こうして、三番目の姫トゥッシトリア魔神ジーニーは幸せに暮らしたのでした。



ラピスラズリのかけら



 砂漠を風が吹き渡っていた。砂を巻き込んで渡る風は、砂漠の景色を飽きることなく変えていく。
 ランジュールが、その場に居合わせたのは、偶然その場に風が流れ着いたというだけにすぎなかった。
 盗賊にでも遭遇したのだろう。散らばった馬車の残骸と、砂に埋まりかけている馬と人間たちの中で、ただひとり、息のあるらしい女は砂を握りしめ呆然と座り込んでいる。少なくともランジュールにはそう見えた。
 彼が降り立った砂地は血を吸って重たいのか、風に煽られても動かない。気が向いたのは、女の風体があまりにも憐れに見えたからかもしれない。
「泣いているのか」
「まさか」
 女は聞こえてきた問いを鼻で嗤った。背後からかけられた声に驚くでもない。陰惨な光景に囲まれた女は迷うことなく答えた。堂に入った響きに、声の震えはない。
「嬉しいのよ」
 振り返り、背後を鑑みた女の顔は、言葉の通り晴れやかだ。のびやかな微笑は、しかし、びくりと身体を痙攣させてひきつった。ひゅっ、と息の縮こまる音が耳に届く。
 そういえば人間は弱かったのだと、魔神ジーニーである彼は、その時分になってようやく思い出した。ランジュールは女から、すいと視線を逸らしてやる。
 途端、腕を勢いよく引っ張られて、ランジュールは砂地に膝をついた。ついた、と思ったら、次はばちりと顔を両手で挟まれる。
「こっちを見なさい!」
 あらく、息を吸い損ね、女は言った。言葉の強さの割に、ランジュールの顔を固定している彼女の手はかたかたと震え続ける。感じているのは、人間にとっては本能的な恐れ。
「人間よ、息ができなくなるぞ?」
 よほど苦しいのだろう。じわりと湧きおこった涙が、目の縁を歪め始めた。
 女は息を吸うのを諦めて、息を吐く。
「人と話す時は、目を見るものよ」
 目をそらさず、ランジュールを睨みつける。
 はじめて見る、ただひたすらに、あおい双眸だった。



「出てこい、くそじじいっ!」
 怒りにまかせてシェラートは叫んだ。答えが返ってくるどころか、屋敷にいる気配がない。さっきまでのんびり横になっていたにも関わらず、だ。
 どうせまたアジカのところにでも行っているのだろう。
 シェラートは思いっきり頭を抱えたくなった。ランジュールを頼りにして、この国にやって来たのを後悔するのはこんな時ばかりだ。
「いったいどうやって払うんだよ」
 玄関先に運びこまれた大量の食材とそれに伴って山と届いた請求書の多さを思い出して、シェラートは呻く。
 大体、卸し業を営んでいた実家であっても、あんなに大量の荷物は見たことがない。
 ふざけんな! と言ってやるべき相手を見つけることができず、シェラートはいらだち紛れに、先日ランジュールがアジカに買ってきたあげく「いらない」と一蹴された気味の悪い生物の彫像を吹き飛ばした。



 取り上げた手紙をヒデタは蝋燭の火にかざす。エウリアは信じられない思いで目を瞠った。
 どういうことなのか説明を探してエウリアは護衛官を見上げる。彼はゆるりと、消えてしまった紙辺の残りを払って捨てた。
「あなたは帰る家じゃなくて帰る場所がほしいのでしょう? なら、ここに帰ってきてください」
「……帰ってくるも何も、いつも一緒に移動してるじゃない」
「だから余計よいのではないですか。あなたはどこででだって帰れる」
 だから、おれにしておきません?
 断られるとは夢にも思っていないヒデタがへらりと笑う。
 エウリアは、彼の頬を平手で打った。どうして、となじる口調は頼りない。結局のところ、ひとつだって彼の予想とたがうことはないらしい。エウリアは泣き顔を隠して、彼の首に縋りついた。



 ぼろぼろと涙は頬の上を転がった。夫の葬儀が終わってしまうと、途端、力が抜けた。重さのまま床に座り込む。するともう動く気力は湧いてこなかった。
 ロージィは窓の外を眺めた。もうどのくらいそうしていたのか、昨日までと変わることなく夕日は沈んでいく。あまりにも昏い光だった。
「おかあさん」
 柔らかい爪が彼女の頬をひっかいた。舌足らずな息子が、唯一まともに発音できる言葉に彼女ははっとする。ぺたり、と頬に張り付いた掌はあまりにも小さくて、ロージィの雫を掬うにはたどたどしすぎる。
「テトラン」
 ロージィは熱っぽい喉から声を絞り出した。幼すぎる息子の身体を抱きしめる。
 生きなくてはいけない。きちんと。
 ふわり。やわいテトの髪に窓から夕日がさす。ロージィの鼻先で、息子の細い髪の毛は、一本一本、夕日を浴びて、強く光を弾いていた。



 水浴びから帰ってきたヴィエッダは、戸口に立っていた同類を見つけて目を疑った。
「あら、あんたの方から来るなんて珍しいねぇ、ランジュール」
 ここ数百年の中でも、最近は頻繁に会うようになっていたが、会いに行くのはヴィエッダの方だ。加えて、彼女が会いに行っている相手はランジュールではなくあくまでもアジカの方である。本来、彼らは慣れ合いを常としない。
 だから、彼女らの頂点に立つこの男が、「頼みたいことがある」と彼女に伺いを立てたとき、ヴィエッダは何とも言えない感傷に浸された。
 ずいぶんと人間らしくなってしまったものだ。姿も、中身も。人間がどんなものであるか、彼女自身アジカとシェラートを通して見てきたから今はようやく分かる。それが、ほんの一部だとしても。
「いいよ、聞いてあげても」
 ヴィエッダは、請け負う。ランジュールに会うのはこれが最後になる。彼女の予感の確かさは、一年後に証明された。



 垣根を越えたひとつ向こうの道で、雛鳥のあとを追いかけていた少女はこけた。
 ふわりと、宙に浮いた軽そうな服の裾が次第に落ち付いていく。その間も、少女は突っ伏したままだった。
 ロシュは、驚いた。戻ってきた雛鳥が、彼女の腕を突いて、ちぃ、と鳴く。
 むぅ、と呻いて、少女は腕を引き寄せた。引き寄せて、顔を上げた少女は、雛鳥を見て、笑みを広げる。
 うつ伏せのまま頬杖をついた少女は、ゆったりと足を交互に揺らしながら、軽やかな声で歌い始めた。
「お、フィシュアか」
 彼の師が連れてきた案内人は、「顔に泥付けて笑ってらぁ」と愉快そうに言った。
「かわいかろう? 俺の自慢の姪っこだからな」
 ばしりばしりと肩が叩かれる。同意を求められながら、ロシュはつんのめった。聞いてきた割に、答えは別段必要としていないらしい。彼は姪ばかりに視点をおいて、こっちを見向きもしない。
「今日もしもお前が勝ち残ったら、あの子がお前の主になる」
「あるじ」
 そうだ、と頷かれて、ロシュは歌い続けている少女に再び目を移す。
 明るい日差しに包まれた午前の終わりのことだった。



「私たちのやり方はきっと間違っていたんでしょう。だけどどうしても一緒にいきたかった。一人でいきたくはなかったし、一人でいきてほしくなかったの。願いは、叶ったわ。シェラートのおかげ」
 私たちの代償を、私たちの息子が払ってくれた。
 それが、もう取り戻せない過去。時間を巻き戻せるとしたら、今度はどうしただろう。
 ランジュールの代わりに、この子は一人、長く生を渡る。
「なら、よかったんだろう。俺の願いも叶ってる。大丈夫。間違ってないよ、アジカ」



 アジカは、閉じた絵本を胸に抱きかかえた。
 目を閉じて、ひたすらに祈る。
 未来のことはどうやったって知ることはできない。
 托すことができるのは、いくつかの可能性だけだ。
 ――――だけれど。
 溜息をついて、アジカは机の上に出しておいた封筒に宛名を書きつける。
『エウリアへ』
(あのこがいつかきっと)

どうか見つけてくれますよう




 フィシュアは、椅子に腰かけた祖母の足元に跪いて、彼女の膝に凭れかかる。ゆったりと紡がれる過去の話に耳を傾けた。
 藍色のまなこを緩ませて、イジリーカは最後の言葉の一歩手前、一息をつく。
 皺でたゆんだやわい手で、幼い孫の頬を撫ぜた。いたずら気に、目を煌めかせて、イジリーカは締めくくる。

 

「こうして、三番目の姫トゥッシトリア魔神ジーニーは幸せに暮らしたのでした」