていて気楽な娯楽はない”って。
 “人間の娘に振り回されては、やきもきしたり、いそいそと土産を集めて回るあいつがおかしくてしかたがなかった”って」
「…………」
「あとは、あなたの顔が見たいという理由だけで、光を帯びることを望んだ私がおもしろかったから、今回呼んでみたのだ、と。
 私が落としたランプで星を作ってみたのも、なるほど夜が華やかになるのもよいと思ったからだと言われたわ。
 “だからそう何度も許しを請わずとも妻は返すし、うっとうしいからもうやめろ”、と」
「……イーデルト・クローデリア」
 気が抜けたように、夜の盟主は妻を見上げる。
 イーデルト・クローデリアは、夜の盟主の手を取って、にっこりと微笑んだ。



イーデルト・クローデリア。
神の使い子であり、異界の迷い子と呼ばれた娘。
今日呼んだのは、他でもない。
あれが、お前のことを、とにかく気に病んでしかたがないから。……いや、単刀直入に言おう。
お前を元いた場所に帰してやろう。
容姿も望むままに。そのひしゃげた瞼は治して、……ああ、そうだ。我々の加護の印をもう一つつけてあげようか。

 神の間に立たされ、きょとんと彼らの申し出を聞いていたイーデルト・クローデリアは「どうだ?」と問われた瞬間、きっぱりと首を振った。
 一月後、妻が神と交した内容を詳しく聞いた夜の盟主は、呆れから立ち直るやいなや、くどくどと小言を並びたてることになる。
 長々と繰り返される小言は、しかし、イーデルト・クローデリアの姿がうっすらとほどけはじめたことでようやく終わりを告げた。

だけれど、金の髪を持ち、銀と瑠璃の瞳を持つ娘。
異界に近くありながら、私たちの恩恵を全て身に纏う娘。
私たちは遠くからしか、私たちの世を見渡すことしかできないから、……月に一度だけでいい。
あの愛すべき堅物の側を離れて、また地上のことを話に来てくれないだろうか。

 請われた内容に、イーデルト・クローデリアは、迷うことなく頷いた。
 ――はい、喜んで、と。
 それは彼女が夜の盟主の隣にあって、ようやく知れたものによく似たものでもあったから。
「だから、グラーチェ、私はまたあなたの傍を離れるけれど、きちんと帰ってきますから」
 押し黙る夜の盟主の頬に口付けて、イーデルト・クローデリアは夜に溶ける。
 ちゃんと迎えに来てくださいね、と言い残された言葉に、夜の盟主はほひゅると息を吐き出して、返事に変えた。