or not?



「ねぇ、まだ幸せ?」

 彼女は寄せていた唇を彼の額からそっと離すと、彼に問いかけた。
 彼は押し黙ったまま、目の前に立つ女を見上げる。見下ろしてくる両眼には憂いなど映らない。きっとその時が来ても、彼女は今と同じように静謐な眼差しを崩すことなく彼の答えを受け入れるのだろう。そうして彼女はいとも簡単に彼を離してしまうのだろう。
 かつて彼女は「絶対に幸せになれないわよ?」と言っていた。それから、幸せになって欲しいのだとも。
 幸せになれないのは、どちらにとってもそうなのだろう。けれども、彼女が口にするのは決して自分のことに関してではないのだ。
 『幸せになって欲しい』と。
 願うことは同じなのに、このままの二人で共に生を全うしようとすれば、彼らの望みは絶対に叶わない。少なくともどちらか一方は幸福で満たされることなどない。
 だから彼女がたった一つ憂うのは、彼自身が彼女の傍にいることで、不幸になるという事実だけなのだ。
 彼はそのことをよく理解していた。
 彼が彼女の元に居続けることとそが、彼女に哀しみをもたらすということを。
「幸せだ」と答えれば彼女は微かな喜びと共に大きな絶望を覚えるのだろう。
「幸せではない」と答えればわずかばかりの悲しみと共に、彼女は大きな安堵を覚えるのだろう。それから、きっと嬉しそうに微笑んで、去ってゆく彼を見送るにきまっている。
 彼はたやすく想像のついてしまう結末が嫌でしかたがなかった。
 どうして、ようやく掴んだこの手を自ら離さなければならない、と彼は胸を塞ぐ苦しさから逃れる為、すがるように、繋いだ手に力を込めた。
 彼女からしてみれば、酷く残酷でしかないのであろう行為。分かっていながら、彼は何度も繰り返してきた。
 やはり今回も切なさで歪みゆく彼女の顔へと、彼はもう片方の手をさしのばした。彼女はためらいがちに目を伏せた後、彼の手に自身の手のひらを添えた。
 彼は言う。
「まだ幸せじゃない」
「そう……」
「だから言って。不幸になりそうだったら。そうしたら、すぐに離れるから」
 彼女は浅くため息をついて、彼の手を受け入れる。頬を包む掌に、彼女は瞼を閉じた。
 彼は彼女に尋ねた。「ねぇ、まだ幸せ?」と。
 彼女は一度身を震わせてから、ゆっくりと目を開く。
 そうして、彼女もまた、前回と同じ言葉を繰り返す。

「まだ……幸せじゃない」

 彼らはまだ訪れるはずの幸福を知ったことがない。
 不幸とは幸せにあらざるものだと聞く。
 ならば、幸福を知らない者たちには、どれが不幸かなど判断できるはずもない。
 だから、幸せというものを知らない彼らにとっては、その先にあるのだろう不幸はまだ遠いのだと。
 けれど、もしも至福の時を迎えてしまえば、その向こうにはもう不幸しか残されていないということだけは、彼らでも嫌というほど知っていたから。
 彼らは「まだ幸せには、なっていない」のだと、そう自分たちに繰り返し言い聞かせる。
 彼らは共にいる虚しさを慰め合いながら、少しでも長く共にいられる方法を愚かに、そして何度も探し求める。

 彼女は頬から彼の手を離し、彼の掌に口を寄せた。
 彼は繋いでいる彼女の手を自分の方へと引きよせて、彼女の手の甲に唇を押しあてる。


「――まだ、幸せじゃない」