01



 千切れ飛んだ花弁が、風に煽られ巻きあがる。
 むせかえるようなあまい芳香の中、茂みの陰に身を縮め潜んでいたユンフォアは、息を呑んだ。
 男は裾を折り、庭の中央でしゃがみ込む。そうして彼は、庭一帯に咲き誇る花の一輪に、口を寄せた。見るからに柔らかそうな薄桃の花びらが、男の薄い唇にしっとりと吸い寄せられる。
 まるで空気に溶けてしまいそうなほどに淡い色合いの花。全ての色を吸い尽くしてしまうのではないかという少女の危惧に反して、彼は食むこともなく花弁を吐息で揺らすと、あっさり口から離した。
 肩を滑り背へと流れる紺色の髪。縁を飾る睫毛と同色の双眸は、口付けたばかりの花を見つめながら、ふっと綻ぶ。

「迷子かい?」

 ユンフォアは、どきりと心臓を飛び上がらせた。まさか自分に向けられた言葉ではないだろう。あちらからは隠れている自分が見えるはずがない。少女は茂みの奥でさらに身を縮こませ、辺りに視線を巡らせる。だが、どこを見渡しても、花の縁を指先で辿っている目の前の男以外、他に人はいそうにない。
 やがて、名残惜しそうに花を撫で終えた男は、地面に埋め尽くされた花々の元から、ゆったりと立ち上がった。
「お入り」と、男は声をかける。同時に、男の紺色の瞳が、ひたと少女を捉えた。
 緑濃い葉々の合間越しにも関わらず、容赦なくかち合わされた目。ユンフォアは身体を強張らせた。
 それで、ようやく彼女は、自分が茂みに隠れていたことが、男にはとっくに知られていたらしいと気付いたのである。
 片手に籠を携え、おずおずと茂みの陰から出てきた少女を、男は黙して待っていた。ユンフォアは、居心地の悪さを感じながらも、覚悟を決めると、紺色の髪の男がいる場所へと歩を進める。
 少女は、目の前の人物を見上げて驚いた。間近にある彼の肌は、遠目で見ていたよりも余計に白く、乳酒の上澄みのように透き通っている。もしかすると、彼の身体の向こう側が透けて覗けてしまうのではないかと思ったほどだ。切れの長い目は、ともすれば険さえ含んでいる印象を持つが、すっきりと伸びた鼻梁の下にたたえられた静かな微笑が、彼の纏う空気をいくらか緩和させていた。
 ユンフォアの目から見ても、彼の容貌の精悍さは明らかだった。村にも娘たちから騒がれている男たちがいたが、彼らと比較するにはあまりにも次元が違いすぎた。
 ユンフォアは声を失ったまま、まじまじと男の貌を見つめる。不躾な視線にも関わらず、彼は少女を咎めはしなかった。代わりに男は、「迷子かい?」と今度ははっきり、ユンフォアに向かって尋ねる。自失から立ち直ったユンフォアは、慌てて首肯した。
「……近く、の林で茸を採っているうちに、皆とはぐれてしまったみたいで」
 ユンフォアは、手にしていた籠を彼の目にさらした。蔦でつくられた籠の中では、まるく傘を広げた茸が無造作に転がっている。
「なるほど」
 籠の中身を検分して、男は顎に手をやった。何やら自分と籠の茸を交互に見比べ始めた男の視線に、ユンフォアは訳の分からぬ焦燥に襲われる。彼女は突きだした両手を振りながら、弁解した。
「――あ、あの、だから、違うんです。覗こうと思っていたわけではないんです。決して。この林は思っているよりも小さいから、……母さんがそう言っていて、だから、迷ったらまっすぐ進みなさいって。そうしたら、林の外に出るからって。外に出て林に沿って歩けば、絶対に村に帰りつけるからって。だから、私、林をくぐり抜けて、野に出たところで、……出たんですけど、すっごくあまい香りがしてきたから気になって、私」
「ここに辿りついたんだね?」
「あ、はい」
 ユンフォアは、こっくりと大きく頷いた。
 緊張しているせいか、心の臓が耳の奥でいやにうるさい。
 けれども、少女の危惧に反して、彼が口にしたのはユンフォアに対する労わりだった。
「林の中では、日が暮れると野犬が動き出して危ない。よく一人でここまで来られたね」
 和らいだ男の表情に、ユンフォアは反射的に泣き出しそうになった。
 彼は空を見渡す。淡蒼の端には、すでに橙が滲み、気の早い星が白々と輝き始めている。こうなると、陽が落ちるまではあっという間だ。男は、少女に目を落とすと言う。
「じきに外は闇に包まれる。今から村に帰るのは危険だろう。安心なさい。一晩ここに泊ってゆくといい」
 男は首を傾け、「どうだろうか」と彼女に問うた。同時に、彼の紺色の髪が絹を広げるように、肩を滑り落る。
 ユンフォアは、目を丸くした。
 幽艶さに満ちる微笑は匂い立つほど美しく、幼い少女の目を引きつけるにもきっと充分すぎたのだ。