File 27.


「お前……相当なバカだと言われるだろう」
 呆れを覚えながら火竜は、地面に蹲っている青年を見下ろした。
「さぁ?」
 青年は寝返りを打って、仰向けになる。岩山の中腹にあるこの岩棚へ、乾いた強風が吹きつけた。
「だけど、ここを越えないと次に進めないからな」
 不敵に笑う青年の目には迷いがない。しかし、力強い口調の割に、彼の声は掠れ切っていた。立ち上がる体力は、もう残っていないらしい。仰向けになったまま、もう微塵も動く気配がない。ずたぼろに破れ、重く血を吸いこんだ防具も衣服も、彼がここに来た当初身につけていたものと同じものには、とても見えなかった。
「俺は、最強のハンターにならないといけないんだから」
 対峙するや否や、あっさりと負けたはずの青年は、自分を倒した火竜を見上げ、独語する。
 目を逸らすことがない青年を見下ろしながら、火竜は嘲りを込めて彼を鼻先で笑った。
「お前、本物のバカじゃないのか?」


◇◆◇◇◆◇◇◆◇


 深紅の翼が大きく躍動し、ぐん、と速度が増していく――そのたびに、気持ちが深く高揚するのは、いつものことだった。
「ジャッキー」
 ロイドは、硬質の深紅の鱗に覆われた太い首を叩き、身をかがめる。彼の呼びかけに応じる代わりに、ロイドを背に乗せた火竜――ジャックナイフは風の流れの中に身を滑り込ませた。
 滑らかに火竜は高度を降下させる。上空からだと湖面に似た穏やかさで広がって見えた森との距離が一気に狭まった。無作為に生えている木立の間を、ジャックナイフは時折、巨体を翻しながら、易々とすり抜けてゆく。
「ここでいいのか?」
「ああ」
 答えるが早いか、ロイドはジャックナイフの背から飛び降りた。ぬかるんだ腐葉土に長靴の先がめり込む。
 日光の届かない深い森だった。ロイドが足を動かすごとに、少なくない水気を含んだ土が、ぐちゃりぐちゃりと音を立てる。ジャックナイフはさも嫌そうに、一層大きく翼をはばたかせた。
 翼に煽られて、辺りの木々がざわめき立つ。
 強い風を顔に受けながら、ロイドは風を巻き起こしている元凶であるジャックナイフを見上げた。属性上、火に属する彼の竜は極端に水気を嫌う。今も降りてくる気は、さらさらないらしかった。
「オレはこの辺を散歩でもしているから、終わったら呼べ」
「わかった」
 ロイドが笑いを堪えつつ請け負うと、ジャックナイフは不愉快そうに、ふんと鼻を鳴らす。ロイドが見ている前で、鱗に覆われた深紅の巨体を翻したジャックナイフは、周りの木の葉を巻き込んで瞬く間に上昇していった。
 ジャックナイフが翼を躍動させるたび、森がみしみしと唸る。それでありがなら傍目にはゆったりと飛行しているようにしか見えないジャックナイフの姿が、青空を遮る木々の向こうに消えるのを待って、ロイドは今回の目的地である塔の入口へ足を向けた。


「――あっぶな!」
 足をかけた途端、階段の一部が音を立てて崩れ落ちる。もう何度目になるかも知れない崩落に、ロイドはいい加減うんざりして溜息をついた。
 辛うじて建っていると言っても過言ではない塔は、ほとんど廃墟と化している。確かに辿りつく前、上空から見下ろした塔の屋根も半分くらい抜け落ちていた。しかし、まさか中がこれほど荒れきっているとは想像もしていなかった。
 切り出された灰石を積み上げてつくられている石造りの塔は、外側から見ると、出来た当初はさぞかし堅固で立派だっただろうと思わせる風情があった。それくらい塔の構えはどっしりとしているし、それなりに高さも幅もある。弓矢を番えるのに都合のよさそうな窓も点在していたから、かつては城塞として使われていたのかもしれない。
 だが、一歩塔の中に踏み入れてみれば、塔の衰退ぶりは目に明らかだった。
 塔に入ってすぐ広がっていた空間には、土埃が堆積しているばかりか草木まで生え、まるで外の様子と変わりがなかった。ロイドが呆気にとられながらも、今いる螺旋階段に続く扉を見つけることが出来たのは、不自然に折れた低木の枝に気付いたからだ。でなかったら、草木に覆い隠された扉を見つけるのに、相当な苦労を要しただろう。ロイドは運がよかったのだ。
 ガキンッ、とロイドはほとんど階段の体をなしていない階段に、長剣の鞘先を再び突き立てた。暗い螺旋階段をロイドは延々と登り続ける。時折、思い出したように現れる明かり取りの窓から差し込む光が、鞘に反射してちかちかとロイドの目を焼いた。
 剣と同じく鋼鉄でつくられている鞘は、ロイドがこの生業をはじめてちょうど二十度目の報酬を得た記念に買ったものだ。道の途中で行き交った商人が広げた荷の中に、その鞘はあった。
 ジャックナイフなどは「重いだけだぞ」とロイドの選択を鼻白んだが、ロイドは存在感のある硬質な鞘を一目で気に入った。精緻とは言えないがらも表面にすっきりと施された幾何学文様にも、なかなか愛着を持っている。
(まぁ、実際のところ相当重いし、こんな時は余計身に沁みて思うけど)
 ほとんど急勾配の坂と変わらない階段に鞘を突き立てるたび、鞘に傷が飛ぶ。ようやく手に馴染んできた鞘が潰れてしまうことを懸念しないでもなかったが、今はこうでもしないと先に進めないのだから文句も言っていられなかった。
(あの時、ジャッキーの言う通りに革の鞘を選んで今と同じことをしていたら、剣の方まで駄目になってただろうな)
 だから、やはりこれで間違ってはいなかった。
 ロイドは階段の先に目線を上げる。ずいぶんと登ってきたはずだから、もうそろそろ階段の終わりが見えてもおかしくはない。
 仕入れた情報によれば、ここにはモンスターが一匹住みついているらしい。周辺の街が共同で出資しているせいか、今回ロイドが請け負ったモンスター討伐の成功報酬は高かった。単純に考えると懸賞金が高ければ高いほど、仕事の難易度はあがる。その分、成功すれば、ハンターとしての評価も等しくあがる。ハンターになってまだ日が浅く、名が通っていないロイドとしては、この仕事は何としても成功させておきたかった。
 ガキンッ、とロイドは鞘を階段に突き立てる。さらに鞘を突き立て、一歩進んだ先、ロイドは螺旋を描いていた階段の終焉と、その右側面の壁に設けられた扉を見出した。
 これまで扉につきあたるたび、一つ一つしらみつぶしに階を調べてまわってきたが、一向にモンスターらしき姿は見えなかった。ならば、いるとしたらもうこの扉の先にしかいない。
「よし」
 扉に向き合ったロイドは、衣服についた土埃を払って、杖代わりに使っていた剣を握りなおす。心地好い緊張感に息を吸って、ロイドは扉を押し開いた。


 はじめに目に飛び込んできたのは青空だった。溢れる光が目に沁み込んで、暗い階段室から外に出たロイドは眩しさに目を細める。靄を含んだ明滅を繰り返しながら、視界は次第に明瞭になっていった。
 ロイドは息をのんだ。
 ぽっかりと天井が開いている。そこにうっそうと茂る濃い緑の葉など存在しない。何に遮られることもなく、抜けるような青空が、石造りの天井に切り取られて広がっていた。
(ここが、空から見えた場所)
 ロイドの確信を後押しするように、ズオォォン、という重低音が石造りの壁に反響した。ロイドは周囲にすばやく目を走らせる。
 広間のような開けた部屋には、ところどころ岩の塊が転がっていた。その大方は崩落した天井なのだろう。岩はよく見れば壁と同じく、切り出された石を組み合わせて作られた塊であったし、部屋に点在する巨石の真上は、たいがい天井に穴が開いていたのだ。
 ロイドは、息を詰める。
 部屋の右側――ちょうど最もうず高く積み重なっている石屑の影に“それ”はいた。
 ロイドは、慎重に足を繰り出し、場所を移動する。ざり、と床を踏みしめた長靴が砂を噛んだ。
 ズオォオォン。
 恐らくあれが、討伐を依頼されたモンスターなのだろう。
 鼻腔が膨らんで、閉じる。その度に響く重低音が辺りの石壁を震わせていた。紺碧の竜の鼻先では土埃が繰り返し巻き起こっている。
(思ったより大きいな)
 ロイドは得物の全身を目に入れて、顔を顰めた。紺碧の鱗を持つ竜の身体は、ロイドが知る火竜のしなやかな体つきにと比べると随分ずんぐりとしている。大きさだけならば、目の前の竜は、ジャックナイフの身丈の三倍はゆうに超えていた。押し潰されずとも、あの太い腕や脚、あるいは尾、そのどれかでほんの少し叩かれでもしたならば、こちらが払わねばならない代償は高いに違いない。
 だが、とロイドはほくそ笑む。
(ジャッキーのに比べたら、あれは絶対薄いよな)
 目の前の竜の身体をびっしりと覆っている鱗は、彼の火竜のものとは違い、簡単に剣を通すだろう。図体に対して小さな翼を折り畳み、悠然と床に寝そべっている竜の首や腹は、竜が寝息をつく度に柔らかそうに上下している。脈打つ血管が見えるかのようだった。それくらい皮膚の動きが柔らかい。ジャックナイフが息をする場合とは明らかに様相が違っていた。
 剣さえ通ることがわかれば、大きさは大して問題にはならない。あとは、剣を扱う己の技量次第だからだ。
 しかも、間のよいことに竜は完全に寝入っていた。
(いける!)
 確信して、ロイドは長剣を構えた。
 すばやく目測で竜との距離を測り、一気に駆けだす。――だが、ロイドはそうしようと強く踏み込んだところで、足を止めた。
 自分へ向けられた強い視線に気付いたのだ。
(何だあいつ)
 いまさらながら、ロイドは自分の他にも、この塔に人がいたことを知り、動揺した。
 悠々と寝入っている竜の左側の瓦礫の陰から、男がこちらと竜を見比べ、睨んでくる。男の歳はロイドとあまり変わりがないように見えた。男が手にしているのは双剣。動きやすさを重視しつつ、要所にはしっかりと防具をつけていることから考えても、相手はロイドと同じくハンターを生業としている者だろう。
 しかも、相手は自分よりも先にここまで辿りついているのだから、なお具合が悪い。ロイドは自然、自分の顔が強張っていくのがわかった。
(……どうする?)
 ロイドは、少し走り込みさえすれば、すぐ手が届きそうな場所にいる紺碧の竜と、その左側に佇む同業の男とを見比べる。
 倒せる自信があるとは言え、目の前で寝そべる竜はやはり巨大だ。もしも竜が目を覚ましてしまった時は、仕留めるのにいくらか手間がかかるだろう。いっそ向かいにいる男と協力関係を結んでしまった方が、仕事はぐんと楽になるに違いないし、なにより確実性が増す。
 協力を要請するべきか迷い、ロイドは相手を注視した。しかし、ロイドが相手の出方を伺っていた最中、男は露骨にロイドから顔を背けたのだ。
 ちっ、と。男が打った舌打ちまで聞こえた気がした。
 その瞬間、ロイドの中で何かが弾けた。ふっきれた、と言ってもいい。
 自分の身丈よりも長い長剣を両手に握りしめ、ロイドは竜に向かって走り出す。
「俺の得物だ!」
 ロイドは叫ぶ。同時に、相手も瓦礫の影から竜に向かって飛び出していた。その姿をロイドは視界の端で捉える。どちらが先に目的の舞台に着いたかは関係ない。肝要なのは、モンスターを倒したのが“誰か”というその一点だけだった。
 男が持っている双剣に比べると、ロイドの長剣は格段に長い。
(もらった!)
 ロイドは竜に向かって長剣を振りかざす。
 その行く手を遮るように、ロイドの胸へ突き出された片刃の剣を、ロイドは寸でで、身を捩って避けた。後方に飛び退りながら、まろびそうになった歩並を辛うじて整える。
 続けざまに、先とは他方の剣がロイドの胸前で横に薙ぎ払われた。寸前で長剣を構え、男の剣先を防いだロイドは、相手の力を受け流して、刃を振り払った。対峙する男の表情は読めない。顔つきを微塵も変えぬまま、男は大きく振りかざすようにして双剣を交互に繰り出してくる。
 あまりにも大ぶりなその動きは、ただおもむろに腕を振り回しているだけのようにロイドには感じられた。
 全部を弾く必要もない。むしろ、剣を使ってちくいち相手の攻撃を防いでいたら、自分も相手も、無闇に怪我をすることになりかねない。そう判断したロイドは剣の使用を最小限に留めると、身をかわしながら相手の無茶な剣を避けた。
 それでも、上手くかわしきれなかった時に切り結んだ剣戟の金属音が、石造りの広間に反響する。
 砂埃が堆積している床は滑りやすかった。長剣を凪いだ次の瞬間、思い切り砂に足を取られたロイドは、よろめく。相手にとっても予期せぬできごとだったに違いない。相対する男が寸の間動きを止め、間合いが開く。
 その時分になってようやく、ロイドは自分の今いる場所が、得物である竜の立ち位置と随分離れてしまっているという事実に気付いた。加えて、竜との距離を阻むように同業の男が立ちはだかっている。
(こいつ、いったい何なんだ?)
 ロイドは眉根を寄せ、内心首を傾げる。
 だが、ロイドが悠長に思考を巡らせていられたのもここまでだった。
 向かい合う男の背後で、ずんぐりとした紺碧の巨体が持ち上がる。さっきまで聞こえていたはずの寝息は、気がつけば絶えていた。
 気色ばんだロイドに、男は訝しげな顔になる。剣呑な気配を敏感に察した男は、自身の背後を振り返った。
「――ばっ……! 屈め!」
 言うが早いか、ロイドは相対していた男の腕を掴んで、引っ張っる。その勢いのまま、ロイドは男の身体を壁側に放った。ガキンッ、キンッ、と剣先が石床に跳ねて擦れた音がする。投げ方が雑だったか、とロイドは頭の片隅でちらりと思った。
 男を隠すように、ロイドは紺碧の竜の前に立ちはだかる。
 紺碧の竜は、はっきりとこちらに視点を合わせていた。縦細の金の瞳孔に、自身の姿が映りこむ。ロイドは不遜な仕草で、口の端をあげた。
 紺碧の竜は咆哮する。ひどい声だった。音量として認識するよりも早く、頭痛を覚え、眩暈が視界を揺らす。ロイドは揺れる地面を無視して、右側に跳躍すると竜の左足を狙って切りつけた。
(思っていた通りだ)
 共に旅をしているジャックナイフに比べれば、眼前の竜の皮膚は随分と薄く柔らかい。あっさりと裂けた切り口からは、血が流れはじめる。致命傷には程遠い分、血の量は大したことがない。それでも、眼前の竜は狂ったように雄たけびを上げ、暴れだした。
 怒りに任せて、竜は巨体を奮う。竜が暴れるたびに、塔は揺れた。
 ぱらぱらと降って来た小石に気付いて、ロイドは顔を上げる。瞬間、はっきりと亀裂を走らせた天井は、音を立てて崩れ落ちた。
「――っぶな!」
 尻もちをついて、ロイドはさっきまで自分が立っていた場所に顔を向ける。もうもうと土埃を立てるその場所には、抜け落ちた天井が残骸として積み重なっていた。
「助かった。ありがとな」
 ロイドは振り返って、危ういところで自分の身体を引っ張ってくれた男を見た。男は無言で頷き、暴れ続ける竜と、みしみしと悲鳴をあげて揺れ動く石壁とを見比べた。
「崩れるな」
「ああ」
「この調子だとあいつを倒すまで塔が持たない」
「だろうな」
 ロイドは男の言葉に同意する。どうする、と男の目は尋ねてきた。その間にも、紺碧の竜は太い手足と長い尾を手当たりしだいに奮い、石壁を壊していく。二人がかりで、突然襲い掛かって来る竜の攻撃に対応しながら、ロイドは破顔した。
「俺が、あれを引きつけててやるから、とりあえずお前はいったんこの塔から降りろ」
「は?」
「どうせ崩れるんなら、利用しない手はない」
 男は怪訝な顔をする。「どういうことだ?」と尋ねてくる男に、ロイドは詳細を明かさなかった。ただ、「いいから」と、ロイドは彼を急きたてる。
「お前はどうするんだ」
「俺は俺で、考えがある。こっちのことは気にしてくれなくていい。さっさと行け。正直なところ、お前がきちんと下りきるまで塔が持つかは約束できない」
 実際、今、急いで階段を下りはじめても、無事に外に出られるかどうかは五分五分と言ったところだろう。
 男は逡巡しているようだった。そうこうしている間にも、残り時間は着実に削られて行く。
 ロイドはとうとう肩をすくめた。相手が何を選択するかまでは、強制できない。あとはもう相手の意志に委ねるしかなく、ロイドは早々に視界から男を追い出すことにした。
 手近な瓦礫を手にとって、ロイドは紺碧の竜の目に向かって投げつける。すさまじい咆哮と共に、竜は鋭い爪先をロイド目がけて奮った。ロイドは爪を剣で受け止め切っ先をわずかにそらし、左方向へ転がる。
「来い! こっちだ」
 剣を振って、ロイドは螺旋階段に続く扉とは逆方向の窓へ向かって走り出す。床に散乱する瓦礫と頭上から落ちてくる天井の破片――そのどちらにも気を配りながら、竜の気を引くのは、なかなか骨の折れる作業だった。
 要所要所で、挑発するように竜の身体を剣で切りつけながら、ロイドは時間をかけて広い部屋を横切る。塔の揺れは留まる気配がない。むしろ時間を追うごとに塔の揺れ幅が確実に広がっていっているのが、駆けまわり続けるロイドにも感じられた。
 一層強い地揺れが起こって、これまで以上に足元が大きく傾ぐ。
(そろそろ限界か?)
 瓦解する音がそこここに満ちる。ばらばらと堰を切ったように、瓦礫が降ってくる。怒りに我を忘れ、必要にロイドを追いまわしていた紺碧の竜は、亀裂の入った石床に足を取られて、巨大な身体を傾がせた。竜の真上から大量の石のつぶてが降り注ぐ。石床の裂け目が音を立てて割れ、とうとう床が抜けた。
(どうにか、上手くいったか?)
 階下に落ちていく紺碧の竜を目で追って、ロイドは肩で息をしながら笑う。石床は、大きく底が抜けている。これだけ穴が開いたにも関わらず、崩落に巻き込まれなかったのは運がよかった。
(あいつも、無事に間に合っていればいいんだけどな)
 ロイドは両膝に手をつくと、深く息を吸った。砂埃の混じる空気が、肺を膨らませる。舌先には、砂塵が残る。それでも呼吸だけは、一瞬で整った。
(よし!)
 ロイドは心の中で、一人頷いて、残りの距離を一気に駆けた。
 塔が崩れる。
 ロイドは朽ちかけた桟を蹴って、窓から外へ思いっきり飛び出した。
 上空の風が髪をなぶる。崩落する塔と、それを取り囲む濃い緑の森。整然と広がる森の上空に、一点の紅い染みを認めてロイドは声の限り叫んだ。
「来い! ジャックナイフ!」
 瓦礫と共に、ロイドは落ちる。浮遊感は一瞬だった。
 空に浮き出た深紅の染みは、すぐにくっきりとした姿形を現しはじめる。折り畳んだ翼をぴたりと胴体に添わせ、猛烈な勢いで滑空する火竜の姿は、まるで空を切り裂いているかのようだ。
 慣れ親しんだ硬い鱗の感触が手に触れる。
 ロイドは、ぐっ、とジャックナイフの首を引き掴んで、その背にまたがった。
「まったく。何をしているんだ、お前は」
「悪い。助かった、ジャッキー」
 ロイドは言い訳をするように、ジャックナイフの首元を掌で叩き、労った。
「まぁ、でも、仕事は予定通り終わったんだし、いいじゃないか。今頃、あいつも瓦礫の下で伸びてるだろ」
「さて、どうだかな」
 ふん、とジャックナイフは鼻を鳴らすと、深紅の翼を左右に広げ、上体を起こした。風の抵抗をまともに翼に受けて、ジャックナイフの身体は急激に上昇する。
 ちょうど塔の最上階があった辺りまで上昇したジャックナイフは、ゆったりとその上空を旋回した。
「で、ロイド。あれのどこが伸びているって?」
「へ?」
 からかいを含んだ声音でジャックナイフに言われ、ロイドは火竜の背から眼下を覗きこむ。覗き、検分して、火竜の言わんとしている意味を理解したロイドは思わず苦笑いになった。
「あちゃー。なんか平気っぽい?」
「“ぽい?” じゃないだろう」
 ロイドとジャックナイフが見下ろす視界の先で、塔の崩壊と共に瓦礫に押しつぶされたはずの紺碧の竜が石塊の中から顔をだした。竜の身体に押し上げられた瓦礫の山が均衡を崩して、再び崩落をはじめる。もうもうと砂塵が立ち起こるのが、上空からでも充分見てとれた。さすがに竜の足元はふらついているが、瓦礫の上に立った竜は、図体の大きさにそぐわない翼を数度ばたつかせるくらいの気力があるようだった。
「確かに、下敷きになったはずなんだけどな」
 しかし、上から見ている限り、塔の瓦解に際して紺碧の竜が受けた傷は、残念なことにそう深くはなさそうだ。
 ロイドは首を捻る。思考を巡らせながら、眼下を見渡していたロイドは、崩れた塔から少し離れた場所に、人影が立っているのを見つけて「あ」と声をあげた。
 あの男も塔が崩壊する前に、どうにか抜け出せたらしい。ロイドは男に向かって軽く手をあげる。遥か小さく見える人影が、同じように手をあげ答えを返してきたのを見て、ロイドはあげていた手を二三度振った。
「何をしてるんだ、ロイド」
「いや、ちょっとな」
 地上では紺碧の竜が相変わらず耳をつんざく凄まじい奇声を上げている。その声が、先程とは調子を変え、ギギギ、ギギギギギ、と一定音を繰り返しはじめたことに、ロイドは驚いた。
「なんだ?」
 ロイドは怪訝さに、眉根を寄せる。ロイドが見ている前で、紺碧の竜は一定音を繰り返しながら、ばっさばっさと翼を激しく揺らした。
 同じく眼下の様子を上空から眺めていたジャックナイフは、不快も顕わに舌打ちをする。
「あいつ、あろうことか、このオレを威嚇してるぞ」
「“このオレ”って、何様だよ」
 ロイドの呆れを滲ませた物言いを無視して、ジャックナイフは紺碧の竜を睨みつけた。紺碧の竜のはばたきは、いよいよ強さを増す。
 ――と、翼を揺らしていた竜の身体が、宙に浮きあがった。思いもよらない竜の行動にロイドは、感嘆の息を吐く。
「あ。あいつも飛べたのか。あんまり図体がでかいから、あの翼じゃ飛べないだろうと勝手に思い込んでた」
 どおりで、とロイドは一人納得する。
(塔が崩壊しても、無事でいられるわけだ)
 崩れ落ちる間際、塔から飛び降りたロイドがジャックナイフを呼んだように、紺碧の竜も飛翔して衝撃を軽減させたに違いない。
「だから、お前はバカだって言うんだ」
 ジャックナイフは上昇してくる竜に目の焦点を合わせながら、ロイドに対して鼻白んだ。
「……上等じゃないか」
 ジャックナイフは、真っ直ぐに竜を見下ろしたまま苦々し気に呟いた。どうやら自分がここにいるにもかかわらず、紺碧の竜に歯向かわれていることが、相当腹にすえかねているらしい。
「行くぞ、ロイド」
「それはこっちの台詞だ」
 ジャックナイフに言われるまでもなく、ロイドは上体を下げ、火竜の背に腹ばいになる。
 ギギギ、ギギギギギ、と絶え間なく続く威嚇音が煩わしい。上昇してくる紺碧の竜に対して、ジャックナイフは身体を急降下させた。
 すれ違いざまに、ジャックナイフは紺碧の竜に向かって炎を吐き出す。すぐさま身を翻し、急上昇するジャックナイフの勢いにのって、ロイドは紺碧の竜の腹を切り上げた。
 噴き出した鮮血を、ジャックナイフはゆうゆうと避けて飛ぶ。傷を負いながらも上昇を続ける紺碧の竜の周りを、ジャックナイフは旋回しながら、再び炎を吐きつけた。
 紺碧の竜の身体が左にそれる。ジャックナイフはそれを追い、紺碧の竜の周りを上に下に旋回する。
 逃げ切れるはずもない。火竜の速さはジャックナイフ自身が自負しているだけあってロイドが過去に出会ったことのあるモンスターの中では最速を誇った。いつの間にか、ギギギ、ギギギギギ、という威嚇音も消えている。戦意を失ったのだろう。
 逃げに徹し始めた紺碧の竜の上方を、ジャックナイフは容赦なく位置取った。ロイドはジャックナイフの背から飛び降り、対する竜の左翼を叩き切る。
 ロイドが剣を振り下げるのと同時に、紺碧の竜の身体も空に沈む。
 ジャックナイフが降下するロイドの身体を拾い上げた目の前で、左翼を失った竜は地上に向かって落ちていった。
 上空に留まって、ロイドとジャックナイフは落下する紺碧の竜を眺める。
 しかし、紺碧の竜が落ちて行く先――瓦礫の山から少し離れた木立の影に立ちつくし、空を見上げている男に気付いて、ロイドは一瞬にして顔色を変えた。
「――ばっ!」
 何やってるんだ、と叫びかけたロイドの視線の先で、男は手にした双剣を落ちてくる紺碧の竜に向けて構える。
 ひどく美しい様だった。
 地響きと共に倒れた紺碧の竜は既に事切れている。たったの一撃で最期の留めをさしたのは、地上に立つ男だった。
「あいつ……!」
(あの時、思いっきり手を抜いてやがったな!?)
 男は平然とした様子で、剣に付着した血脂を払い、早々に鞘におさめている。
 一連の動作が、いっさいの無駄を排除したものだった。
 塔の最上階で手を合わせた時に見た、あの粗野な動きからは想像もつかない。
「お前、強いんじゃんか」
 地上に降り立ったジャックナイフの背から、ロイドは男に呼びかける。
 男はロイドを見上げ、ふっと笑みを吐いた。
「誰も弱いとは言っていないはずだが……そっちもなかなかのものだな」
 男の言葉に、ロイドは「まぁな」と肩をすくめてみせる。
「ロイドだ。こっちは、ジャックナイフ」
 ロイドは火竜を叩いて紹介し、「あんたは?」と問う。
「カークだ」
「そうか。なら、カーク」
 呼びかけて、ロイドはカークに手を差し出した。つき出された手を前に、カークは不思議そうな顔をする。
「これも何かの縁だろ。今度は、手ぇ抜かずにちゃんと戦ってくれよな?」
「そうなったら、お前が負けてたぞ、ロイド」
 笑って指摘するジャックナイフに、ロイドは「やってみなきゃわからないだろう」と息を巻いて悪態をつく。
 言い争いをはじめたロイドとジャックナイフを前にして、カークは驚いたように目を丸くした。
「人語を理解するなんて相当珍しい」
「何だと? 俺をそこらの低脳と一緒にするな小僧」
「まぁ、この通り、口は悪いけど意外に面倒見はいい奴なんだ」
 カークは答えかねたのか曖昧に相槌を打つ。ジャックナイフは不機嫌そうに鼻を鳴らした。ロイドは、ジャックナイフの背上で、にかりと口の端を上げる。
「でだ。提案なんだけどさ、カーク。分け前はきっちり折半でいいだろう? あれに留めをさしたのはカーク――お前だけど、そもそも俺とジャッキーが打ち落としていなかったら、それもできないからな」
 どうだろう、とロイドは首を傾げる。
「ああ、それでいい。まさにその通りだしな」
 カークは笑って、ロイドの掌の前に、自身の手をさし伸ばす。
「なら、取引成立だな」
 ぱん、とロイドはカークの手を打った。
「俺たちは先に戻って、報告しておくから。――ジャッキー」
「ああ」
 カークに軽く手を振って、ロイドはジャックナイフの背を叩いた。ジャックナイフは息を吐いて、地面を蹴る。軽やかに深紅の身体は宙に上昇した。
 顔に打ち当る風が心地好い。火竜が翼をはばたかせる。ぐん、と速度が増した。
 地上に立って、こちらを見上げているカークの姿があっと言う間に小さくなる。
 空を流れる雲の端は金色に輝きはじめていた。対して、眼下に広がる森の影は濃く深さを増している。
 もう数刻もたたないうちに夕暮れが訪れ、陽が沈むのだろう。
「なんだか今回は、予想以上に疲れたな?」
 ロイドは吹きつける風に向かって、思い切り伸びをする。
 落ちるぞ、と小言を吐きだしたジャックナイフに対して、ロイドは「まさか」と笑った。



◇◆◇◇◆◇◇◆◇


「ジャックナイフ」
「は?」
 火竜は、地べたに寝転んでいる青年に問い返した。あれから随分と長い間、押し黙っていた青年が声を発したのは、そろそろ岩棚を離れてしまおうと火竜が身を翻した、まさにその時だった。
「いい名前じゃないか? お前が急降下するところ、空気を切り裂いているみたいで相当かっこよかったし」
「だからどうした」
「いや、一緒に旅をするなら、名前があったほうがいいだろう?」
「は!?」
 火竜は耳を疑って、頓狂な声をあげる。
 にかり、と笑って、火竜を見上げた青年は断言するように言った。
「お前より、強い奴はいるぞ、絶対」
 それは火竜にとって、いささか気に障る言葉だった。自然、青年を睨む目つきが鋭くなる。
「でもって、さっきも言った通り俺はいつか最強のハンターになる。だから、その時が、ジャックナイフが空で一番になる時だ」
 根拠もなく、火竜に打ち負けたはずの青年は堂々と宣言する。
 火竜は、溜息をついた。
「お前がバカなのは、よぉーくわかった」


◇◆◇◇◆◇◇◆◇


 それでも、彼らの旅は、あの日はじまり、そうして、今日これまで続いてきたのだ。




end.