こんにちは、ルヴァンの愛しのお嬢さん


「こんにちは、ルヴァンの愛しのお嬢さん」

 そう言ってロザリーの両手をとった僕の祖父は、白い口髭で彼女の手の甲に恭しく口づけた。
 夏のはじまりのさわやかな青空の下。咲き誇る庭先のつるバラの黄色い垣根の前。ロザリーが、ぱちくりと緑の瞳を瞬かせたのを、僕は彼女のすぐ隣で見ていた。
「お嬢さんのことは妻の手紙でよく聞いているよ。僕らの小さなルヴァン天使が、もうずっと隣に住んでいる君に参っているってね」
 膝を折り、視線をロザリーにあわせた姿勢のまま、祖父は彼女ににっこりと笑いかける。
「お嬢さんには申し訳ないが、今日はルヴァンを返してもらってもいいかな? 少し早めの夕食に、どうしても彼もつれていきたくってね」
 その日、遠く離れた戦場から三年ぶりに帰ってきた祖父は、勲章がいくつもついた軍服を脱ぐのさえ惜しんで僕に会いに、そうして夕食の迎えに来たらしかった。そんな祖父のことを、僕はこの日ほど恨めしく思ったことはない。
「ええ、もちろん」とどこか夢見がちに答えたロザリーの姿も、「ありがとう、お嬢さん」と答えた祖父の姿も、僕は今でも鮮やかに思い出せる。
 ロザリーが五歳、僕が七歳だった遠い昔の夏のはじまりのあの日、あの瞬間。
 隣の家に住んでいた僕の初恋の女の子は、昔話に出てくる白馬の王子なんか見向きもせずに、目の前に現れた僕の祖父に恋に落ちた。


 それからの日々は、僕にとって大変なものになった。
 初恋は叶わない、とはよく言ったもので、ロザリーの初恋ももちろん叶わなかった。
 幼い少女の無邪気さで気持ちを告げたロザリーを、僕の祖父はごまかしもせずに振ってしまった。
 つるバラの生け垣の隙間に隠れて、大粒の涙を流すロザリーを慰めながら、内心ほっとしたのも束の間。
 あの日を境に、ロザリーが胸をときめかせるその恋愛対象が、僕よりもものすごく年上の男性――いわゆる「おじいさん」になってしまったことが大いに僕を悩ませたのである。
 しかも、ロザリーの一番の憧れの対象が、大往生するその日まで、日に日に歳を重ねてしまったものだから、どう足掻いても僕では簡単には追いつけないくらい、彼女の理想とする男性の年齢はあがってしまった。
 白髪と、皺があるのは必須条件。 
 歳は重ねているだけよい。
 加えて、あの日に似た軍服を着ていると、なおよい。
 笑うと、目元に、口元に、皺が大いによると、さらによし。
 僕が懲りずにロザリーにプロポーズした初夏の日、彼女は昔と理想が変わっていないことを声高らかに並びたてた。
「だから、ルヴァン。もういい加減、こんな私なんかやめて、別の人を選んだほうがいいと思うの」
 ロザリーは両腰に手を当てて、黄色いつるバラの垣根の前に跪く僕を見下ろし、言った。
「そうしたら、その似合わない口髭をし続ける必要なんてなくなるでしょう? 私にはどうしても無理だったけど、あなたが無理をしなくても、あなたのことをそのまま愛してくれる人は、絶対にいるわ」
「だけど、ロザリー。君が僕を選ばなかったら、僕も他の人と結婚させられてしまうけど、君だって結局、僕じゃない他の誰かとは結婚されてしまうでしょう?」
 結婚は家と家の結びつき。ちょうど隣り合う家の僕らは、お互いの年齢が釣り合うから、そうして僕のロザリーに対する想いが知られてしまっているから、今は話にもあがらないが、そうでないなら、親がどこかで頃合いの相手を見繕ってくるだろう。
 その誰かだって、彼女の理想には到底かなわないはずだ、と僕が指摘すれば、ロザリーは肩をすくめた。
「だって私にとって結婚は、どうしたって、‟好きになった相手と”、なんて夢のまた夢だから、初めからそういうものだって諦めているもの。私の感情のありかなんて結婚には関係ないから相手が誰でも変わりはないの。だけどね、ルヴァン。私、あなたには愛し愛される幸せな結婚をしてほしいのよ。こんなこと私が言うのは、おかしいかもしれないけど、私にとってあなたはずっと大切な幼馴染なんだもの」
「結婚相手が誰でもいいのなら、そろそろ僕で手を打って、諦めてもいいんじゃない?」
「だからね、ルヴァン」
「大丈夫。君が他のおじいさんたちを好きだった間も、僕は君が好きで幸せだったから、君が僕を選んでくれれば、それだけで絶対幸せな結婚ができると思うんだ。それに僕、昔から祖父によく似ているって言われる」
 だから、と僕は笑う。
「僕といれば、きっとすぐに、時が君の好みに追いつくよ」
 僕の提案に、ロザリーは緑の瞳を瞬かせる。その仕草は、少しだけあの幼い夏の日の少女に似通っていた。


 観念して僕で手を打つことにしたロザリーは、僕らの最後の子どもが家から巣立っていくのを、つるバラ香る玄関先で見送った時、プロポーズの日に僕が言ったことがあながち外れてはいなかった、と。
 急に指先で、僕の顎を掴んで自分のほうを向かせ「あら本当に、少し素敵になってきた」と意外そうに笑った。
 口髭はまだまだ白くはないけれど、目元と口元に寄った皺が少ないなりに、大いに期待ができそうだと、指先で僕の皺をくすぐりながら、楽しそうに講評を述べた。


「こんにちは、ルヴァンの愛しのお嬢さん」
 寝台に腰をかけた僕は、枕辺でうつらうつらと目を覚ましたロザリーに声をかけた。
 ロザリーは、うすい緑の瞳をゆったりと瞬かせる。
 それを待って、僕は毛布の上で組まれていたロザリーの両手をとり、白い口髭で彼女の手の甲に恭しく口づけた。
 やわい皺をめいいっぱい両頬に寄せて、彼女はあの少女の頃と変わらぬ微笑みで恥ずかしそうに、はにかむ。
「あら。案外、服って関係がなかったのかしら」と、零れた呟きは聞こえなかったふりをする。
 ――ほらね、言ったでしょう。きっとすぐに、時が君の好みに追いつくって。
 ほくそ笑んで、心の中でいつだってそう返す僕の言葉を、もし口に出してみたなら、ロザリーはどんな反応するだろうか。夢想しながら、結局、これまで一度も試したことはないけれど。
 もし、あの日のロザリーに聞いたのなら、『半分はその通りになったけど、半分は間に合わなかったわね。あんまり待たせすぎよ』と苦笑するかもしれない。
 今のロザリーは、幼い頃の遠い日々の記憶と、起きている間の短い現在を、蝶がつるバラの花を移動するように、ひらりひらりと行ったり来たりしている。
 残念ながら、‟僕”が彼女の好みに追いつくには、時がいくらかたりなかった。
「きっと今度ルヴァンに教えないといけないわね」
「大丈夫。ルヴァンも知っているから」
「そうかしら?」
「そうだよ」
「ふふ。よかった」
 笑うロザリーの頬に唇を寄せて、まるい彼女の額をなでる。
 彼女はゆったりと目を閉じてしばらく、すぅ、と寸の間の眠りに落ちる。やがて、やおら睫毛をふるうと、薄い緑の瞳をのぞかせた。
 不思議そうに世界を把握しはじめたロザリーに僕は、声をかける。
「こんにちは、ルヴァンの愛しのお嬢さん」
 彼女の手をとり、白い口髭で口づければ、薄い緑の瞳を瞬かせて、ロザリーがはにかむ。
「今日は庭に出てみない? よく晴れていて、庭の黄色いつるバラがとてもきれいだよ」
「ええ、もちろん」と、どこか夢見がちに答えたロザリーの指先に、僕は「ありがとう、ロザリー」と口づけた。