05



「勝手だわ。カセンのせいにするなんて。彼女は自ら望んでここに来たはずよ」
 証拠に女はカセンに捕らわれてなどいない。互いに向かい合う二人を目の当たりにしたからこそ、ユンフォアは常と同じくあの日も逃げ出したのだ。
 ユンフォアは、茶壺から杯に茶を注ぐ。腹を立てていたせいか、動作がぞんざいになったらしい。勢いよく杯に注ぎこまれた茶がいくらか飛沫をあげた。彼女は杯の一つをカセンに手渡すと、手巾で台に零れた茶を拭く。
「ユンフォアが怒るなんて不思議な話だね」
「カセンが無頓着すぎるのよ。あんなこと言われて放っておくなんて。追い返してしまえばよかったのに」
 カセンは微苦笑して、茶に口を付ける。
「気にすることはないよ。彼も気が済めば、そのうち帰るだろう」
 そうかしら、とユンフォアは納得のいかない気持ちで茶を口にした。身の内を下る茶は怒りをいくらか和らげる。だが、対して湧きあがった言いようのない不安に、彼女は落ち着かない気持ちになった。
 ウジェンと名乗った男は近くの街から恋人を探しに来たと言う。しかしユンフォアにしてみれば、それほど胡散臭い話はなかった。この辺りに街は存在しない。せいぜいいくつかの村が集落のように寄り添っているだけだ。それが、近くの村で生まれ育ったユンフォアが知る事実。
 嘘をついているのだ、とユンフォアはウジェンを訝しんだ。だが、そう括ってしまうには彼が語った“リィ”の特徴は先日垣間見た女に酷似しすぎていた。だから、彼の言うリィが屋敷に来たのは間違いがないのだろう。かと言って、彼女が帰らぬ理由をカセンになすりつけるのは門違いも甚だしい。
 ユンフォアはそう主張したのだが、見つけるまで帰らないと言い張るウジェンの滞在を、カセンはあっさりと許してしまった。今もウジェンは勝手に屋敷中を探し回っている。
 ユンフォアは残りの茶を一気に飲み干した。カセンは不思議そうに彼女を見やる。
「どうかした?」
「やっぱり放っておけない」
 空になった杯を卓に置く。ユンフォアは「追い出してくるわ」と部屋を飛び出した。

 屋敷中を駆け回ったユンフォアが、ウジェンを見つけたのは庭の中だった。花を乱雑に掻き分けている男の姿に、彼女は血の気が引く。
「――いい加減にしてちょうだいっ!」
 ユンフォアは花を荒らす男の手を引き掴んだ。力の限り引っ張ったというのに、彼の腕はびくともしない。けれども驚いたのか、手を止めたウジェンは顔を上げた。
「いないって言ったでしょう!? なのに、どうしてこんなことを……!」
 顔を歪めて叫ぶ女に、ウジェンは目を瞠る。だが、彼はすぐさまユンフォアを睨み返した。
「リィを返せ! 本当は知っているんだろう」
「とっくに帰ったわよ。あれ以来一度も来ていないわ」
 そんなはずはない、と彼は言い募る。
「リィは左足が悪かった。街の外れからここまでリィが引きずった跡を辿って来た。足跡は行き一つ分しかなかった。絶対にまだここにいる」
「だから何だって言うの。そんな話信じられない。恋人が心変わりしたのはあなたの責任でしょう。ここに来たってだけで、カセンのせいにしないで。カセンの庭を壊さないでっ!」
 ユンフォアは力任せにウジェンの胸を叩いた。彼は言われて初めて辺りの現状に気付く。薙ぎ倒された花。そこに華やかさは一切ない。
「出て行って。今すぐここから出て行って。これ以上は許せない」
 怒りながら涙を流し始めたユンフォアを前に、ウジェンの憤りは殺がれた。彼は、彼女から視線を逸す。
「悪かった。……だけど、まだ帰れない」
 ユンフォアは彼を睨みつける。甘んじてそれを受けながらウジェンは踵を返した。
 遠のく足音。ユンフォアは、その場にへたり込む。カセンの育てた花。無数の記憶と共に、ずっと傍らにあった花。庭の片隅だけとはいえ、こんな姿を見るのは、初めてだった。
 無残に広がる花の中、彼女は一人、涙した。



 ユンフォアが帰路についた後、ウジェンは再び花に囲まれた庭に降り立った。屋敷はすでに隅まで探し終えている。残すはリィがいたというこの場所のみ。
 明るい月が庭を照らし出す。足元を覆う花々は淡光に包まれ、どれも奇妙に浮きあがっていた。ウジェンは昼に辿った場所から順に、花を傷つけぬよう丹念に根元を探って行く。柔らかな地面には左足を引きずるリィの特徴的な足跡が克明に刻まれていた。
 彼は額に浮きあがった汗を拭う。見渡す限り彼女の姿はどこにもない。最悪の事態を考えていないわけではなかった。ただ些細なものでも、リィがどうなったのか痕跡が欲しかったのだ。
 ウジェンは来る日も来る日も、ユンフォアが屋敷を離れる夜に庭を探索し続けた。日が経つにつれ掠れていく足跡。しかし、びっしりと植えられた花々が、吹きつける風から地に残った彼女の足跡を辛うじて守り続けた。
 彼は感謝の念を抱きながら、花を手繰り避けた。現れた夜に溶け込む紫の花。見出したものに、男は声を失った。



「まだいたの?」
 屋敷に着くなり出くわした男の姿に、ユンフォアは顔を顰めた。あからさまな彼女の態度にウジェンは怒るでもなく、ユンフォアの手を掴む。
「待て、ユンフォア。行かない方がいい。早くここから出ろ」
「何を言っているの? 離してっ!」
 ユンフォアは思い切り腕を振り上げる。しかし、ウジェンは手を離さなかった。「見ろ」と彼は懐から銀細工の耳飾りを取り出す。
「俺がリィに渡したものだ。この庭に落ちていた」
「どうせ彼女がここに来た時にでも落としたのでしょう」
「違う。これがあった場所が問題なんだ。リィがあの男と会っていたのは、あの辺りなんだろう?」
 ウジェンは一方向を指差す。軽い驚きを覚えながら、ユンフォアは彼の示した場所に同意した。彼の指が示した場所は、女が佇んでいた場所と寸分違わなかった。
「あそこでリィの足跡が途切れた」
「それのどこが問題なの。あの場所に立っていたのだから、途切れていて当り前じゃない」
 いや、とウジェンは首を振る。
「前にも言ったが、俺が辿って来た足跡にリィが折り返した形跡はない。それに途切れ方が妙すぎる。普通、自分から動かなくても跡は残る。例えば、手を引かれれば足跡は掠れるし、抱えあげられたとしても足が離れて行く過程で重みが前後どちらかに傾く。その分の跡は必ず残る。これほど柔らかな土の上なら猶更だ。なのに、そういった跡がまるでない。ただ立ち止まった跡があるだけだ。その場で蒸発でもしない限り、絶対にそんな風にはならない。リィは消されたんだ」
 真剣に言い募るウジェンから、ユンフォアは顔を背けた。
「……知らないわ。ふざけるのもいい加減にして」
「どうして分からないっ!」
 ウジェンは忌々しげに舌を打つ。掴んでいた腕を引き、彼女を引き寄せた。いとも簡単に安定を崩したユンフォアの肩を抱き込んで、ウジェンは彼女に耳打つ。
「いいか、二度とここには来るな。もう誰もリィの二の舞にさせるわけにはいかない。あの男には気をつけた方がいい」
 言い終えると同時にウジェンは、ユンフォアを茂み側へ勢いよく突き飛ばした。尻もちをついたユンフォアは、鈍痛に思わず目をつむる。次に目を開いた瞬間、飛び込んできた光景に彼女は「カセン!」と悲鳴を上げた。
 すらりと抜き放たれたウジェンの太刀。切っ先は、いつ来たのかカセンの胸元に添えられていた。カセンは冷やかな目でそれを一瞥する。
「いきなさい、ユンフォア。さぁ!」
 カセンの声の鋭さに、ユンフォアはびくりと肩を跳ねさせる。彼女の足は彼の言葉に忠実だった。ユンフォアの心とは裏腹に、足はもつれながらも走り出す。
 娘は息も切れ切れに野を駆けた。林に入ったところで、ようやく失速し始めた足が止まる。肩で息をしたまま、彼女はがくがくと笑う膝に手をついた。
「どうして……?」
 ユンフォアは、信じられない思いで背後を振り返る。見えるのは木立ばかり。背筋を冷たいものが這った。
 その後、屋敷に戻ろうと道を引き返したはずのユンフォアは、あの日以来、初めて林で道に迷うことになったのだ。