01. 「俺には死ねない理由があるから」



 勇(ゆう)は、群衆をかきわけながら進んでいた。
「お願いだ、どいてくれ! どいてくれ!」
 先程から声のあらん限りに叫んで訴えているのだが、道は一向に開く気配がない。それどころか時折、向けられるのは、辺りを取り囲む人々の白けたような、蔑むような視線だけであった。
 彼は悔しそうに歯噛みする。諦めることができなかった。
 この人だかりの向こう。目的の場所まで、残すはわずか数歩なのだ。彼はここに到達するまで臓腑が破裂するのではないかと思うほどの痛みと戦いながら、それでも足を止めることなく駆けてきた。苦しかった道のりを思い出し、勇は再度勇気を奮い立たせて、手を伸ばす。
「あと……、あと、少しなんだ!」
 腕がちぎれてしまいそうだ。限界まで伸ばした手が、人々の隙間を縫い、目的の場所に近づいてゆくことだけに彼は意識を集中させた。人が動く度に彼らの合間から、目指してきた場所がちらちらと目に映った。そこで、つい気を緩ませてしまったのがいけなかった。
 ドンッ、と後ろから押された勇は呆気なく倒れ、膝をついた。
 欲にまみれた周りの者たちが彼に気付くはずもない。勇は容赦なく踏みつけられた。
「――ぐっ……!」
 地に這いつくばったまま、彼は呻く。何度も襲い来る痛みに目がくらんだ。蹴られるうちに口の中が切れてしまったのだろうか。鉄錆びに似た血の味がする気がした。目の前が暗くなる。
 勇は自身の拳を爪が食い込むほど強く握りこんだ。消えゆく意識を留めようときつく握りしめる。
「――駄目だ……まだ死ねない。まだ……俺には、死ねない理由があるから」
 彼は顔を上げた。きっと先を睨み据え、立ち上がろうと、引き寄せた腕に力を込める。



「おばちゃーん! きのこハンバーグ丼ちょうだいっ? あと、よもぎもちあんぱんも!」
「――ぐぇっ……!」
 妃沙(ひさ)は、ピーンと手を伸ばして自身の存在をおばちゃんにアピールした。より最前列に近づくためになら、見知った者の上にだって戸惑いなく飛び乗る。
 勇は再び地面とお友達にならざるを得なかった。
 妃沙は軽々しく、ひょいっと彼の背に着地したのだが、すでにぼろぼろであった彼の方にしてみれば、彼女の技の威力は尋常ならざるものでしかなかった。
「はい、五百円ね」
「ありがとー!」
 五百円玉と引き換えに、妃沙はビニール袋に入った今日のお昼を受け取る。「今日もよき収穫であった!」と彼女は友人の背から床へとひらりと舞い降りた。
「なーかーやーまー!」
「おやおや、鈴木君。今日も悪いねー」
「“悪いねー”じゃない!」
「じゃあ、そんなところに寝っ転がっている君が悪い!」
 ビシッと人差し指をつきつけて、妃沙は不敵にほくそ笑む。
「それよりも鈴木君。早くしないと、丼ものが売り切れちゃうよ。さっき、残り三個だった」
「――なっ!」
「健闘を祈る」
 じゃっ! と片手を上げ、教室へと向かい始めた妃沙を見送ることなく、勇は売店へと急いだ。この学校では、男女関わらず丼もの弁当シリーズが大人気なのである。だが、当然ながら全校生徒分用意されているはずもない。早いもの勝ちだ。その為、昼は決まって皆がこの狭い売店に押しかけて、丼もの争奪戦が開催されるのだ。
「おばちゃん!」
 勢い込んでやって来た勇に、この大盛況の売店を一人で切り盛りしているおばちゃんでも、思わず身を引いた。
 勇はまるで王に宝物を捧げるかのように、丼もの弁当を恭しく両手で掲げ、おばちゃんに差し出した。かろうじて残っていた最後の丼ものを奪取することに成功したのだ。
「これちょうだい!」
「……三百六十円ね」
 彼は四百円を渡して、三週間ぶりに手に入れることの叶った丼もの弁当をビニール袋ごと胸に抱きしめた。不自然に零れ出た笑みがニマニマと止まらない。当然返ってくるべくして返って来たおつりの四十円が、瀕死の局面で奇跡的に手に入ったHP回復アイテムのように思えてしまうほどの喜びようであった。


***


「おやおや、どうしたの?」
 きのこハンバーグ丼を口に運びながら友との昼休みを楽しんでいた妃沙は、ななめ向かいにどんよりと沈んだ暗雲を見出して声をかけた。
「丼、やっぱり、なくなってた?」
「いや、……」
 勇は億劫そうに首を振ると、ずさぁっと机に突っ伏した。
「……ア、アサリなんか嫌いだ!」
 戦利品――アサリの佃煮丼。
 勇はアサリが大の苦手で有名だった。
「ああ、確認せずに買っちゃったんだ」
 妃沙の友、聖良(せら)の的確なまとめ的呟きに、勇の周囲にいた者達は一斉に憐憫の眼差しを彼に向けた。
「どんまい」
「うわ、ばっかぁ……」
「ま、いつものことだし」
「明日はくる! 未来は明るいぞ」
「いや、明日も無理だろう」
「まー、そう思うけどな」
 ぐっ、と勇はこみ上げて来そうになる涙をこらえた。チャイムと同時に売店へダッシュした日々を思い返す。丼もの弁当が手に入らなかった日は、残りものの菓子パンで我慢してきた。それなのに。それなのに!
「俺の努力を返せーーーーーー!」
「いや、努力の問題じゃないでしょう」
「せ、聖良ちゃん……!」
 頬づえをついたままつっこんでみせた聖良に、妃沙は苦笑いを浮かべた。
「俺、まだ、泣かない……!」

 多分。きっと?
 勇は鼻の奥がつんと痛んでゆくのを感じて顔を覆った。