桜の木の追憶


 はらはらと薄桃の花弁が、絶え間なく振り続ける。
 雪のようだとは、よく言ったもの。
 領内の桜の中でも、ひときわ美しく咲く垂れ桜を見上げて、家臣たちは、口々に感嘆を漏らす。
 あますところなく花をまとった枝は、花の数だけ地に向かってゆったりとしなる。その立ち姿は、木といえども、優雅そのものだった。
 年に一度開かれる盛大な花見の席。
 一本の垂れ桜を頂点に、なだらかに裾を広げる丘の斜面には、桜を取り囲むようにして数十枚ものむしろが敷き詰められていた。
 その内でも、垂れ桜の真下に陣取られたむしろでは、領主である定盛(さだもり)が、雄大な枝がつくりだす花の傘をとっくりと見上げていた。盃を手にしてはいるものの、思い出した折に口にするという程度で、酒が進む気配はない。
 定盛の傍にちょこりと腰かけていた彼の娘――桜姫(おうひめ)はというと、父とは違い花の枝付き具合などには見向きもせず、右へ左へと予想のつかぬ方向へはらりはらりと空を泳ぐ薄桃の花弁の行方にばかり気を取られていた。
 花弁の舞い具合とともに、右往左往する桜姫の顔の動きに、乳母は眉をひそめて、「はしたのうございますよ」とたしなめる。幼い姫は乳母の進言に頷きはするものの、一時すれば、そんな進言は受けてないとでも言うように、はらりと待った花弁につられ、視線をさまよわせはじめる。
 ついには、乳母もため息をついた。大人しく春の宴に専念することに決めたらしく、口をつぐんだ代わりに、ほっこりと目元を緩ませた。
「まるで雪のようだの」と、定盛は誰にともなく呟いた。
「まさに、そのようで」と、誰かが彼の言葉に相打つ。
 ここにむしろを広げてから、一体幾人が同じことを口にしただろう。
 けれど、彼の花から名を貰い受けたと聞く桜姫は、舞いゆく薄桃の花弁が雪のようだと思ったことは一度もなかった。
 桜の花弁は柔らかくて優しい。指先で触れたとしても雪の如く、じんわりと溶けていくことなどない。まさしく春を体現した花なのだろう。ほのかに灯った風合いを見ていると、あるはずのないぬくもりまで伝わってきそうな心地がする。
 これは、雪ではなくて春なのに。
 痛いくらいの冷たさはどこにもなくて、あるのはすべすべとしたやわらかさだけなのに。
 だが、桜姫が、心中を口にすることはなかった。
 一片の花弁が、鼻先をかすったのだ。
 すぐに落ちるかと思われた、薄い花は、風に巻き上げられてふわりと再び、高く舞いあがった。
 桜姫は手を伸ばして、花弁を追う。いたずらに彼女の指先をくすぐったはなびらは、しかし、すぐに指の間をすり抜けてしまった。
 桜姫は、膝をついて立ち上がると、頼りない花びらの動きにつられ、ひかれたむしろの上をかけていった。