et cetera, et cetera



「ユンフォア」

 思いがけず呼びかけられて彼女は驚いた。度々どこかへ出かける彼女の行動を村人たちは声に出さずとも快くは思っていない。近頃では、ユンフォアが村の外へ出ようとするとあからさまに非難めいた眼差しを向ける者も出てきた。だから、彼女は出来る限り目立たぬよう、ひっそりと出かけるようにしていた。
 この日も、木の実拾いを口実に家を出てきたのだ。
 だから、足早に村を抜けて林に入った直後、背後から声をかけられたのはユンフォアには予想外だった。
「トクタク?」 
 どうしたの、と問いかければ、二つ年下の青年は無言で間を詰め始める。歩いてくるトクタクを待ちながら、ユンフォアは『大きくなったわ』と感慨深く思った。別段、家が近いわけでもないのに、小さい頃トクタクはユンフォアの後をついて回ることが多かった。それは、ユンフォアがあの花園に通い始めて以降、林中で迷子になっていたトクタクを幾度か助けて村に連れ帰ったことがあったからかもしれない。
 若木みたいにいつの間にか成長していった青年は、ユンフォアよりも頭二つ分背が高くなった。泣き言ひとつ言わず懸命に働くようになったせいか肌はよく日に焼けている。肩幅も広くなって、なかば猫背ではあるが、しっかりと身の締まってきた体格は子どもの時分の名残すら見えず、頼もしく思えた。
「どうかしたの?」
 ユンフォアは、慈愛に満ちた眼差しでトクタクを促す。心はいつになく穏やかで、かつ、どこか焦燥めいた胸騒ぎが彼女の身の内を取り巻いていた。これからトクタクが口にするだろう言葉に半ば予想がついていたからかもしれない。
 果たしてほんの僅かな沈黙の後、彼が口にした言葉はユンフォアの予想通りで。「好きなんだ」と何の飾り気もなく告げられた思慕に、ユンフォアは困った風に微笑した。
 トクタク、とユンフォアは、煩く飛び跳ねる鼓動に耳を傾けながら、ささめいた。
 彼は硬直させた顔をユンフォアに向け、けれども、すぐに視線を逸らして地面の石ころを惑いながら睨みつける。その癖だけは昔から変わらず、ユンフォアが痛みを感じるには充分であった。ほんの少し。他者から見れば、身勝手な僅かな痛みでしかなかっただろうが。
 ユンフォアは、優しく微笑を形づくった。
「私は娘だから、トクタク。私、一人ではとても決められるものじゃないわ」
 婚姻は家同士のものだというのは、彼女たちにとっては常識で、だからこそ打診は相手の家の長にしなければならない。そう彼女は暗に告げて、純粋さゆえにユンフォアの意思を尊重しに来てくれた青年の頬に、掌を寄せた。
「私はまだ聞かなかったことにするから。ね?」
 徐々に顔を赤らた青年は、寄せられたユンフォアの掌に自身の手を添え返し、頷く。
「近い内に、家に行くから」
 迷いなく真っ直ぐに見据えられた目。自分には到底真似できないその純朴さに一種の憧憬を感じながら、ユンフォアは昏い眼差しを返した。


****


 林を抜けて、野を越える。
「カセン!」
 呼びかけると振り返るその存在に、ユンフォアは息を弾ませ駆け寄った。
 するとこの花園の主は、紺色の双眸を細く崩して、そよ風のように音もなく苦笑した。
「ユンフォア、葉がついているよ」
 男は、細い指先で娘の前髪を払う。額を辿った髪の感触に、ユンフォアは震えた。どうしようもなく触れてしまいたくなる衝動を彼女は抑え込む。ごまかすようにユンフォアは彼の袖を引いた。
 あと少し。あと少しなの。
 どうしたのか、と首を傾げるカセンに、ユンフォアは首を振る。
「なんでもないの。少しだけよいことが……よいことが起こるかもしれないの」
 ユンフォアは、カセンを見上げて告げた。花の芳香が辺りで増す。
 自ら望んで花に成り変わった者たち。あらがうことは許されず草に変えられた者たち。彼が慈しむ、そのすべてから咎められる予感に駆られながらも、ユンフォアはカセンを見つめて笑んだ。
「そう」
 カセンは、淡然と首を傾ける。さらりと風に遊ばれた長い紺髪はそのままに、彼はユンフォアの手を手繰った。
「お茶を淹れてくれないかい?」
「ええ」
 カセンに手をひかれてユンフォアは花園の端にある屋敷へ向かう。風に揺れる無数の花たち。思い思いに自らを彩る花から目を逸らして、ユンフォアは先を行く男の背ばかりを追う。
 随分と歳を取ってしまった。何も気にしないでよかった少女の頃のようにただ無心に想い続けることは不可能だ。今だって本当はどうしたらよいのか分からない。どうしたら受け入れてもらえるのか。彼女が辛うじて手にしたのは、受け入れさせる方法だけだ。
「よいことが、起こるといいね」
 不意にカセンは言った。
 ユンフォアは止まってしまった息を継ぐ。同時に、ふと願いが叶う瞬間を思い描いてしまって彼女は目を伏せた。それが本当によいことなのか、ユンフォアには判断がつかない。少なくとも周囲の者はそうは想わないだろう。彼女を愛してくれた人たちはそれを望みはしないだろう。
 知ってはいても、ユンフォアは首肯する。
「ええ」
 それだけが、彼女が知り得た唯一の方法だったから。
 ええ、と娘は幸福な一瞬を待ち焦がれて首肯する。
 あと少し。まだ少し。
 残した穏やかな時間を。これから手放す微かな時間を。今はまだ、ユンフォアは胸の奥底に沈めた。