no bad



 そう。
 彼にとっては戸惑う暇もなかったこと。
 ひどく緩慢でゆったりとした一瞬の出来事だ。

「――なっ!」

 ゴダルは、いま目の前で起こった惨事に言葉を失くした。平然とした顔で銃を抱え持つ男を愕然とした面持ちで凝視する。黒い銃口から紫煙が立ち上がる。
 彼らが立つテラスの真下。
 隆々とした海神の彫刻噴水を中央に円を描く広場には、国家に対し暴動を起こした民衆が集う。
 しかし、いつも雑然としていた群衆は、今、胸から血を流す一人の女を取り巻き、広場よりも見事な円を作っていた。風穴のあいた彼女の胸からは、どくりどくりと血があふれだしているようだ。遠く離れたテラス上からでも、黒々とした鮮やかな血だまりが急速に広がっていっていくのが見てとれた。
 暴動の中枢にあった女は、自分を襲撃したモノを凝視したまま息絶えた。短く刈り切られた髪が、血色に塗れる。
 ひどく遠いところで起こっている出来事のようだと感じた彼は、自分とは遠い場所で死に絶えた女を見下ろし、緩慢な所作で一度瞬きをした。
「ビシュー……お前……あの女はお前の恋人であったはずだろう……」
「確かに」とビシューは死んだ女に向かってうなずいた。
「エリアは私の恋人でしたが、あの女を殺すことができさえすれば、制御のとれなくなった群衆はなし崩しに崩れるだろうとおっしゃったのはあなたでしょう」
 違いましたか、とビシューは乾いた双眸を広場からそらさぬまま、上官であるゴダルに尋ねた。
「間違っては……いない。これでこちら側が優勢になるだろう……しかし!」
「しかし?」
 ビシューはほんの少し首をかしげる。まるで、慈しんでいた人間の最期の顔をのぞきこんでいるかのようなその仕草は、自らの手で女を銃殺した男にはひどく似つかわしくないものであった。
「しかし、何だというのですか? 国防が私に与えられた命です。国に攻め入ろうとするものがあれば、排除するのがしかるべき行動でしょう。ためらう要素などどこにもない」
 ゴダルは、口をつぐんだ。広がっていく潮騒のごときざわめきの中に、乾いた銃音が無造作に混じり始める。
 統制を失ってしまった群衆は、予想通り暴走を始めた。鎮圧するまでそう時間はかからないだろう。
 ゴダルはビシューの横顔からそらした目を広場に向けた。ゴダルは、むなしい喧騒を見下ろして呟く。
「ああ、お前は正しいよ」
 何が悪で何が善かは、彼らの決められるところではない。長年、軍に在住していた彼はそのむなしさをよく理解していた。だが、かつて幸福な未来を描いていたはずの恋人たちの終わりに、彼は目をつむって苦々しく言葉をかみしめた。

「ああ、お前は、正しかったよ」